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異文化理解と他者理解について

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タイトルにある「異文化理解と他者理解について」早速、自分の考えを語っていきたいと思います!

プロフィールにある通り、私は青年海外協力隊員として、インドで2年間活動しておりました。

どのような、活動をしていたかは追々語っていきたいと思いますが、「インド」という国で沢山の(本当に沢山…)方々と出会い、触れ合うことで得たことを伝えたいと思います。

まず、私が行った2年間のうち初めの1年間は今まで自分が築き上げてきた「常識」とのぶつかり合いでした。どういうことかというと、ご想像のとおり言葉も気候も違う土地での生活は日本人の私にとって当時は鮮烈な経験の日々だったからです。言葉と気候が違えば、衣食住、文化も異なります。最初の1年間は、「初めての経験」に対して私はいつも「いや、日本では違うんだよ。」とか「おいおい…何それ?」とか毎回そんな気持ちで、目の前の現実に残念な気持ちや、悲しい気持ちになっていました。

しかし1年が過ぎた頃、残りの任期も意識してなのか、心持ちが変わり始めました。

毎日のように起きるハプニングに、自分の理想をぶつけネガティブな感情になるのではなく、「ほほほ!そうくるか!」とワクワクするような、「こりゃ、ネタ(体験談)になる!」とか「求めようにも日本じゃ味わえんぞ!」とか思って毎日笑って過ごしていました。

一番分かりやすく言うと、出会う人すべてのインド人が私の知り得ない新しい常識をぶち込まれ、半径500km圏内に日本人知人すらいない私は、もう既に一人で太刀打ちできない状況だったんですね。

だって、人口13億人のインド人がもつ常識と、2億人に満たない日本人の私の常識(当時の私は、インドという国に対してたった一人の日本人代表のような気持ちで抵抗していました)では世界規模で見てもどれほどの常識なのかを悟ったからです。

それからは自分の常識をぶっ壊して、学ぶ毎日。

楽しくて楽しくてしょうがなかった毎日。

帰国後もその経験は活かされました。

日本全国から集まる協力隊訓練所の職員として勤務しているときに、「北から南、日本の中でも人柄や性格、全く異なる」ということに気づき、

インドで得た「異文化理解」は「他者理解」へと変わったのです。

マクロの視点で、インドと日本と見ていたものが「異文化理解」であり、ミクロの視点で捉えた日本の地域性は「他者理解」である。

自分とは異なるものを理解するということに変わりはなく、ただ見ている視点が違うに過ぎなかったんですね。

それからというものの、出くわす新発見に感情を左右されるのではなくまずは自分の持つ「常識」を疑って、目の前の現実を受け入れることが少しずつできてきました。

その時のパワーフレーズが「ああ、あなたはそうなのね」なんです。

不思議とこの言葉を浮かべると、自分を傷つける必要もなく他人も傷つけていない(相手がどう受け取るかは別ですが)。

そして、相手が必ずしも自分と同じでなくても良いのだ。

「それでいいのだ。」とバカボンのパパから後押しをしてもらっている気持ちにさえなりました。

自分の常識を守り、異なるものと争うことの無力さに気付いたんですね。それよりか、新しいことを学び、吸収し成長することに価値があると思ったんです。

だって、今あるものと、それとは異なるものを理解できたら、それだけで増えていますよね。

例えそれが、一方と片一方どうしで両極端なことだとしても、それは今より理解できる範囲が広がっているようにしか思えないんです。

まだまだ私は、
「異文化理解」だよ。そしてそれは、「他者理解」なんだよ。と上手に説明しきれませんが、

これからの時代、

特にこれからの日本において、

「他者が他者であること」を許容し、
「共存していく」ことが非常に重要になると思っています。

まずは、隣人から許し、
それから世界規模で見てみては如何でしょうか?

そうすれば、意外と簡単に

「自分が持つ常識は、他人にとっては非常識」なんだということに気がつくのではないでしょうか。

そして、自分も他人も違っていいのだと。

ただ、同じ地球に生けるものとして、進むべく道は同じなのだと。


長くなりましたが、本日は以上です!
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