ドーパミン的幸せ追求vsセロトニン的幸せ追及

てり~@鉄仮面おっさん、と申します。Twitterにて@RinTerryでツイートしています。さて、私の記念すべき第1回目のNote記事です。タイトルを見て何のこっちゃと思われる方も多いと思いますが、是非お付き合い下さい。

この記事を書くきっかけとなった出来事が2つありまして、1つは私の5歳の息子の幼稚園の運動会、もう1つはツイッターで見た日本の小学校のマラソン大会をフィンランド人の校長先生が批評するという動画です。

幼稚園の運動会では「かけっこ」のプログラムがあったのですが、年長組だけは特別に子供たちの意思に応じて、「絶対に勝ちたい組」と「かけっこを楽しみたい組」に約半分半分に分かれて開催されました。最近の運動会では順位を決めず皆で手を繋いでゴールするなんてやり方に一部の保護者から批判もある、なんてニュースを見た事があったのでこれは上手いやり方だなと感心しました。「勝ちたい組」の子供たちは負けないように一生懸命走り、「楽しみたい組」の子供たちも運動会という非日常的な環境でたくさんの大人達に見守られながら走る事をとっても楽しんでいるように見えました。どちらの組の子供たちも目一杯楽しんでいる様子を見たときに、あぁどちらも正解なのだなと思ったのです。急に色んな事が腑に落ちたので、このコラムを書こうと思い立ちました。

日本の小学校のマラソン大会をフィンランド人の校長先生が批評するという動画ですが、内容としては、マラソン大会で順位付けする事が争点となっており、日本人の校長先生は自分との戦いで去年よりも少しでも上の順位になれるように頑張る過程に価値があると意義を説き、フィンランド人の校長先生は順位付けするなんて本末転倒、将来の健康増進の為にマラソンという行為を楽しむ事を教える事が最重要、と両者は譲りません。このツイートをちょうど子供の運動会の後に見たので、私はやっぱりどちらも大事だと思ったのです。

https://twitter.com/k0ccyak015sa1/status/1312113733095706624?s=19

タイトルのドーパミンとセロトニンとは何でしょうか。簡単に言えば脳が「幸せ」を感じる為の快楽物質(神経伝達物質)です。私は脳科学の専門家ではないので、詳細な説明は割愛しますが、ドーパミン(またはドパミン)は主に目標を達成した時に分泌される報酬系と呼ばれる快楽物質です。アルコール・麻薬・覚せい剤などの刺激により分泌されるのもドーパミンです。ドーパミンは刺激が強いですが、持続性が悪いのが特徴です。セロトニンはドーパミンなどの他の神経伝達物質をコントロールし、精神を安定させる働きがあります。セロトニンが不足すると欝などを引き起こすと言われています。大切な人と過ごす時に、じんわり・ほっこりした幸せを感じるのはセロトニンによるものです。セロトニンはドーパミンとは逆に刺激は弱いですが持続性が良いのが特徴です。(出典:厚生労働省 e-ヘルスネット 健康用語辞典)

さて、ここまで読んでいただいてようやく私の言いたい事が見えてきたかと思いますが、タイトルの「ドーパミン的幸せ追求(以下、ドーパミン派)」と「セロトニン的幸せ追求(以下、セロトニン派)」とは、すなわち運動会の事例において、順位による報酬系の幸せを追求するグループ=ドーパミン派と、運動会という非日常環境を仲間と楽しむ環境系の幸せを追求するグループ=セロトニン派に大別できるのではという考え方です。

ここで、私自身の事を書かせて頂きますと、私は生粋のドーパミン派です。高校の部活、大学受験から今の仕事まで常に競争して、時に辛い思いをしながらも最終的に人並み以上の結果を出してきた強い自負を持っているタイプの人間です。生粋のドーパミン派であるが故に今までは順位付けをしないエンジョイ勢の考え方はまったく理解できないと思っていました。特に運動会の事例では順位付けしないなんて言語道断!と思っていたのですが、順位付けによる報酬系の幸せをドーパミン派、環境や仲間との交流によるじんわりとした幸せをセロトニン派と定義して、ようやくセロトニン派の言っている事が腑に落ちたのです。脳科学的には精神の均衡を保つにはドーパミンもセロトニンもどちらも重要な物質です。

ドーパミンは報酬系の快楽物質ですから、「成功」または「達成」しなければ得る事が出来ません。逆を言えば、ドーパミン派は成功しないと絶望しかありません。今でも強烈に覚えている会話があるのですが、私は偏差値38くらいのおバカ高校から有名国立大学に進学しまして、入学当初に話をした子で開成高校からこの国立大学に進学して「私はこんなに偏差値の低い大学にしか入れなくて人生終わった」と話す子がいたのです。開成高校みたいな超エリート高校ですとクラスメートの半分が東大に行ったりするので、その子にとっては我が母校への進学は信じられないほどの挫折だった様です。同じ国立大学に進学したのに、方や私の脳は報酬系のドーパミンドバドバ、その子にとってはドーパミンはゼロで欝の様な状態に。何が言いたいかといいますと、ドーパミン派の欲望には終わりがないという事です。常に順位付けをして「勝ち組」と「負け組」を決める考え方においては勝っている時は良いですが、「負け組」側になった瞬間に挫折を経験する事になります。いやいや、挫折をバネにして飛躍するんだよ!というドーパミン派の声が聞こえてきそうですが、私の35年間の経験上、常に勝ち続けることはできません。ドーパミン派においては「勝ち組」側にいても、いつも「負け組」側に落ちる恐怖と戦わないといけないのです。そしてドーパミンの快楽は持続しない為、常に勝ち続けることは出来ないのに、常に勝ち続けることを求められます。純然たる順位社会の東大では入学後も成績により行きたい学部への優先権が与えられるので、行きたい学部で学びたい事を学ぶ為に地獄の勉強の日々が続くのです。(池田渓「東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話」)生粋のドーパミン派である私が良く使っていた言葉が「結果の出ない努力は紙くず以下。紙くずは再生できる為、同じ扱いをするのは紙くずさんに失礼。」。今ならこれが如何に短絡的な考えであったかが理解できます。人は必ず老います。出来ていた事が出来なくなってきます。中には80歳代、90歳代で偉業を達成する人もいますが、皆が皆そうなれる訳ではありません。私は生粋のドーパミン派であり、若い時は時に精神的な死に迫られようと戦って戦って勝ち抜くべきだという考えに変わりはありませんが、35歳を過ぎた今、この先の人生はドーパミン的幸せ追求だけではどこかで人生が破綻してしまうと今更ながら気づいたのです。

セロトニンはじんわり・ほんわかした持続性のある幸福感ですが、ドーパミンの刺激に慣れきってしまっている人はこれが理解できなくなっていたりします。たとえば、生粋のドーパミン派の私は長いこと(野営の手段としてではない)キャンプの何が楽しいのか理解できませんでした。そこには目標も達成もなくただ日長一日キャンプ道具をキャンプ場で広げて料理をしながら一日を過ごす。今ならはっきりと理解できますが、キャンプはセロトニン的幸せ追及の代表的なアクティビティという事ですね。(但し、飲酒はドーパミン派のアクティビティになります)また、私は個人的にスキーが大好きなのですが、少しでも天候が悪くなったり疲れたりするとゲストハウスでコーヒーを飲みながら2~3時間も休憩する友人達が理解できなかったのですが、彼らはセロトニン派でスキー場で友人たちと雪景色を見ながらおしゃべりを楽しむというアクティビティを満喫していたと解釈できるわけです。

生粋のドーパミン派の私は、スマップの「世界に一つだけの花」が大嫌いでした。順位付けする価値観を否定し、争うことを無駄と説く、私の価値観を真っ向から否定する歌であったからです。しかし今なら何故この歌が世間にこんなにも評価されたのかが理解できます。今でこそ、家族や家庭の大切さが当たり前の様に扱われていますが、当時はまだまだ仕事中心の社会環境だったと思います(これが大きく変わり始めたのが2011年の東北大震災以降)。2003年に発表されたこの歌はこれまでの順位付けだけを良しとするドーパミン思想の社会に対するセロトニン派のアンチテーゼだったのではないでしょうか。これもセロトニン派という幸せ追求の一つの形。そう思うと大嫌いだったこの曲の歌詞がすっと腑に落ちてきました。

ドーパミン派である私の視点から長々と書かせて頂きましたが、ドーパミン派はセロトニン派を頭ごなしに否定せず、時にはセロトニン的な発想で人生を楽しみ、より豊かな人生を送れるように双方の良いところを取り入れる事が大切ではないでしょうか。例えば、スキーであれば技術研鑽や検定対策もいいですが、いい天気・いい景色・一緒に来ている仲間との会話・美味しい食事などを楽しむ、そういった心の余裕・セロトニン的幸せ追求をする視点を持てば、いつもの生活や趣味がより一層豊かになるではと思った次第です。最後までお読みいただきましてありがとうございました。


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