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「マヌケな日本人」

「マヌケな人」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。

バナナの皮で足を滑らせ、電柱におもいきり頭をぶつける人、
ネズミに自分の食事を盗られ、追いかけた末に壁に顔をぶつけるネコ、
それとも、
増税メガネと揶揄され減税に急く某国の総理大臣。

私は自分事を含め広義の意味で以下のことを「間抜けな人」であると思っている。

・空気が読めない
・今さっきまでなら対応できたのに間に合わなかった
・その場しのぎの突貫工事的な処置で問題が再発してしまう

その根拠は「マヌケ」という字が結論を示しているからだ。

“マヌケ”の字が示すもの

さらっと前述の部分で漢字表記していたのだが、そもそも「マヌケ」は本来「間抜け」と書く。

「間」というのは古くから日本文化に根付くもので、「間が良い」「間に合う」「間を取る」など「間」で表す表現がいくつも存在する。

間とは、いろいろな意味合いで使われるが空間を含めた一室を表す言葉の「間」。
人との会話だけでなく、自分の話や話し方、歌と歌の緩急や強弱、抑揚など言葉のやり取りの間と間を表す言葉の「間」。
物理的な人と人との距離感を表す言葉の「間」など、
多岐に渡るところを見ると古来よりその感覚を重宝してきたことが伺える。
タイミング良く、時間(瞬間とは異なる意味での長い時間のこと)も合い、物理的な距離感が程よい。
要は、これらから外れてしまうと「間抜けなヤツ」になってしまう訳だ。

柔道における「間(ま)」とは

それほどまでにも「間」というものを日本人が昔から大切にしてきているのには、日本の伝統文化に強く根付いているからだと考える。

私は、柔道という日本発祥の武道を長年やっているなかで「間」に対する考えを構築してきた。
柔道から得た「間」の知恵として「間合い」がある。
柔道は組み合うことで技が施され、相手を投げることができる。
組み合うまでの時間と空間、組んだ後の相手との距離足の位置など、一定条件を満たした場合「間合いを得た」と言える。
私の場合、引手(相手の袖側を握る手)の位置と、釣手(相手の襟側を握る手)の位置、刈足(技に作用する足)が相手と相手の足の間にあることなど、施す技によってもそれぞれの間合いの条件は変わるが、自分の得意な間合いをどれだけ持っているかが、強さの度合いに比例しているといっても過言ではない。

目には見えないが確実に存在するものを説明することは非常に難しい。
自分の得意な間合いになっているかどうかということは「白と黒」「勝ちと負け」を表し、「生と死」を別つ明確な違いが存在するのだ。
相手と組み合ったなかで条件を満たし「間合いを得た」状態になると、「確実に仕留められる」という状況があるのだ。
その間合いになったとき、もう相手は逃げることができない。
修業年数や段位によっても異なり、特にこれは「三様の稽古」というまた別の教えが重要になってくるのだが、その話はまた今度にするとして簡単に言えば自分より実力が下の者との稽古において「間合いを得る」という感覚は非常に理解しやすく、この感覚を養うための一つの稽古法でもある。

例えば、柔道の修行年数が今年で29年となる私と修行年数が5年にも満たない中学生とが乱取(試合を想定した稽古)をしていると「間合いを得た状況」が長く続くのだ。
「それで大丈夫か?こっちは既にいつでも仕留められる準備ができているぞ」といった心境である。
しかし、相手はその状況に気づいていない。
自分が窮地に陥っていることに気づかずに、現状を放置して自分の技のことや組手ばかりに気をとられている。
これこそが正に「間合いを得た」状態なのだ。
相手に気づかれずに確実に仕留める状態をつくっていく。
まるで自然界でネズミがフクロウに気づかれず狩られるような状態である。

ネズミはフクロウの存在すら気が付かず、目の前の木の実や種をほお張ったり、毛づくろいしたりして最後は簡単に狩られてしまう。

これが自分と同じ者や、自分より強い者との稽古ではそう簡単にはいかない。
これも自然界に置き換えると非常に分かりやすいのだが、フクロウも獲物がキツネになればそう簡単に狩れないのと同じ原理だ。
人間とフクロウの違いといえば、フクロウは無理をしてキツネを取り続ける必要がないので、自分より格下の狩りやすいネズミを狩ることに切り替えるのだろう。
しかし、人間である修行者の場合は格下の相手ばかりとやっていても上達はしないので、同等もしくは格上の相手を稽古する場合は「間合いを得る」ということそのものが稽古の目的となり、稽古の指標となる。
このことは武道全般に通ずる感覚ではないかと推察している。

時代を遡って


日本の伝統文化とされるものや、茶道にも客人をもてなす為の「間」があり、華道にも花と花の「間」によって一つの作品を作り上げる。
能や歌舞伎などには役と役の台詞の呼吸の「間」があり、きっと柔道と同じような感覚があるのだろう。
古来、特に「和」という考え方が生まれ始めたころは色々なところでそれらを学んだ日本人が多かったのではないだろうか。
そういう間の取り方が分かる人がそこら中に溢れていたからこそ、間の取れない人を「あぁ、お前はなんて“間の抜けたヤツ”なんだ」と言ったのかもしれない。
間の取れる人は、そうではない人からすると、驚きと感動に包まれきっと尊敬されていたのだろう。
「あの人はなんて機転の利く人なのだろう」きっと、そうやって昔の人は自分の周りの人から刺激を受けながら、見様見真似で憧れに近づいていったのだと思う。

現代は…


時間軸を現代に戻してみると、資本主義による競争社会と近代化によって日本古来の伝統文化はすっかりと姿を変えてしまった。
特に第二次世界大戦での敗戦は大きな影響を与え現代まで残っているとはいえども、資本主義の流れには逆らえず衰退してしまった伝統や、商業化によって変容した結果、全くの別物に変わってしまったものなど少なくはない。
柔道もその一つで礼法のなかに「人の前を横切って歩いてはならぬ(無礼)」という教えがあるが、競技がビジネスとして変容した結果、時間短縮が求められ「選手は速やかに開始線に戻るために、審判の前を横切っても構わない」と容易に変更されてしまい、もともとの教えというものを伝えること、残していくということが非常に難しい現状にある。
柔道と同じく、時代という言葉を隠れ蓑に“極端な資本主義社会”の弊害として失ってしまった伝統が多いはずだ。
「間」の重要性を伝えていた「和の文化」の本質的な教えが変わってしまったことで、それを知る日本人が減ってしまっているのだろう。
そして、そもそも「間」ってなに?という日本人で溢れかえっているのだと思う。
知らないだけならまだしも、誤った解釈を持った人たちがいることが非常に厄介なのである。
ただの悪口にならないように注意して書かなければならないのだが、特に高度経済成長後の社会を経験し、それがあたかも日本古来の歴史であるかのように錯覚している方々は、その誤った解釈を子供に残し多くの害を植え付け、その末に現代社会が構築されてしまっていると分析する。
私は、今の日本が抱える社会問題のほとんどがここに尽きるのだと思っている。
話を戻すと、現代は「間をそもそも知らない人」、「誤った解釈の間を伝える人」、「本当の間を理解している人」に分かれている。
そして最後の「本当の間を理解している人」は例えば、超一流の芸人、トップのプロスポーツ選手、何千万単位を動かす経営者だったりする。
経済至上主義的な社会になってしまった結果、「本当の間を理解している人」は経済的にも豊かな地位にいて、なかなか庶民と交わることも少なくなってしまった。
かつて、「間を知らない人」も「間の分かる人」も混在していたが、目に見えないはずの「間」を理解している人の振る舞いを見ることで感覚として「間」の奥深さを知り、その感覚を磨こうと向上心を持って取り組んでいたのだろう。
例外として、現代においても自分の道として究めている方で「本当の間を理解している人」もおられるが、「間を知らない人」と「誤った解釈の間を伝える人」で溢れかえってしまっている経済至上主義社会では「経済力」が人の価値や評価に繋がることは否めないので、その感覚に磨くところにいきつかないのだ。
現代の日本人がどうなったかというと「間抜けな日本人」へと成り下がってしまう他なかった。
そして自分が間抜けかどうかも理解できていないことが一番の害なのだ。

「間(ま)」の先にあるものとは


「間」の理解の先にあるのは、ホスピタリティであり利他の精神である。「間」という目には見えないが確実に存在するものが理解できると、自分軸を超えて他者を俯瞰して観ることができ、その他者の為に行動することができるようになると信じている。
ここで重要なことは「もし自分ならこういうことをしてもらいたい」という自分軸ではなく、他者と自分を俯瞰して観てその他者が欲する行動に尽くすということだ。
どういうことかというと、「間」とは何かと何かの「間(あいだ)」を表す言葉であり、間を理解するということは自分と相手、空間、時間などの他の対象物を捉える力が鋭くなるからである。
前述した自然界での例えになぞらえると、フクロウは相手がネズミなのか、それともクマなのかを理解していないといけない。
もちろんフクロウは物体の大きさや本当的に天敵を認識しているのでほとんどあり得ない話ではあるのだが、もしクマを襲ったとしたらどんな目に合うのかは想像することは難しいことでない。
たとえ獲物のネズミを見つけたとしても周りに木などなく開けた場所であることを把握できていなかったら空間という間(ま)を理解していないことになる。
同じく、真夜中の暗く自分にとって狩りのしやすいときではなく昼間の明るいときだとしたら、時間という間(ま)を理解しているとは言えないのだ。
最初の私が思う「間抜け」だと思うことで考えると、
「空気が読めない」ということは「ある空間の雰囲気や人の間が読めない」ということだ。
「今さっきまでなら対応できたのに間に合わなかった」ということは、「時間の流れや、利他の精神、ホスピタリティが足らなかった」ということだ。「その場しのぎの突貫工事的な処置で問題が再発してしまう」ということは「他者という人間や物事の経過を想像できていなかった」ということなのだ。

こうして考えてみると、
人は「人間」、
空気は「空間」、
刹那(短い時間)は「瞬間」、
年月や時代(長い時間)は「時間」なのだ。

どの言葉にも「間(ま)」があるではないか。

やはり、日本人にとって「間(ま)」というものは欠かせない重要なものであり、取り戻すべきものではないだろうか。
ごく一部ではあるかも知れないものの、日本は「間の感覚」を学べる環境にまだあると思っている。
それが、武道でも良いし、華道や茶道でも良い。
ダンスやスノーボードでも良いかもしれない。
大切なのは道を究めていくということと、その究めた道を通して他者の利益、つまりは利他に繋がっていくことなのだと思っている。

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