見出し画像

劣等コンプレックスを最小化する社会創りを。

全国学力調査の「全国平均点」という指標と比較し、その点数との以上以下に過度に一喜一憂すること。平均点以上を取ることを自治体の教育政策等に据えて公表すること。。。
個人的には疑問を感じます。

注)全国学力調査そのものの是非はまた別の議論であり、ここでは、「全国学力調査が実施されている」という状況がある中で、その利用方法についての疑問について述べています。また、本注記より前に述べた文章から「だから学力調査は廃止すべき」と論じるのはやや乱暴という考え方であることを断っておきます。

主な理由を挙げると下記の通りです。

①一人一人の子供の「5教科」の「全国平均点との比較」だけで、特定の括り(自治体等)の「教育」という領域(端的に申せば、教科学力に留まらない)の政策判断等に使うことは、その特定の括りにおける「教育」をよくするといえるでしょうか。

②そもそも学力調査は調査することが目的なのですから、調査の結果の利用の仕方として適切でしょうか。

③様々な理由によって5教科で測った場合の点数が芳しくないという特性のある地域もあるのではないでしょうか。また、そのような地域では、全国平均点と比較するのではなく、調査の結果を活かし、子供たちの「学びに向かう力」が向上すれば、それは素晴らしいことではないでしょうか。

そして、最も大きな理由は、冒頭で述べた現象が目立つ社会は「幸せ」な社会創りにつながるといえるでしょうか、ということにあります。


たとえば、自治体において、「学力調査の自治体平均点が、全国平均点を上回ること」という目標を設定したとします。
すると、自治体において「学力調査の全国平均点を上回る」ための教育政策が実行され、公教育の現場では「学力調査の全国平均点を上回る」ための実践が行われるでしょう。
結果として、子供たち自らも、学力調査で高い点数を取ることをより強く意識することになりかねません。

ティール組織』(フレデリック・ラルー)にこんな一文があります。

自分の深い内面と結びついていない人生の目標を設定すると、つまり他人の顔を身にまとっていると、私たちは自分自身の強さの中に立っていないことになる。必然的に、自分には何か欠けており、自分の弱みを克服しようとするか、あるべき自分になっていないのは自分または他人のせいだと非難することにやっきになってしまう。

自分の深い内面と結びつけるためには、心身の発達が必要です。そして本著では、大人でも自分の深い内面と結びつけた人生の目標を設定することが難しいとされています。
従って、自治体の教育政策の影響を受け、上記のような状況に置かれた子供たちは、より「自分の弱みを克服しようとするか、あるべき自分になっていないのは自分または他人のせいだと非難することにやっきになってしまう。」方向づけをされる気がします。
そしてこれは、劣等コンプレックスと向き合う機会を増やしている、とも解釈できると思います。


私個人の過去を振り返ってみても、劣等コンプレックスは発達段階で誰しも形成されるものだと思います。換言すれば、「劣等コンプレックスが形成される状態」は、とりわけ、精神の発達が未熟なうちは自然なことなんだと思います。

自分の内面で、劣等コンプレックスが占める割合が小さい方が、幸せを感じる状態です。少なくとも私は。
だからこそ大人社会は、子供が劣等コンプレックスを抱いている場合、そのコンプレックスを弱めたり、あるいは、コンプレックスをバネに、子供自身が成長するよう方向付けるべきだと思います。

そして成長には、弱みを克服する、つまり、垂直方向への成長もあれば、方向を転換し別の強みを見つけに行く、つまり、水平方向への成長もあると思います。
子供に様々な形での成長機会を用意して、劣等コンプレックスを自身の成長につなげる方法を身につけてもらうことが大切であって、「あるべき自分になっていないのは自分または他人のせいだと非難することにやっきになってしまう。」子供になってほしくはない。
そうは思いませんか。

学力調査の話に戻します。
指標は「全国平均点」です。
点数の分布が正規分布に近いものになるとすれば、おおよそ半分の自治体が「全国平均点」以下、となるわけです。

多くの自治体で「学力調査の自治体平均点が、全国平均点を上回ること」という教育政策と立てたとします。
自治体の子供自らが、自分の弱みを克服しようと努めても、現実として半分の自治体は「全国平均点」以下になる環境が社会には生まれてしまいます。

上記で述べた「成長」について考えてみてください。
「学力調査の自治体平均点が、全国平均点を上回ること」という目標を立てた教育政策は、果たして、子供の成長に寄与する政策と言えるでしょうか?

ティール組織』の一文を再掲します。

自分の深い内面と結びついていない人生の目標を設定すると、つまり他人の顔を身にまとっていると、私たちは自分自身の強さの中に立っていないことになる。必然的に、自分には何か欠けており、自分の弱みを克服しようとするか、あるべき自分になっていないのは自分または他人のせいだと非難することにやっきになってしまう。


社会全体の劣等コンプレックスが最小化された状態が続くこと、それが私の考える「幸せな社会」の1つの在り方です。
繰り返しますが、劣等コンプレックスが内面に形成されることは誰だってありますし、自然なことだと思うんです。その感情を克服するために、垂直方向ないしは水平方向に自分が成長することを一人ひとりが継続できる社会の状態が、「社会全体の劣等コンプレックスが最小化された状態」だと思います。

だからこそ、「あるべき自分になっていないのは自分または他人のせいだと非難することにやっきになってしまう。」ことが少しでも社会から少なくなるように、精神の発達な未熟な子供の段階において、子供たちが成長できる環境を大人社会が用意することは、「教育」の視点において極めて大切だと、私は考えます。
※ここで用いている「成長」は、上記で述べた通り、垂直方向と水平方向の両方があることを繰り返し断らせていただきます。


「学力調査の自治体平均点が、全国平均点を上回ること」という目標を立てた教育政策は、果たして、子供の成長に寄与する政策と言えるでしょうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?