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トイレットペーパー4考(エシカル100考、84/100)

その1。

人類の、お尻を拭きたいという欲望と、コトを成した後にお尻を現状復帰できないことへの恐怖は、二足歩行をはじめて数十万年経った西暦2020年代であっても克服できないらしい。

噂では、アルタミラにはお尻を拭けずに困りはてる部族長を描いた壁画があるとか、ないとか。

アントロポセン(人新世)という、人類の身勝手が地球環境を滅ぼせる時代に入るにあたり、そろそろアルタミラの頃から進化を遂げてもよいだろう。

その際に問題なのは、まず克服すべきなのは「お尻を拭きたいという欲望」なのか、「お尻を現状復帰できないことへの恐怖」なのかということである。

欲望と恐怖はよく似ている。しかし、同じものではない。

欲望というプラスの情動を克服するには、首相からお尻を拭かぬように要請を出し、「お尻拭きたがりません、勝つまでは」などの標語を導入して五人組などで相互監視するなどのアプローチが必要となる。

個性の自立や多様性を貴ぶ2020年代には、あまり相応しくない。

一方、恐怖というマイナスの情動を克服するには、「お尻を現状復帰できていないあなたも、そのままで素敵」と称えるとか、社会の不文律によって奪われていた「コトを成した後でお尻をそのままにしておく権利・選択肢」を認めていくなどのアプローチが考えられる。

こちらは大変に2020年代的である。

というわけで、世界各地でおこるトイレットペーパーの買い占め協奏曲ならびにトイレ紙を貪りたがる民草をお嘆きになる進歩開明派諸氏は、「コトを成した後にお尻を現状復帰できないことへの恐怖」の克服を人類社会全体で成し遂げるために、積極的に「お尻を現状復帰しないという選択肢を獲得した私って素敵」をアピールして生活してくのがよかろうと思う。

おそらく、いにしえの竹林の七賢あたりはこの恐怖は克服していただろう。きっとみんなお尻臭かったよ。


その2。

買い物の原型は何か、と考えると、それは狩猟である。

食料となる獲物を的確に狩るために、用意周到に時間や場所を研究し、情報を入手し、己の行動計画を練り、決然と立ち回り、ライバルであるハンターを出し抜き、獲物を得る。

本来は買い物も、どの市に行くと何をいくらで売っているのかわからないところから行動し、交渉の末に欲しいものを手に入れるという、狩猟的行為だったはずだ。

しかしながら、近年の大量生産・大量消費・大量廃棄社会において、商品というのは過剰供給されている。

売る側は、廃棄ロスより機会ロス(お客が買いたいと思って来店したときに商品がない)を悪とし、とにかくいつ来ても商品があるように、棚を盛り盛りにして24時間366日にこやかにお客様をお待ちしている。

こうなると、買い物は狩猟とはいえなくなる。いつだって行けば獲物がそこにあるのだから。

人間の、食料などの獲物を得るための本能は摩耗していく。周囲に気を配り、情報をあつめて己の知識・経験・直観にもとづいて判断をし、といったことが衰えていく。

結果、気候危機で明らかに身の回りの環境もおかしいのに、ピンとこず危機感も感じない、のっぺりした生き物が出来上がる。

しかし、売り切れだの買い物だのが多発すると、とたんに買い物は狩猟となる。

今までは家でぼんやりTVの再放送を見続けていたおじいさんがシャキっとして、山に芝刈りにいっていた過去が蘇り、スーパーの開店時間とともに決然とトイレットペーパーを籠にいれ、意気揚々とおばあさんの元に持ち帰るのだ。芝刈りは狩猟じゃないけど、まあそういうことなのだ。

そして、狩猟というのはゲーム性がある。ゲームというのは楽しい。

もう十分にトイレットペーパーがあるだろう方々が、今もってスーパー数店舗を巡って何ロールもを買い入れたがるのは、人間の本能を刺激する狩猟という楽しみを再発見してしまったからではないか、と思ったりする。

狩猟の楽しみに目覚めた方たちからトイレットペーパーを守らないと、朱鷺のように絶滅しかねない、、と心配するなら、代替物を考えないといけない。

何がいいんだろう。オリンピックが延期になったら、街中にあふれている「TOKYO2020」と書かれた広報物を回収してきてもらい、代わりに何かご褒美をあげるとかか?

それより、捨てられているプラスチックゴミを集めることをゲーム化した方が楽しいかも。そう、ゴミ拾いはけっこう楽しいし、運動になるよ。


その3。

トイレットペーパーの買い占めは、「ええじゃないか」現象というか、閉塞感に対して憂さばらしがしたくて、取り合えず低リスク低価格なものの消費に走り、なんかやった感を得て満足安心する・・・とかなのかとか思う。

VUCA極まる世情では、動かないのも不安、でもどう動いていいのか正解不正解がわからず不安。

そんな中、絶対確実で、かつコストというか投資も小さくて済む、誰もができることが、トイレットペーパーを買っておくこと、なんじゃないのかな。

不安や不満が解消されたと、自分自身をだますにはちょうどいい。

コロナ騒ぎが収束しました!という宣言が出された日には、喜びと安堵感と開放感に沸いて世界各地の家やマンションやビルの窓から長い長い白い白い紙吹雪みたいにトイレットペーパーが投げられて、地球がホータイぐるぐる巻きになったりするかも、とか妄想をする。


その4。

不安になったときについ買い貯めしてしまうものに文化が出る、という話しがある。コロナ騒ぎでイタリアではまずパスタ類が、ドイツではまずソーセージが買い占められたらしい。

で、アメリカでは銃弾が大量に買われているという、本当かウソかわからないニュースを読んだ。

これ、真偽のほどはわからないんだけど、緊急時の買い占めというのは「イザという時」に備えて行われるもので、とすると銃弾も「イザという時」のために買われているわけですよね。

「イザという時」って、どんな時?

より具体的にいうと、じゃあ買った銃弾は誰にむけて撃たれるのか、ということ。

2パターンあると思って、まずコロナウィルスに罹患した他人に向けて撃つケース。ゾンビ映画のイメージなんだろうけど、自分にウィルスを伝染させる可能性のある他者に向けて、自衛のために銃を撃つ。

もう1つが、自分に向けて撃つケース。自身がコロナウィルスに罹ってしまいもうヤバい、このままじゃ助からないし、周囲にもウィルスをバラまいてしまう、というときに、自決するために銃を撃つ。

まあアメリカだし、前者なんだろうけど。

僕は最初にこのニュースを読んだときに、後者を思い浮かべてしまった。「ウィルスに伝染してしまった、、このままでは周囲の人や大事な人を襲ってしまうかもしれない、、、いっそそうなる前に自らの手で、、、」みたいな。。

これは切腹神話みたなものがあり自殺率がとっても高い日本文化にとらわれている証拠なのかな、、とか。

あと、しょーもないアニメとかの見過ぎか、、。よくあるよね、そういうシーン。

どうでもいいですが、もしコロナウィルスに罹患したとして、ウィルスの宿主(罹患した人)が死んだとしてもウィルスも一緒に死に絶えたりはしないよね。。


以上、トイレットペーパーにまつわる妄言駄文でした。

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