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#645 序列・競争・代行から脱却し、より深い学びへ

社会構造が変わらない限り、学校の構造も変わらない。

ヒエラルキーが存在し、頂点に支配者がいる限り、それを正当化するための受験制度は変わらない。

受験制度が変わらないのなら、外的評価の体制は変わらない。

外的評価の体制が変わらないのなら、地域内・学校内に序列化を生んでしまう。

「学校特殊的問題における」「早く正確に解くことができる」学力が優遇される。

このような学校的学力観では、成績の良い者を頂点とする、序列化が進むのである。

序列化のある社会では、人間はチャレンジ精神を失う。

序列化があるということは、競争も生む。

競争社会では、結果が重視され、協同はなされず、仲間化が疎外される。

失敗したときに、努力よりも、能力や運に帰属するようになってしまう。

共に学ぶ楽しさ、理解を共有する喜びを味わえなくなってしまう。

学習意欲も低下する。

そのような今の学校では、「より早く」「より正確に」「より高得点を」とるために学習が行われる。

テストで正解すればいいのだから、深い理解には行きつかない。

また、ヒエラルキーの上位に君臨する支配者・行政は、教師の教育における裁量権を代行している。

本当は教師にも「学習内容」「学習方法」を自由に決める権利はあるのに、それを代行しているのである。

それにより、教師が、子どもたちの学習における裁量権を代行することになる。

本当は子どもたちにこそ、「学習内容」「学習方法」を自由に決める権利があるのに、それを代行しているのである。

これを「二重の代行主義」という。

行政が教師を管理し、教師が子どもたちを管理するのである。

そんな管理社会では、子どもたちが自分の学びたいことを自発的に学ぶ機会は与えられない。

深く学ぶことができないのである。

これはまさに、悲劇としか言いようがない。

子どもたちのもつ学習権を保障するべきである。

そのためには、学習内容、学習方法を個別最適化するべきである。

社会構造が変わらないのであれば、教師自身が変わらなければならない。

少しずつ、身の周りから変革していきたい。

では。

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