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「自由な環境だからこそ、自分の1時間をどう使うかが会社の存続に関わる。そこにヒリヒリする」大手企業マネジャーから社長1人の会社へ転身、そのワケ

「来期からマネージャーね」

株式会社カカクコムに入社して2年目の秋、西山さんは突然上司に昇進を告げられた。

当時は、目の前の仕事が楽しくて先のことまで考えきれていなかったが、マネジャーになったからには「部長を目指したい」という気持ちが芽生え、さらに仕事に打ち込むようになった。

マネジャーになって3年目の4月、このままいけば部長になれるかもしれないと考えていたタイミングで、新しい部長が赴任してきた。

自分にはまだ早かったのだと肩を落とした。

ちょうどその頃、組織も大きくなり、入社した頃のサービス立ち上げ期のようなワクワクとした面白みも感じられなくなっていた。

一歩を踏みだすタイミングがきたのかもしれない。

静かに心を決めた。


「真面目で普通」な少年時代

西山さんは、大阪の公務員の父と専業主婦の母のもと、二人兄弟の長男として生まれた。西山さんが生まれた時、父は46歳、母が39歳。子どもの頃から親と歳が離れていることにコンプレックスのようなものを感じていた。一緒にテレビや音楽の話もできないし、公務員の父には考え方も堅くて最近のこともわかっていないとネガティブな感情を抱いていた。「いわゆる普通の真面目な両親の元で長男としてそれなりに真面目に育ったんじゃないかと思います」という西山さんは、小学校に入ってからも大人しい性格だった。

小学校 1年生の夏休み、兵庫県にある母の実家へ一人で泊まりに行った。2泊して3日目に迎えに来るはずだった両親の予定が変わり、1日迎えが遅れた。その時寂しくて大泣きしたことを西山さんは今でも覚えている。大人になって母の実家を訪れた際、「あいつはめちゃくちゃ気が弱かった」と叔父が自分のことを言っているのを聞いて、そうだったのかと幼い頃の自分に思いを馳せた。

小学校5、6年生にもなると思春期、反抗期に入り親と距離を置こうとした。両親から言われることの全てが小言に聞こえ、うるさく感じていた。中学校に上がる頃には、両親と言葉を交わすこともほとんどなくなった。年子の弟のやんちゃぶりにも、それに手を焼く両親に対しても「なんでこいつをこんなに自由にさせてんねん」と腹を立てていた。体格もほぼ変わらない弟とは、喧嘩する度に激しい殴り合いとなった。

突然の別れ

反抗期の中学時代も根は真面目な西山さんは、粛々と勉強を続けていた。学校では成績上位で、家から近い進学校の大阪府立茨木高校へ入学した。高校へ進学してからも親との距離が縮まることはなかった。当時は、「電気消せよ」「リビングで寝るなよ」といった連絡事項ほどの会話しかしていなかった。

一方で、高校進学と同時に友達の輪が広がった。クラスの女子と話すことも増え、バレーボール部にも入りスポーツにも打ち込んだ。社交性も芽生え高校生活を満喫していた。

「高校一年目は楽しかったんです」

西山さんはポツリと言葉にした。

高校2年の時、母が病気で亡くなってしまった。長く闘病生活を続けていたわけでもなく、病気が発覚してからわずか1年のことだった。母親と仲が良かったわけではないけれど、ショックが大きくてしばらくは何も考えられない状態になった。父がどういう状況なのか、弟がどういう気持ちなのか、周りのことを考える余裕もなかった。

母を亡くしたからといって父への気持ちが大きく変わることはなかった。父や弟、家族の関係性も変わらなかった。変わったのは自分の生活で、家のことを自分でやらなくてはならなくなり部活もやめた。部活を辞めたことで本を読む時間が増え、内省的になっていったと西山さんは当時を振り返る。

「あの時は、もう自分がやれることをやろうという感じで。周りを見る余裕はなかった」

まさかの浪人生活

「ここで僕は東京に行こうと決めたんです。家族から離れたいという気持ちが強くて」

大学進学のタイミングで東京へ行くことを決めた西山さんは、受験科目について調べた。苦手な理系科目を除いた文系科目のみで早慶受験が可能であることを知った。高校2年の秋には、自分のリソースを得意科目の国語、英語、社会に全投下して受験勉強を始めた。

早くから戦略を立てて受験勉強に取り組んだ甲斐もあり、見事ストレートで早稲田大学法学部へ合格を果たす。これでようやく実家を出て念願の東京暮らしを送れると思っていた矢先、思いもよらぬ事件が起こる。

早稲田大学では入学金を2回に分けて支払う必要があった。父から大学の入学準備金として100万円を渡されていた西山さんは、1回目の入学金を払込んだ後、2回目の入学金の払込みを忘れてしまった。単に払い忘れただけで入学する意向も支払うお金もあると大学側に交渉したが、受け入れてもらうことができなかった。

「もう絶望的でした。あの時は心の底から父に謝りました」

父は怒ることなく落ち着いた様子で浪人を認めてくれた。予備校に通うことにした西山さんだが、現役で早稲田法学部に合格したという事実に加え、高校時代から付き合っていた彼女にもふられメンタルはどん底だった。8月頃までは勉強に身が入らぬまま、遊んでいるうちに時間が過ぎていった。そんな西山さんも9月に受けた模試の点数をみて焦り始めた。

「さすがにやばいなと思って、そこからもう1回勉強を始めました」

早慶の文系学部を複数受験し、合格した中で学力やブランドの観点から慶應義塾大学総合政策学部への入学を決めた。東京に行くことを決めていたが、結果的には神奈川の藤沢キャンパスで学ぶことになった。それでも家族の元を離れて一人暮らしが叶うことが嬉しかった。

「普通じゃない」への憧れ

西山さんは大学に入学するとすぐに映画サークルに入った。そこである男に出会う。音楽にも映画にもすこぶる詳しいその男は、後に東京初台でfuzkueという“本を読む店”を開いた阿久津さんだ。二人は音楽や映画の話で意気投合しすっかり仲良くなった。

大学2年生のある日、阿久津さんから阿久津さんの友人と西山さんの3人で、一緒に暮らさないかとの誘いを受ける。住む家がなくて困っている友人と同居を考えた時に、3人の方が家賃も安くてすむということで阿久津さんは西山さんに声をかけた。西山さんは迷わず誘いにのった。借りていた家を引き払い、3LDKのマンションに3人で暮らし始めた。

「なんか面白そうだなと思って。僕は一般的な家庭で育っていて、ちょっと変わったことに憧れがあるんです。人と違うことしたいなって。大学時代に同居生活をしてみたら面白いかもな、やってみようって」

週に2回ぐらいのペースでいろんな友達が遊びに来ては、自分たちで料理を作って食べて、話をする。特別なことをするわけではないその暮らしが、西山さんにとって実に楽しかった。

3、4ヶ月すると、同居人の一人が家賃を払わなくなり家を出て行き、西山さんと阿久津さんの2人暮らしとなった。その後もお互いの友人が入居しては出て行くを繰り返し、卒業までに4人の住人を迎えては見送った。3人目となる住人は皆、なぜか途中から家賃を払わなくなり最終的には退去してもらうようになった。

大学2年から卒業するまで続いた阿久津さんの同居生活について西山さんは、こう語る。「居心地よかったですね。阿久津とはやっぱり空気感が合ったから、良かったなと思います」

リクルートへ就職した理由

大学で自由な暮らしを満喫していたせいか、就職活動にも気乗りしないまま周りが受けているマスコミや当時人気のコンサル業界をなんとなく受けてはうまくいかない日々が続いた。

人材業界は全く希望していなかったが、先に入社していた高校時代の友人から勧められて、リクルートグループの中で人材紹介事業を行うリクルートエージェント(現:リクルート)にも応募してみることにした。

面接に出てきた人事がアロハシャツを着ていたことから「こんな自由な会社あるんや」と心を打たれた。実はそのとき、既に大手食品メーカーから内定をもらっていて、内定者合宿に参加した際、役員の講話中についあくびをしてしまったところ人事からこっぴどく叱られた。「社会人ってこの程度で怒られるのか」と窮屈さを感じていた矢先のことだった。

食品メーカーとは対照的なリクルートの自由な雰囲気に魅力を感じ、無事に内定をもらったところでリクルートエージェントへの入社を決めた。

経験を積み上げる日々

2008年4月、西山さんはリクルートへ入社した。その3ヶ月後、リーマンショックが起きた。多くの企業が採用活動をストップする中、西山さんは後に支店閉鎖となる大阪南支社で新規開拓に明け暮れた。

「もう、つまらなくてつまらなくて。毎日新規開拓の電話をかけては断られ続ける日々。アポがとれたとしても、街の外れにある企業でコンサルティングフィーを支払ってくれるような顧客ではなかった。本当に毎日死んだように会社に行ってました。今辞めても転職先もない、辞めたところで自分に何ができるのだろう、やりたいことがあるわけでもない」

マネージャーにグチを言いながら新規開拓の電話だけはかけ続ける日々を経て、2年目には京都支社へ法人営業として異動した。最初の半年は福井県、石川県、富山県の3県を1人で担当した。大阪時代に比べると、競合も少なく社内でも一人しか担当のいない北陸エリアでは、順調にアポを獲得することができた。新規開拓でアポを取っては毎週出張に行く生活は、自由を愛する西山さんにとって楽しい日々であった。アポはとれても成果は上がらなかったが、不景気で誰もが成果が上がらない中で文句を言われることもなかった。

そこから半年後、上司が変わると同時に京都と北陸を担当するようになり、その期間で営業としての基礎も磨いていった。関西エリアで上位の成績が取れるようになってくると、大学時代の友人も多くいる東京への異動願いを出した。

2012年、入社して5年目に東京本社の大手顧客を専任で担当する部署へ異動した。

そこから6年目、7年目、8年目と経験を積み、西山さんは新組織のチームリーダーに抜擢された。それまで代理店を通して販売していたサービスを自社で拡販することになり、その直販部隊の立ち上げを任されたのだ。同期からもマネージャーになる者も出てきて、西山さん自身もマネジャーを目指したいとの気持ちになっていた。

2度の転職

新組織のチームリーダーとして組織内でトップの業績を上げた西山さんは、「昔ながらの泥臭い商慣習を変えて欲しい」という新たなミッションを受けて別組織へ異動となった。ロジカルな営業スタイルを得意とする西山さんは、新しい組織での営業やパートナーとの関係構築に苦戦を強いられた。

「リクルートに入社して10年。32歳という年齢も考えると、そろそろリクルートを出てみようか。一度人材業界を離れてみよう」

西山さんは、転職を決意した。

リクルートから転職した2社目では、マーケティング会社の営業として大手飲料メーカーへ購買履歴などのデータを使った提案営業を行った。大手広告代理店から中途入社したベテランも多い中、入社早々に未経験から結果を出していくことへの難しさを感じていた。すぐに転職活動をしたところでうまくいかないだろうと思い、とりあえず3年間はやってみようとの気持ちで仕事を続けていた。

ある日、リクルート時代の先輩が株式会社カカクコムの新サービスである「求人ボックス」の一人目の営業としてやってみないかと声をかけてくれた。

「リクルートっぽくなくて、ガツガツというよりも冷静に分析して営業できる人が欲しい」

自分に声をかけてくれた理由を聞いて納得したのと、一人目の営業としてこれからサービスをつくっていく面白さやマネジメント経験を積める可能性にも魅力を感じた西山さんは、迷わず転職を決意した。

サービスをつくりあげる楽しさ

2018年7月、西山さんは株式会社カカクコムの新規サービス「求人ボックス」の一人目の営業として入社した。「求人ボックス」は、食べログや価格.comを運営する株式会社カカクコムが2015年にスタートした求人に特化した検索エンジンだ。今でこそ総勢数十名人ほどの組織になっているが、西山さんが入社した当時は、企画と営業と責任者の数人ほどの少人数でサービスを作っていた。

「みんなでサービスをつくり上げていく感覚がすごく楽しかったですね。ユーザーファーストを掲げ、本当にユーザーにとって使い易いサービスを作っているところにもすごく共感していました」

「求人ボックス」の営業手法を手探りしたり、人を増やしていくための採用活動、サービスサイトの改善についても一緒になって考えた。営業以外のことにも広く携わりながら、皆でサービスを作っていくことに手応えを感じていた。

2社目で一度人材業界を離れてみたことで、改めて人材業界の魅力も感じていた。マーケティング会社では、時間をかけてデータを分析してもそのサービスの対価が小さいことに驚いた。それに比べて求人ボックスの営業では、良いサービスをつくり、顧客に必要とされることで、日々、売上が伸びていく成長感や達成感を感じることができた。

「人材業界はちゃんと儲かることができるビジネスなんだと改めて感じました」

独立への想い

しかし、もともと縛られたくないという気持ちが強い西山さんは、いずれは組織ならではの理由で嫌なことや納得いかないことが出てくるだろうと考えていた。

入社から2年目の冬、仕事の一環で人材紹介事業を営む企業の経営者にヒアリングを行う機会があった。後に株式会社つぶだてるを創業する合同会社こっからの寺平さんを始め、独立して人材紹介事業を営むリクルート時代の同期や先輩数名に話を聞いた。

「もう、みんなめちゃくちゃ自由に楽しそうに仕事をしていて。人材紹介ってこういう働き方ができるのかと。いずれは自分も独立して人材紹介という選択肢もあると思うようになりました」

運命のLINE

冒頭にも記したように、株式会社カカクコムに入社して4年目、入社当初のサービスや組織をつくっていく面白みを感じることができなくなっていた西山さんは、新しい部長の赴任を機に独立を決意した。

次のキャリアを見据えていくつか人材紹介会社の話を聞いていく中で、2022年9月某日、後に西山さんが入社することになる「株式会社つぶだてる」を創業する寺平さんから、全く別件でLINEがきた。用件は人事を紹介して欲しいという営業目的の連絡であった。お世話になっている寺平さんの頼みとあって、西山さんは快く人事を紹介した。結果には繋がらなかったものの、互いの近況を確認し合う中で、西山さんは独立を考えていることを寺平さんに伝えた。

すると寺平さんから意外な答えが返ってきた。

「ちょうど俺も『こっから』からスピンアウトでやろうと思ってんねん。1人でやるんやったら、まずはうちでやろうよ」

思いもよらない誘いに最初は驚いた西山さんだったが、程なくして気持ちは前へと動いた。

「さすがにちょっと迷いましたけど、気心知れてる人と一緒にビジネスやるのは面白そうかなって。彼はどちらかというと表現力豊かな人間で論理的思考よりかはキャラクターという感じ。僕はキャラクターとかっていうのは全くなくて、ロジックを強みとしてやってるので。そういう意味でもお互い補完関係にあるんじゃないかと。それでいて、リスクを取るところと守るところの境界線が似ているよねという話にもなりました。結構いいコンビなんじゃないかなと思って」

人材紹介、求人サイト、求人検索エンジンと人材業界での豊富な経験を持つ西山さんは、もしここでダメでもどこか拾ってくれるだろうという楽観的な気持ちもあった。

「一緒に人材紹介をやろうと言ってくれた人の中で、1番空気感や話している感じが心地よかったのがデビさん(寺平さん)でした」

2022年12月、西山さんは株式会社つぶだてるへの入社を決めた。

「つぶだてる」での日々

2023年4月、株式会社つぶだてるに執行役員兼キャリアコンサルタントとして入社した西山さんは、企業向けの採用コンサルティングや求職者向けのキャリアコンサルティング、会社のミッションバリュー等のカルチャーや新たな事業づくりに取り組んでいる。

今どんなことを感じているのだろうか。

「全部自分でやらなきゃいけないので、まずはやっぱり大変だなっていうところはあります。 一方で全部自分の責任で自由にやれる面白みや自分を律する必要性も感じています。自由な環境だからこそ、自分の1時間をどう使うかが会社の存続に関わってくるというヒリヒリとした緊張感もあって、面白いと同時に気が抜けないところでもあります。

これまでデビさんが6、7年取り組んできた人材紹介事業も踏まえて、自分たちは誰に対してどういう価値を提供していくのかというところからもう一度二人で模索しています。人材紹介にとわれずに、つぶだてるの強みを活かして独自の事業を作っていくことにも注力していきたいですね」

振り返るとたくさんの点を打っていた

西山さんはこれまで歩んできた道のりを、こう振り返る。

「僕はWILLがあって、そこに向かって頑張ってきたわけではありません。これまでコツコツやってきたところで、このタイミングであればそろそろ自由な働き方をしても通用するぐらいのスキルや実力がついてきたんじゃないかなと思えたことが大きかったです」

毎年欠かすことなく参加してきたフジロックフェスティバルについても尋ねてみた。

「当時の僕にとって、あんなに特別な場所ってなかったんです。でも、年齢を重ねるにつれて海外旅行へ行ったり、仕事の面白みも感じるようになり、他の楽しみを覚えてきて。それまで絶対的だったものがだんだん自分の中で薄れてきました。さすがに今はフジロックフェスティバルが人生の中心ではないですね」

「今は何をしている時が一番楽しいですか」と聞いてみると、ひと呼吸おいてこんな答えが返ってきた。

「昨日の夕方、息子2人と家の前で遊んでたんです。2人が自転車に乗ったりサッカーボールを蹴ったりして。キャンプとかも行ったりしますけど、家の前で息子2人とじゃれあう時間、案外そういう時間が1番楽しいかもなって。尊い時間だなと思いました」

5月半ば、外の風が気持ちいい季節。

仕事を終えて子どもたちとの時間をゆっくりと過ごす西山さんの姿が目に浮かんだ。

若かりし頃、普通ではないことに憧れ、特別な場所を求めてきた西山さんにとって、今目の前に広がる日常の風景が、特別なものになったのだなと感じた。

                                                                               
                                                                                 (インタビュー・文=さおりす



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