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MyエシカルとMy戒定慧、仏教とトランジション(エシカル100考、21/100)

『トランジション 何があっても生きていける方法』の出版記念イベント@神谷町・光明寺に参加。初夏の小雨降る夜、お寺で知的刺激と美味しい和菓子(と日本酒)と東京タワーという贅沢さを楽しみました。

松本紹圭さんのお話しはいつも優しく示唆に富んでますが、三浦祥敬さんとの対談の中で出たCultureとCultの差異、Post-religionのお話しは特に印象に残りました。両方ともラテン語の「Colere(耕す、手入れする)」が語源。

良き習慣(仏教でいう戒定慧の戒)を続けること、そういった習慣の積み重ねで一人ひとりの文化ができること、その文化をWell-beingとしていくこと、というお話しがありました。そこから考えると、Cultureは個々人が自律して悟りへの道を考え実践していくこと、自らの仏性を開発(かいほつ)していくこと、My戒定慧を行うことの集積なのかなと思います。

Cultは自立がなく、教祖役の慧をすべてとし(これが正解だ!みたいに)、思考停止して自律した戒がない・・みたいな。「わが社の社風は」と経営者が言い、社員がそれを唱和するのは教祖に慧を与えられて一人ひとりの戒定慧がないという点でCultになる(単純化しすぎだけど)。

これは、松本さんも関わってくださっているエシカルと似ています。エシカルは人それぞれの「私と社会の関わり方」なので、これが正解のエシカルの道だ!はない。個々人が自律してMyエシカルを考え、「私は社会とこう関わっていきます」と言明して、生きて(=実践して、習慣化して)いくしかない。

エシカルでも、エシカルブランドなどを妄信して、それを買っていればエシカルだと思う思考停止な態度は、CultureではなくCultでしょう。

MyエシカルとMy戒定慧というのは、目指すものがより良き未来か悟りかという違いはあるけれども、似ているんじゃないかなと思います。

また松本さんはPost-religionについて「ReligionではないがSpiritualである」人の世界的な増加についてお話しされていました。これはこれからの人間にとって大切になってくるテーマかと。

スピリチュアルについては、以前同じく光明寺でお話しを聞いた音楽療法士の佐藤由美子さんがご著書の『死に逝く人は何を想うのか』で使われていたSpiritualityという言葉の方がよりしっくりきます。大江健三郎の文学にあわられる「神なき者の祈り」にも近いと思う。またSDGsとからめて、自然の一部としての人間という霊性とか、人間と自然の調和みたいな感じもそうかな。

資本主義社会というか消費社会の中で人の人間性が摩耗し果て、その回復が自然の回復とともに大切になるこれからの時代に、さらにAIと人間の差異が取りざたされるシンギュラリティ後の時代に、Spiritualityというものは軽視するものではなく、そのためのMy戒定慧と良き習慣づくりは肝要なのかと思いました。

最後に、松本さんが「お寺は良き習慣の道場」とおっしゃっていたのがとても面白かった。このお寺を別のもの・組織に変化させるとどうなるだろう。
「会社は良き習慣の道場」とか「パラレルキャリアは良き習慣の道場」とか。。ここら辺は思考の遊びだけど、何か得られそうな遊びな気がします。。

とりあえず光明寺さんの(もしくは他のお寺の)Temple Morningに行ってお掃除せねば。。。

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