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ヨガと瞑想(YOGAをすること②)

前回はヨガを始めるにいたった経緯と、自分の気づきを書きました。今回はその続きを。

ぼくは20歳を少し超えて、大学を出て就職をした。高校を卒業し、大学を出て就職する。レールを敷かれた人生。そのレールの上をとくに深く考えず、疑問をもたず、生きていければそれでいいと思っていた。しかし、思ってもみなかったことがその頃に起こる。就職してすぐの会社の倒産。ストレスと過剰な摂食から来る全身見るも無残なアトピー性皮膚炎。その二つが相まって、社会に対する不安と不信。なぜぼくは生きているんだろう、生まれてきたんだろうという疑問をもつようになり、合わせて昔はなかった病気、アトピー性皮膚炎を治療していく過程で、食のことも勉強して、なんで体に悪いような食品添加物が認められてるんだろうと憤りを感じた。会社が倒産し社会不信になっていったぼくは、自分に確固たるものがほしいと欲するようになっていったのだ。

親元で暮らし無職になったぼくは自由だった。ここから昔流行った自分探しの旅が始まる。長野に農業のバイトに行ったり、インドやネパールにバックパッカーの旅をしたり。自分探しをしても自分てものはみつからないということは、今ではわかっていることだが(大事なのは自分をみつめること)、当時23歳のぼくにわかるわけもなくストレイシープの如く右往左往していたのだ。しかし、そんな中で瞑想というものに出会う。旅をしたネパールでビパサナ瞑想というブッダが悟りを開いた瞑想方法の話を聞いたのだ。そのビパサナを教えてくれるところは日本の京都にもあると聴き、帰国後2年ほど経った後、ぼくは京都にあるビパサナ瞑想センターにて10日間の合宿に参加した。


ビパサナ瞑想の合宿は、10日間、会話やゼスチャーでの他人とのコミュニケーションは禁止され、朝早くから夜10時くらいまでいくらかの休憩を挟みながら、坐って自分の身体の感覚を視続けるというものだった。はじめて瞑想をしたぼくにはとてもきつかった。人と話をしないというのはぼくにとってはとても楽に感じたのだが、じっと坐り続けるということは落ち着きのないぼくにとってとてもしんどく感じた。その10日間を経て得られたものはビパサナ瞑想は大変だという経験と瞑想の果てに辿り着けるところがどういうところなのかという知識だった。

ビパサナ瞑想センターの教えは、その10日間だけではない。その後も必ず続けていきましょうというもだったが、ぼくにはこれは無理だ大変すぎるという結論の元、瞑想で行きつく場所に憧れはあったが、暫く瞑想から離れることとなる。

その後、ぼくはストレイシープよろしくオーストラリアに行ってみたり、フリーターであったりするのだが、友人が南伊豆の絵描きをしている人の離れの小屋に居候させてもらうというので、田舎暮らしに憧れていたぼくも何となくついて行った。そして、そこでも瞑想との出会いがあったのだ。その絵描きがしていたのは、インド出身のプレムラワット、通称マハラジが世界に伝えるノリッジ(知恵)という瞑想方法であった。運よく教えてもらうことが出来、比較的楽に出来る瞑想方法だったので、今度こそはと思い3年は続けることが出来た。ただ、こちらもビパサナと同じく毎日一時間は練習することという約束だったのだが、そこは真面目に出来ず、寝っ転がってやってみたり(必ず寝てしまう)酒を飲んだ後やったりと、今思えば真剣見が全く足りなかった。それではどこにもいくことは出来ないという態度だった。そして、結婚を機にまたも瞑想からは離れていった。


そこからは、沖縄から大隅半島へと居を移し職を転々としながら、前回書いたようにヨガを始めることに至るわけだが、ヨガ教室に通うとともに、ヨガの本も読み始め、アーサナのやり方や効果を紹介する本がおおい中で、ヨガ八支則について触れ、瞑想の事も書いてある本に出会った。自分は心身の健康のためにヨガを始めたわけであるが、おや、ヨガにも瞑想があるではないか、と気付いた。あるどころか本来、ヨガ イコール 瞑想なのだ。ヨガの目的とは瞑想を深めていくことによって、ココロを止滅させ自我と真我(魂的な所だと思う)をひとつにして、宇宙とひとつになる(意識と無意識を融合させることだと思う)。ぼくは興奮した。若いころに二度にわたって挫折したものがまた巡り巡って自分の前に現れたのだから。ぼくが住んでいる地域にそのことを教えている教室はなかった。ぼくは本を読み漁った。綿本彰、佐保田鶴治、パタンジャリのヨーガスートラの解説本。ぼくは腰にも爆弾を抱え、内臓関係も弱いところがある、ヨガは死ぬまで続けようと思っていた。ならば、ヨガのアーサナ的(みなさんがよく目にするポーズ)な部分だけではなく、ヨガ本来の目的地に到達できるように頑張ってみよう。人類の根本にある本質的な部分に辿り着く努力をしてみよう。幸いなことに、今ではインドで修行したヨガの先生が我が家から10分のところに住んでいる。さらにはその師匠であるインド人の師も大隅半島まで来てくれた。

サマーディ(ヨガ八支則の最後、三昧と訳される、瞑想がさらに深まった状態)に辿り着くなんて無理だ、と言った人もいたが、はじめから自分を限定することなんてない。目指さなければその手前にすら辿り着くことは出来ないだろう。自分も宇宙のように限りなく広がって行けるのだから。

これにて、第二回終了です。ヨガや瞑想に興味のある方は検索してみたください。とっても良いものだと思いますので。瞑想について補足しますと、ヨガの八支則ヤマ ニヤマ アーサナ プラーナヤーマ プラティーヤーハラ ダーナラ ディヤーナ サマーディとありまして、七番目のディヤーナが瞑想という状態の事です。今では瞑想するという動詞になってますが、本来的には六番目のダーナラ(集中)の深まった状態をディヤーナ、瞑想と呼ぶそうです。瞑想とはその状態の事なんですね。ちなみにこのディヤーナという言葉。中国に伝わって禅那という漢字があてられて、日本に渡って禅になったとのことです。歴史ありですね。

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