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「そうである」ことを語ることと因果律について~思想が規範性を獲得するとはいかなる事態か~

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。

マタイによる福音書23章1-7節


知を摂取同化し、これを本能化するということは、現在なお全く新しい・いまになって漸くぼんやり人間の眼に映ってきた・まだはっきりと認識されえない課題である・——それは、これまでのところわれわれの錯覚だけがわれわれに同化されてきたということ、そして一切のわれわれの意識性が、錯覚に関係しているということを、理解した者たちによってのみ、感知される課題なのだ!

F.ニーチェ『悦ばしき知識』十一 意識 より


 人は、同じ言葉を見て、人によって同じ感情を反復しているわけではない。人は人によってそれぞれ記憶のなかから違うものを参照するからである。この事実を再確認して始めることにするが、出来栄えとしては、哲学風ではあるが結果的に「主張」に堕ちてしまった。「主張」はそれ自身の本性として、好意を持って歓迎されることと批判的に読まれることを同時に欲するものである。

 この文章を書いてみて、図らずも、これまでやってきたことの今のところの総まとめのようになった。ぜひ皆さんからレスポンス、フィードバックをいただけると幸いである。




プロセスを記述するとはどういうことか?


 たんに「歩く」、と言うとき、わたしたちは端的に人が歩いているイメージを思い描く。しかし、「歩く」ことのプロセスを細かく記述しようとするとどうなるだろうか。これはたいへんに困難な課題である。わたしたちは、地面を蹴るときに地面から反発を受けていることで前進することができるのである。

 このように、わたしたちに身体化された、或いは本能化された行為は、記述するさいにたいへんな困難を伴う。おそらく、本能化された知を伝達するさい、単純な文法に従っていてはとても伝達することができない。これが遂行に関わるものとなった手続き記憶の記述の難しさである。
 例えば、キリスト教の言う「神の国」を伝達する際、伝えるためのよい手段は、その多様に考えられるプロセス記述の一つを独断的に選んでそれを記述することではなく、イエスが行ったように、たとえ話を語ることである。或いは物語というアプローチは有効であろう。

 実際のところ、「言われたことができる」、と人が言うときも、言葉で表現されたこと(言われたこと)と実行されたこと(できること)の間には大きな落差がある。
 例えば、少年野球では、「コーチが認めること」が、できたという事実としての承認に転換し、仕事では「上司が認めること」ができたという事実に転換される。これが、プロ野球だと、もっと細かく計測できる機器などを活用した<客観的>なものとなり、運転免許では「試験に合格すること」という明確な規範性が出現することになる。
 子供にとっては、周りの大人やお兄さんお姉さんたちが、社会的参照先としての「規範性」である。
 かくして、データや古典などの規範性、すなわちドクサとしてのドグマは<客観性>としての「神」となった。

 以前、ライフスペース高橋代表の動画を視聴した際よりずっと印象に残っているセリフがある。記者に「どうして……」と問われ、高橋は一言、「そうだからです」と答えていた。



 ドクサ=ドグマの最終的な定立はこうしてなされている。しかし、これは何も間違っていない。
 師匠の河本英夫(実際、わたしを他の学生に紹介する際に「僕の弟子だよ」と言っていたので、そう言っていいだろう)がわたしに指導したところによれば、例えば将棋を続けていれば、将棋が上達する。この場合、必勝解はない。しかし、「上達感」がある。「上達感」の志向性の彼方、「必勝解」の<場所>に「無限性」が出現する。これは「善のイデア」と結び付けて考えるとよい。すなわち、こうである。わたしは上達感を感じている。しかるに、最善のルートがあるはずだ。客観的に最善なるものがある……。
 これはなにも難しいことではない。いわば、道具制作の際に、建築用に石と石を擦り合わせて、石をまっすぐにしたいという場合、石がだんだんまっすぐになっていったそのまっすぐの彼方に「真のまっすぐ」を直観する。これが「幾何学=倫理」(エチカ、或いは「叡智界」)の等式である。さりとてしかし、重要なことだが、これはただ「理解してそれっきり」にしてしまっては、ただの質を際限なく低くした念仏と変わらないことになる。だから、肝心なのは、実際になんでもよいから「行為すること」をつうじて上達感を体得していくことである。「されど言葉」ではあるが、この場合における強度としては、はっきり言って「たかが言葉」に過ぎない。
 さてすなわち、わたしたちは往々にして「客観性」や「言説」を持ち出し、それをもって他者から自己を守ったり、他者から裁かれたりするが、その当の客観性や「神的律法」をそれたらしめるところの<経験>は、超越性=無限性の<経験>であり、それはいわば「経験の彼方の経験」であり、それは、少しずつ自分の中で現実感の強度の高い言説に触れていくこの「上達感」によって生起している可能性が高い。つまり、わたしたちは、思想に対する信仰があれ、信仰がなかれ、「超越性」をそれとしてよく感じながら、或いはそれに裁かれながら生きているのである。すなわち、超越的審級を探究することと、事実認識のための基礎を探究することは、この点だけでみると、同じ営みである。なぜなら、事実認識の基礎の探究も、「客観性」の前提の確保を、すなわち「超越性」の確保を探究している営みだからである。
 では、その根拠を尋ね求めて「掘り崩す=Unter gehen=没落する」とどうなるか?その場合の呼び名が、「」や「絶対無」ということになる。実際に、わたしは10代の頃、認識の基礎づけの不可能性を証明する「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」に自ら到達した際、「世界は水溜まりのようなもの」という無分別の直観に至り、その瞬間から一年以上にわたってきわめて幸福感の高い時期を過ごした。ついでに言っておくと、ミュンヒハウゼンのトリレンマは、あくまでも充足理由律や因果律を前提とした不可能性であり、おそらくその他のアプローチも十分可能であるが、おそらくその場合はもはや「基礎づけ」という営み自体がない。「基礎づけ」とは、実は因果律という先入見を前提としたものであった可能性がある。その手前で止め、「神話とは基礎づけである(ケレーニイ)」(河合隼雄『中空構造日本の深層』やジル・ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』を参照のこと)ということとして、例えば「モーセの基礎づけ」ということが言えるとすれば、その場合「それはなぜ?」というとき、回答者の主語は、「私は」ではなく、「神は」となる。またはそれは、「そうだからです」としか言えない。端的に、モーセに十戒を授けたのは、聖書によれば、シナイ山において、「神が」である。

 聖書において印象深い箇所がある。イエスが「荒野」で「悪魔」から誘惑を受けるシーンでの応酬である。この箇所でイエスは、あたかもモーセの如く、「四十日四十夜にわたって」荒野で断食をするのである。


 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える

と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

マタイによる福音書4:3-7



 なにもこう言わずとも、こうして自分の部屋があり、外には空や地面があり、建物がある。それを「なぜ?」と聞くのは筋違いである。或いは、「なぜ私は私なのか?」と聞くのも筋違いである。端的に「そうだから」である。
 先に「空」や「絶対無」を語ったが、しかしそうあっても現実の部屋、空、地面、建物は変わらない。「なぜ?」と言われたら、「そうだから」である。
 因果律に支配された「文法」に関しては、こうしたことが言える。神学と「文法」の関係性については既に指摘されていたはずだが、そうした意味で、「神の存在証明」などをしようとする態度が既に「因果律」である。
 例えば、ライプニッツが「理-拠(ratio)」の確保のために、彼の『モナドロジー』において、充足理由律の第一根拠として「神」をおいたように。
 ニーチェが印象深いことを言っている。『悦ばしき知識』からの引用である。

――またそれゆえに!それだから!だから!おおわが友よ、諸君は私の言うところが解るか?

F,ニーチェ『悦ばしき知識』一 生存の目的の教師 より

 ともかく明確には奴の言いたいことはサッパリ分からないが、少なくともこの『悦ばしき知識』の時点でとうに危険な水準に言っていたことだけは、解る。


 さて、超越性或いは規範性の簒奪なら既にこんにち「暴力性」や「ジェンダー」を語る学者たちが実行しているのである。
 だから、課題としては、「より共同主観的に強度の高い言説」を対抗させなければ、思想はなかなか規範性を獲得できないはずなのである。すなわち、藤井聡太でさえ必当然的に必勝解は打てないのであるが、AIよりも良い手を打つ藤井聡太はいかにも「絶対にかなわない」=「崇高さ」を帯びている。崇高とは、圧倒される感覚を伴った超越に対峙する感覚である。すなわち、「絶対にかなわない」と悟り、だから、「無限性感覚」の前にただ一人「単独者」として立つことで、而して絶望の果てに委ねるのである。ある意味で藤井聡太のような者は、将棋界の「神」として立ち現れるものであるが、人間或いは人間の作ったものに「永遠普遍なもの」ということは言えないだろうし、羽生善治のように、藤井聡太もいつかは衰えるのである。


 ここで、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』から、「巷談(こうだん)」の議論を引用してみよう。


……語りは、自分が取り上げる存在するものとまともに向かいあって関わるような在りようを失っているか、そもそも得たためしもないから、伝達するといっても、話題となっている存在するものを根源的にあらためて自分で納得するというかたちで分かちあうわけではなく、ただ口づて受け売りというかたちで伝えるに過ぎない。語られたものそのものが次第に広い範囲に及ぶと、それは権威的な性格を帯びることになる。そう言われている以上、そうなのだ、ということになる。このような口づてや受け売りによって、最初から確たる根拠もなかったのがいよいよ嵩じて全く何の根拠もないものになる。そういう中で構成されるのが巷談である。この巷談は、実際に口づてによって受け売りされるとは限らない。文書のかたちで「駄文」として流布することもある。この場合の受け売りは、聞き伝えによるというより、むしろ読みかじったものの尻馬に乗っている。……

マルティン・ハイデガー『存在と時間』(作品社)より


 さて、わたしがこうしてハイデガーの『存在と時間』を引用するのも、既にして「受け売り」である。この後に続けてハイデガーが言うように、わたしは少なくとも目を通して書いているが、この引用を読む読者の方は、既にして「理解する」という作業を「怠って」いるために、「巷談」に既にして「閉鎖性」の作用がはたらいていることの証明になるのである。いかにわたしたちが哲学的な文章を読んでいるからと言って、ハイデガーも指摘するように、わたしたちは大半のところ専ら巷談によって自己を形成しているのであり、それが情態性による現れをも規定しているのである(例えば先に挙げた「暴力性」や「ジェンダー」のように。それを述べている人たちの大半は、それに関して深い思索をしたこともなく、おおよそのところ聞きかじった言説をそのまま垂れ流しているだけである。そうした言説に反対する人に、それにかかずらう義務はなく、ただ傍らを通り過ぎるだけでよい場合が多いだろう)。例えば、狂気に陥った人に現れる幻覚や妄想が、明らかに時代の共同精神の影響を受けて、かつては神の息吹きやガラス化した身体の妄想であったものが、一昔前では盗聴器、こんにちでは電波やAIになっているように、である。これが有名なハイデガーの「世間話」の議論である。

 さて、しかしそうした「受け売り」であるが、こうしたしだいで「引用」は権威性を帯びる引用文は、まさに引用されることによって権威性を獲得する。すなわちそれが科挙聖句のように引用を際限なく繰り返されることによって、引用は規範性になる

 芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「武器」という箇所で書いている一文がある。


 正義は武器に似ている。……
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王の檄を読んだ時には色を失うことを免れなかった。
「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。

芥川龍之介『侏儒の言葉』より


 恐らくこの話の中の武后は、その文章そのものというよりも、その文章が、まだ活版印刷もない時代に、であるが故にその檄が書き写されていくさまを想像もしたのではないか。なお、「天成のデマゴオク」というものを字義通りに受け取ると、悪気を削ぎ落として言えば、「預言者」がそれにあたるだろうとは考えられる。

 このように、「引用」或いは「コピペ」「コラージュ」などの文化には、その潜在力から言ってかなりの強度の生起をもたらすものがあるのではないかとみている。
 例えば、一時期のまとめサイトによる「ネトウヨ」という流行り病は、明らかにそうした引用の権威性に、複数の媒体に、主体が、取り囲まれることによる「巷談」的な状態に、投げ入れられたことによったのではないか。
 だから、思索も根源的な理解もない巷談による「理解」は、率直に言って端的に「そうだからです」という自明性に訴えかける主張を含意してこそ広範囲に及ぶのである。これが、知識人を超えて世俗的言説を超脱したような者から見ると、世間ではこのような「まことしやか」な言説が繰り広げられている、ということになるのである。わたしたちが情報を「確認」して実際に「現場」に行ってみれば、聞いていた通りのことが発生した、というとき、それは「まことしやか」だったものが「まこと」だったと明らかになる瞬間である。たとえそれが「予言の自己成就」であったとしても、である。
 ちなみに言っておくと、このように未来のことに関しては実証が効くが、過去についてはわたしたちはつねにそのような「実証性」に対象を曝すことができないのである。そこで様々な物語論や歴史学の議論が発生してくるのである。


しかし、このプロセスは本当に起きていることを記述できているのか?という問いからの導出


 さて、わたしには、日常の体験からも言説への懐疑からも大いなる疑問がある。わたしがハイデガーや芥川など100年前の世紀末人と協力して書いてきたものが、実際に起きているプロセスを記述したものではなく、たんにコミュニケーションのための「言葉」「語り」を提供したに過ぎないのではないか?ということである。
 実際には、例えば「暴力性」や「ジェンダー」というのは「言ってみただけ」というところがあり、その人の内面や行為にまで影響を及ぼすものだろうか?例えば或いは、イエスの批判した「ファリサイ派」、その「ファリサイ派批判」は2000年経っても有効性が終わらない。こんにちでも、知識だけで我高しとして、なんらの実効性にもかかずらないような人がいるものである。例えば、たんに考察的な文章を書くという程度のことでも、わたしのように書く人は例外的に少なく、たいていなにか思想ともなれば自らの主張を手頃なもので正当化して(アポロジャイズ=弁証或いは「護教」して)声高らかに宣言するだけ、という人が多い。
 また、日頃「暴力性」や「ジェンダー」を日用する人がいたとしても、それが規範として作動しているところを見たためしはなく、どちらかといえば彼らは「嫌な思いをした」という後に、事後的な錯覚として、既にその人の中に入っていた共同精神の言葉である「暴力性」や「ジェンダー」を、「言葉」として叫んでいるだけ、という様子である。

 しかし当然、こうした「言葉」が或る巨大な強制力に転化する領域と、その瞬間がある。その瞬間とは、「立法」である。「立法」を解題すると、「実定法の定立」である。実定法が定立されるまでの間のプロセスとしては、未だに「天の声は人の声」という孟子流の伝統が有効な見方である。
 すなわちここでは、「人の行為」に制約されない「人の声」、それが上っ面であれなんであれ、ともかく「巷談」はときに「強制力」に化けるのである。民衆のヒステリーは、ときに政治をつくるものである。

 すなわち、わたしたちが「駄文」をコピー&ペーストしまくることで、或る一つの強制力が生起する可能性が見出されるのである。むろん、立法は必ずしも国民を拘束するものだけではなく、行政に対しての拘束もありうる。例えば、昨今人気の話題の一つである生活保護やベーシックインカムがそれにあたる。

 そうしたことを踏まえると、言説の巷談化、または強度の高い議論を打ち出すことは、「引用」をつうじて、或いは「口づて」をつうじてはじめて、「知が権力になる」のである。むろん、そこには多分に「権威性」も含意されている。

 だから、わたしの言いたいことは、実は「そうである」ことのプロセスを語ることではなく、「そうである」ことになるような言説を産出するプロセスのことだったのである。

 ちなみに参考程度に付言しておくと、確か西部邁だったと思うが、「構造主義という悟り」を語っていたように思う。卑近なところで言うと、また「現実性」を語る河本英夫も、授業でミュンヒハウゼンのトリレンマや基礎づけについて扱った際、構造主義が基礎づけをあっさり放棄して宙吊りのネットワークでやっていることを証していた。一定の人にとっては大切なことだと思うから、参考になってくれれば幸いである。


事例:イエスによるファリサイ派批判


 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

マタイによる福音書23章23-26節


 イエス=キリストの明確な論敵は、ファリサイ派である。一般に言って、当時のユダヤ教の様々な派閥の中で言えば、イエスはファリサイ派に比較的近いのであるが、それゆえにこそ彼は論的にファリサイ派を選んで、明確に差異を明らかにできたものだと思う。なぜなら、ファリサイ派は、律法を遵守し、知識人として、或いはインテリとして、民衆を「地の民」と呼んで我高しとして差別していたからである。

 一般に、キリスト教に対して、「最後の審判」のイメージで怖く捉えられることがある。しかし、それはおおよそ誤解であり、聖書はさほどは死後のことや、死後の「裁き」について語らない。むしろ語るのはこの世におけることばかりである。わたしは聖書を通読したので、そのことはよくわかるし、教会において年配の信徒の方も「聖霊」のことはよく「心和やかに」語るが、死後の楽園など語りはしない。

 一方で、人口に膾炙した言説に、「プロテスタントの予定説」という先入見がある。マックス・ウェーバーの指摘が代表例であろう。ウェーバーはそこで、すなわち『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、カルヴァン派などを事例に、近代人の「内面的孤独化」について語り始める。曰く、死後の裁きについて、贖宥状(免罪符)を批判して始まったプロテスタントにおいては、この世に、最後の審判での裁きにおける救いをもたらしてくれる確信が持てなくなる、というのである。

誰も彼を助けることはできない。牧師も助けえない、…聖礼典も助けえない。…また教会も助けえない、…最後に、神さえも助けえない。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より

 このイメージは、キルケゴールの「単独者」の「絶望」にも繋がる。

 さて、こうしたものが、切り抜かれて独り歩きして「まことしやか」なキリスト教イメージになる代表例である。

 しかし、聖書をどう読んでも、イエスは「すべては赦されている」と語っているし、パウロの証言も同様である。曰く、「すべては許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません」。この「許し」と「益」の違いは、恐らく、「罪」の許しという観念的な話と、自分を益するものになるか害するものになるかという実利的な事態の区別であろう。

 だから、「最後の審判」を基本とするキリスト教観は、前提からしてどこか聖書が伝えたい事柄と食い違うのである。イエスの言うことは、むしろ「あなたがたの内にある」ところになるものとしての「神の国」の話であり、「まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば必要なものは全て加えて与えられる」という心的機制である。

 イエスは、ファリサイ派の「上っ面」を批判した。だから、わたしは、こんにちなおイエスのファリサイ派批判は有効である、と言うのである。そんな意味での広義の「ファリサイ派」なら、こんにちSNS上で人文系のつぶやきをしている人たちを見渡せばすぐにいくらでも見つかるものである。彼らは、確かにどう見ても「指一本」貸そうとしないのである。ただ寝室からフリック入力で言うだけタダであり、ささやかに自身の良心をもって意義のこもった文章を、指を動かして真摯に執筆することさえ惜しむのである。もちろん、中にはしっかりとした良心にもとづいて志願兵的に活動している人もいるのだが、彼らの行うところを真似てはならない。或いはこんにちのそれはファリサイ派未満なので、言うことさえ真に受けてはならない。

 綺麗ごとを言えばいい、それで自分たちの規範に従えば、それで全て罪はない、とするのがファリサイ派である。そうではなくて、本当に良心的な人間で、なおかつ「正義」、「慈悲」、「誠実」の備わった人間なら―むろんこれを読んでいる人の中にそうした「友」がいることを前提として書いているのだが、それなら―、いかに慈悲の良心から誠実に正義を実行しようとしても、どうしても自らに罪が起こるということがよくわかるはずである。だから、キリスト教の本質は「赦し」にあるのである。いかにもわたしたちは良心的に人に隣っていき、有効に関わりたい、しかし、そうすればそうするほど、反感も買うし、罪も湧く。そうしたとき、ニーチェも言うように「それでもなお」という心がなおのこと起こる。そうしたときに、その都度「赦し」を、すなわち「十字架の意味」を思い起こすことで、良心的キリスト教徒は再び良き関わりをするための実践に赴けるのである。多分、ニーチェはその意味での「ファリサイ派」を好まないタイプだったと想像できる。ファリサイ派は彼の言う「高貴な者」や「友」とは全く異なり、言うだけタダで民衆から称賛を求める者たちである。「高貴な者」は、民衆のことは眼中にないのである。或いは、しかしニーチェが実行したことは、まさに「良心的」に自身の哲学の実行を、難しいことをも伝達可能なかぎり書きまくり、それを赤字になっても発刊したものだった。わたしのなかで、イエスとニーチェと河本は、至極至近距離に存在するのである。河本も、しきりに「言葉を信用しちゃいけない」と言っていたが、これは先のイエスの発言にそっくりである。また、河本の徳目は「より有効に関わる」ことである。

 だからファリサイ派との差異化がつねに有効に効いてきた所以もここにあり、ファリサイ派、或いはこんにち「暴力性」を糾弾する諸学者についても、はっきり言っておくと彼らの手にかかれば「良心」はただちに「暴力性」に言い換えられる。儒者の説く徳目も彼らの手にかかれば「暴力」であろう。だから、わたしたちは、たんに良心だけではなく、端的に定立された「正義」の規範性にも基づいて、今こそ大同団結しなければならない。そのためには、いかなる「正義」が真に良心的な実践に機能するのかということを考えて、公共の議論に付さなければならず、わたしの考えを述べると、「正義」は良心を作らず、反対に今書いた順番と全く同じプロセスで、「良心」が正義を希求するのである。
 そして、これが読める程度の人を想定して書くと、わたしたちの知性は、巷談において「そうである」と受け売りされるほどのことを語らねばならないとともに、「そうである」ことを書き換えるほどの強度を持った言説をも語らねばならないのである。そのためには、畢竟さらなる展開がなされることを求めるほかない。


おわりに

 わたしはこれを書いた今、過去を振り返って思う。わたしは、たとえ人生の楽しく苦しい時期に、より苦しくなろうと、どうであれ、それが自覚的であれ自覚的でなかったとして、自ら因果交流電燈の根源にまで遡りそれが果てるところを見届けることを、人生で一度きり、敢えて欲したのだ。したがって、今後そのタイプの問題に関わるとしても、因果律や充足理由律に制約されない語りに赴く、ということが、わたしが長い遍歴を経た現在、新たに獲得された哲学的洞察である。しかるに、わたしの哲学は未だ終わらない。ゆえにこそ、近世哲学者たちの認識論—合理論や経験論や超越論—を参考にして有効な手がかりが掴めるか?という大いなる疑念がある。あの天才ライプニッツでさえ、因果律に制約されているのだ。果たして、言語性の知識だけでなく、例えば手続き記憶は因果律的に成立しているのか?というとことに大きな疑念を持っている。おそらく、わたしの見出してきたところに従うと、あの東西の古典の逆接や弁証法に従えば、単純なかたちの因果律や言語論理に従ってはいないはずである。そこで、河本英夫の「オートポイエーシス」は有効な参照先であろう。たとえいかなる生活がこの先に備えられていようと、わたしの哲学の道は、今なお課題に開かれているのである。

2024年12月10日

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