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夏の終りに夏の思い出について考えてみる

こんにちは☻
ピラティスインストラクターの寺田マリです☻☻

8月もいよいよ終わりに近づいて、なんとなく秋の気配も感じる今日このごろ。

先日のマットピラティスアドバンスクラスのときに、先生が”なんだか夏らしいことがひとつも無いまま、夏が終わってしまいそうだね”なんて話をしていて、あぁ確かにそうだなと。

夏と言ったら何を思い浮かべる?

打ち上げ花火に、かき氷!
はたまた、冷えたビールと枝豆か?

私にとって、夏の思い出ってなんだろう?と考えたとき、真っ先に思い浮かぶものって正直なところ何も無い。

バレエ教室に居た頃は、毎年夏には生徒たちと共に合宿に行って、お盆休みが一週間ほどあって、それが明けたら秋の舞台の振り付けとリハーサルの日々が始まる。

お盆休み中に日程が合えば、友達とバーベキューに行ったりしたけれど、浴衣を着て花火大会デートをしたり、海にドライブに行ったり…そんないかにも夏!なイベントはあまりこなした記憶がない。

ただ、私の中で、ある夏のバレエの舞台はすごく記憶に残っている…というか、一生忘れることは無い。そのくらい、あとにも先にもかけがえのない経験だった。

こんなことを言ってもあまり信じてもらえないかもしれないけれど、私には『新国立劇場のオペラ劇場で主役を踊る』という、非常にレアな経験がある。

22歳のときだった。

地方のバレエダンサーたちが一同に介して二日間、新国立劇場のオペラ劇場で踊れるという夢のような公演があって、私はその機会を得て舞台に立っていた。

『オーロラの結婚(眠れる森の美女より)』という演目で、私は主役のオーロラ姫を踊った。

各地の出演団体がそれぞれに作品を持ってくる形で、地元出身のプロのバレエダンサーが主役を務めるのが当たり前の状況で、私は大学生のアマチュア。

おまけに海外のバレエ学校への長期留学経験もなければ、コンクールでの受賞実績も無い…そんな私がなぜか主役を踊っているという、なんともイレギュラーな状況だった。

同じ山梨の出演ダンサーの中にも上手な子はいっぱい居た。

ロシアに留学していた子、アメリカに留学していた子、全国規模のコンクールで上位の子…中にはその後ロシアの名門バレエ学校に留学した子も居たし、今ではゲストダンサーとして国内の公演に呼ばれる程になった子も居た。

そんな中で私が主役を踊るのは、正直辛かった。

胃も痛くなったし、ご飯を食べれば吐いていたし、生まれてはじめて胃カメラを飲んだのもこのときだった。

役が決まった経緯については、先生から詳しく聞いた。

オーディションで私が一番上出来だったわけではないのは自分でもわかっていたから、正直なところ話を聞いてもなんだかよくわからなかった。

自分の約30年間のバレエ人生の中で、”お願いだからこの場から逃げ出させてほしい!!”と切に思った舞台が3つある。

そのうちのひとつがこのときだった。

本番当日のリハーサルではビビって足がすくんで捻挫をしそうになった。そのときはもう、本当に逃げ出したくて涙が我慢できなかった。

"泣いたら周りのみんなが心配するから泣くな!!"と怒鳴られたし、"あのとき氷を探して走ってやったのは誰よ?"とことあるごとにその後言われたり…

もう散々だった。

だけど、あの日、あのとき見た景色はきっと死ぬまで忘れない。

どんな理由であっても、あの日、あのとき、私は間違いなく大舞台のど真ん中に居て、私の動きに合わせて指揮者の大御所先生は指揮を振ってくれたんだ。

”僕が踊らせてあげるから大丈夫よ。のびのびやんなさい。”とおっしゃった指揮の先生の言葉はずっと忘れない。

小学校の卒業式で”大きくなったらバレリーナになって有名な舞台に立ちたいです!”と夢を語ったけれど、それが叶った瞬間だった。

どんな理由であっても、あの日オーロラ姫を踊れたことにはとても感謝している。

当時は自分が役に選ばれたことを恨んだけれど、あの経験があったからこそ、今の私がいるんだと思うし、”自分らしくのびのびとやれよ”と言われることで最大限に輝けるということがわかったかもしれない。

舞台までに履き潰したトウシューズは数しれず、吐いた数も数しれず…でも、たしかに”私はわたし”だった。

そんな思い出が蘇る夏の終わり…


さて、明日は楽しい記事を書くね!!笑


今日もお読みいただきありがとうございました☻☻





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