死の実感について

 作家で政治家、東京都知事だった・石原慎太郎氏には、密かに書き継いでゐた自伝があった。「密かに」といふのは、自分の妻や子供たちにも絶対の秘密にしてゐたといふ意味だ。
 さらに、この自伝は、本人と奥さんの死後に出版せよといふ条件が科されていた。

 本人だけでなく、奥さんの死後も条件に入れたのは、
私の人生の過半は、のろけではなしに妻の背に負うたものだ
と書いてゐるとほり、石原氏も結婚した女性を母親代はりにして、その女性の乳房を吸ひ、走って転んだときには抱き起して泣き止むまでだっこしてもらひ、足がおぼつかなくなってきた老年にはおんぶしてもらって、やうやく生きてこれた男性だったからだ。

 これは、現在、老人となってゐる男性たちの夫婦生活の実体としては珍しいものではない。

 石原氏は体調の不良を感じて病院に行ったところ、医師から余命三ヶ月と告げられた。
 石原氏は愕然としたらしい。

 告知を受けて以来、私の神経は引き裂かれた
と、死の直前の手記には書かれてゐる。
 少なくとも還暦を過ぎた老人が
「あんたは、もう、死ぬ」
と言はれて驚くのは、妙だ。

 石原氏は目の前が真っ白になるくらゐ、驚愕したやうだ。これは、どうしてかといふと、やはり、死の恐怖のためだったのだらう。
 石原氏は手記の中で、「私の文学の主題は死だった」と書いてゐるが、それはいつも他人の死のことだった。

 石原氏は、自伝の終盤で、死についてあれこれと書いてゐる。
 その中にこっそりと、死後の生は信じられないが、なにか、未知のものがあるに違ひないといふ思ひも挟み込んでゐる。

 未知のものがあるといふ態度は、わたしもよくとるのだが、不死に対する隠された願望だ。別に気取る必要が無い・一般の人なら、素直に「死んでも命がありますように!」と言ふところだ。

 石原氏は、老年に入る前は、この世界には「自分」しかなくて、世界とはその自分が投射する幻影と変はりないもの、といふ認識だった。
 まだ若い頃には、自分が死んだ瞬間に、客観世界である宇宙が消えても問題ないといふ意味のことを言ってゐた。


 三島由紀夫氏との対談(『守るべきものの価値―われわれは何を選択するか』1969年)から、石原慎太郎氏の発言を三島氏のものと共に引用する。

 石原 やはり三島さんのなかに三島さん以外の人がいるんですね
 三島 そうです、もちろんです。
 石原 ぼくにはそれがいけないんだ。
 三島 あなたのほうが自我意識が強いんですよ。(笑)
 石原 そりゃア、もちろんです。ぼくはぼくしかいないんだもの。ぼくはやはり守るものぼくしかいないと思う。
 三島 身を守るいうことは卑しい思想だよ。
 石原 守るのじゃない、示すのだ。かけがえない自分の時をすべてに対立させて。
 三島 絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
 石原 身を守るということが?・・・・ぼくは違うと思う。
 三島 そういうの、ぼくは非常にきらいなんだ。
 石原 自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。かけがえのない価値だって自分しかない
 三島 そんなことはない。

 

 若い人にとっては、死んで何もなくなる、それがどうした?といふ感じだと思ふ。
 若いということは、「自分がいつかは老いる」といふことを実感できない時間の中に生きるといふことだ。いつか自分が死ぬなどといふことにいたっては、想像すらできない。
 
 いや、若い人こそ、すぐに死を口にするではないかといふ人がゐるかもしれない。
 若い人は、確かに、何かといふと、死といふ言葉を出す。
 それは、老人が死といふ言葉を出すべき場面でも、「他界した」などの婉曲表現を使はないではゐられないのと対極にある。
 若い人にとって、死は身体性を伴はず、完全な観念として語られるから、なんの実質もなく、軽い。愛とか平和とかいった言葉と同様、いくらでも、死とか死ぬとか死んだとか、口にできる。
 それが若者であるといふことだ。

 石原慎太郎氏は、自分が老人になっても、死の実感を感じられない人だった。余命三ヶ月と宣告されて、やっと、自分の目の前にある死が見えた。

 そんな人だったから、三島由紀夫氏が亡くなったとき、
「小説が書けなくなって死んだ」
と断定してゐた。
 本にも書いてゐるし、
 「ひどい文章になってゐて、ぼくは、読んでゐて涙が出たよ」
と、わざとらしい・憐れむやうな表情をして語ってゐる動画もある。

 どうして、かういふ人が作家として通用したのか、わたしにはわからない。


 

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