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過去と未来に思いを馳せる「記憶の旅」〜4年ぶりの岡山取材に寄せて

 今年の始動は、例年になく遅かった──。
 元日の天皇杯決勝を取材して以降、高校選手権の現場にもキャンプ地にも行かず、1月はずっと東京でくすぶっていた。その後、2月8日に開催されたゼロックスまで、ずっと取材現場とはご無沙汰。企画していた案件もことごとく流れてしまい、今年最初の地方取材となったのが、2月18日と19日の岡山取材であった。

 もっとも今回の岡山取材は、OWL Magazineで言うところの「旅とフットボール」とはほど遠いものであった。今回の取材対象はファジアーノ岡山だったが、フロント寄りのテーマであったため、インタビューを行ったのは市内のホテルと政田のクラブハウスのみ。観光をする時間もなかったし、地元の名物をいただくチャンスもなかった(とはいえ取材そのものは、とても充実したものであった)。

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 人口70万人の政令指定都市である岡山は、新幹線のぞみが停車する山陽の中心都市のひとつであり、中四国を結ぶクロスポイントでもある。すなわち「交通の要衝」であるわけだが、それはすなわち「通り過ぎる街」を意味する。関東でいえば大宮、九州でいえば鳥栖。これら「通り過ぎる街」に、いずれもJクラブがあるというのは、実に興味深い事実である。そして2004年に誕生したファジアーノ岡山は、その5年後の09年に晴れてJクラブとなって今に至っている。

 そんなファジアーノを、私が初めて取材したのは2006年の1月。何と、今から14年前の話である。きっかけは、今はなき専門誌『サッカーJ+(ジェイプラス)』にて、各地域リーグから将来のJリーグ入りを目指すクラブを取材する『股旅フットボール』という連載を持っていたからだ。この雑誌は季刊だったため、シーズン開幕から3カ月も前のタイミングで岡山を訪れることになった。

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 これがその時の写真である。当時は岡山市内にトレーニング施設がなく、倉敷市の工業地帯近くにある土のグラウンドで、夜間に練習が行われた。岡山からどうやってアクセスすればいいのか、途方に暮れていた私を車で運んでくれたのは、ファジアーノの初代監督だった山下立次さん。今回の取材では、残念ながらお目にかかれなかったが、今もお元気だろうか。

 06年といえば、ファジアーノは中国リーグで活動しており、NPO法人による手弁当状態で運営されていた。のちにJリーグの専務理事に引き抜かれることになる、伝説的なカリスマ社長の木村正明さんが登場するのが、この年の7月。ゴールドマン・サックスの執行役員というポジションを捨てて、上から数えて4部の地方クラブの社長に就任するというのは、今考えても「狂気の沙汰」としか思えない。が、ゴールドマンでは「アーリーリタイアを競い合う」文化があり、木村さんの中では必然性があったようだ。

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 そんな木村さんと初めて出会ったのが、07年の地域決勝。広島で開催された1次ラウンドの会場であった。木村さんの就任以前、クラブのスポンサーはわずか6社で収入は200万円。ところが06年にクラブを株式会社化し、木村さんが社長に就任すると、スポンサーは180社を超えて年間収入を9000万円に引き上げた。そのプロセスについて、広島スタジアムのスタンドで私に淡々と語る木村さん。地域リーグの取材で「只者ではない」人に出会ったのは、この時が初めてだったかもしれない。

 この年の地域決勝で、ファジアーノ岡山は優勝し、見事JFLに昇格。「ここで上がれなかったら来年はない」と考えていた木村さんは、昇格が決まった瞬間に人目をはばかることなく号泣していた。「只者ではない」木村さんは、極めて人間的な一面も持ち合わせていたのである。あとで話を聞いたら、ゴールドマン時代に気の遠くなるような金額を動かしていたときよりも、昇格が決まるかどうかの後半45分間のほうがドキドキしたそうだ。

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 翌08年、ファジアーノはJFLを4位でフィニッシュし、翌年のJ2昇格を決める。だが、この時の木村社長には、喜びよりも不安のほうが大きかったという。「せめてもう1年、JFLで足踏みしている間に、クラブの存在を地域に浸透させたかった」からだ。加えてクラブの体力面でも、チームの戦力面でも、ファジアーノ岡山は他のJ2クラブに比べてはるかに見劣りした。結果、J2のルーキーイヤーとなる09年は、51試合を戦って8勝12分け31敗、得失点差−44でダントツの最下位に終わった。

 実は初めてのJ2に臨むにあたり、木村さんはシーズン開幕前から「今年は負けることを前提にした試合運営をしていく」と宣言している。当時のJ2はまだ降格制度がなかったため、成績を気にする必要がなかった。ファンに勝利を届けられないのであれば、試合会場に来場したお客様に何を提供すればよいだろうか? そうした発想から生まれたのが「ファジフーズ」と呼ばれる、岡山名物のスタグルコーナー。このほかにも、集客のための施策を次々と打ち出すことで、ファジアーノは勝敗に左右されないクラブへと成長していく。

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 最後にファジアーノのホームゲームを取材したのは、今から4年前の16年。この時も木村さんに、じっくりとお話をうかがう機会をいただくことができた(参照)。この年のファジアーノは、過去最高の6位でフィニッシュ。初めて挑むJ1昇格プレーオフでは決勝に進出している(残念ながらセレッソ大阪に0−1で敗戦)。一方でホームゲームの平均入場者数は、長年の目標であった1万人を達成。成績面でも運営面でも、これまでにない高みを経験することとなる。それから2年後の18年、木村さんは岡山を去ることとなった。

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