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結局「ニッポン・オリジナル」とは何だったのか?

(写真FIVB)


30年かかったことがわずか3~4年で動いた

 今思えば、1990年代後期以降、日本の男子バレーボールは女子に比べ、オリンピックに出場できない大会が長く続いてきました。国際大会における結果と同じように、試合内容も何か観ている人には、世界との圧倒的な力の差を感じさせてしまうものが繰り返されてきました。そのたびに、悲喜こもごもいろんな感想やオピニオンが出てきたわけです。
 昨年の東京2020オリンピックでは、29年ぶりに決勝トーナメントに進みベスト8(7位)に。今年のネーションズリーグ2022でも、史上初のファイナルラウンドに進出(5位)に入り、世界の強豪国と堂々と勝負している潮流が続いています。直近の2022世界選手権では決勝トーナメントに進出。ベスト16で終わるも対戦した五輪金メダルチームのフランス相手にフルセットで、勝利に手がかかった中、惜しくも最後に逆転を許したものの大善戦を演じました。

 これまでの間、約30年間というのは、日本の男子バレーボールが単に低迷を続けただけではなく、世界のバレーボールが、バレーボールと言うスポーツ競技自体が、ルール変更や科学技術の進歩などによって大きく変わってきたわけです。そしてその変化は未だに続いている中、日本の男子バレーボールは、長いトンネルを抜け、今は完全に光指す舞台でバレーボールをしている情勢にあります。「その変化」は、約30年続いた低迷期と比べて、極めて短期間とも言える中で一気に起きたようにも見えます。

急に言われなくなった「高さとパワーに負けた」

  1996年のアトランタオリンピック以降の日本男子バレーボールの低迷期にあって、欧米勢のチームに圧倒されてきた歴史の中で度々日本のバレーボールに対して言われた言葉の一つに「高さとパワーに負けた」というのがあります。もはや身長2メートルを超える選手が珍しくなく、そんな彼らが強烈なサーブを打ち、攻守の要を務めています。
 そんな情勢下、平均身長では常に大きな差があった日本のバレーボールを評する象徴的だった言葉が「高さとパワーに負けた」。一時期からは、努力では溝を埋めるのが難しいどうしようもない、あきらめにも近いフレーズにさえ聞こえてくるほどでした。
 では、近年の日本の男子バレーボールの選手たちは、飛躍的に平均身長が上がったのでしょうか?大型セッターが確立されたでしょうか?依然として各国との平均身長の差はあるわけですが、この「高さとパワーに負けた」は聞かれなくなってきています。
 そもそも現代バレーのトップカテゴリでは、ブラジル男子代表をはじめとする強豪チームでも目覚ましい飛躍的な大型化が進んだわけではありません。

急に言われなくなった「サーブミスで負けた」

 「敗因はサーブミスの多さ」、「サーブミスが痛い」、「サーブは入れていかねばならない」・・・これも低迷期に、何度も何度も耳にしたフレーズです。日本での試合会場でも、サーブミスに対する観戦する人々のため息もよく聞かれました。
 ここでも人々のマインドが変わってきました。以前から日本では、素晴らしいサーブを打つビッグサーバーはいたわけですが、実況や解説はもちろん、観客やおそらく画面越しの視聴者も、サーブミスに対するネガティブなマインドは低迷期のそれとは違って、ポジティブなものになってきているはずです。きっと積極果敢なサーブの重要性に気付いてきたのでしょう。
 日本男子バレーの低迷期を抜け出したころには柳田選手が、そして今は石川選手や西田選手が世界の中でもサーブが脅威として存在感を高め、そのほかにも小野寺選手や山内選手などMBの選手たちでさえサーブの効果が期待できる活躍を見せるようになりました。

「日本のお家芸~スピードとうまさ」はどこへ行った?

 昔から言われた、海外勢の強さを評した「高さとパワー」。日本のバレーボールは低迷期にあっても、諦めたわけではなく何とか打開策を模索してきたわけです。
 そこで度々登場していたのが、「日本らしさ」「日本オリジナル」というものです。さらには、海外チームの高さとパワーでは対抗できない分、別の要素で対抗する。他の要素で海外勢を上回ろうと考えていたわけです。
 「はやさ」「スピード」「守備」「うまさ」・・・このあたりで日本のオリジナリティを出して優位に立とうとする声もしばしば聞かれてきました。
 しかし、世界の情勢は、2メートル級の選手がアウトサイドヒッターとして攻守の要を務めたり、強烈なサーブを叩き込んできます。細かなボールコントロールも当たり前のようにこなしていたわけです。そんな状況に日本はますます埋没していってしまいます。
 現在、サーブ戦術もハイブリッドサーブやショートサーブも織り交ぜるようになり、相手チームのオフェンスをいかにアウト・オブ・システムにもちこみ、相手オフェンスの数的優位を減退させ、自チームのディフェンスを優位にするかが当たり前になってきています。従来はMB(ミドルブロッカー)は、レセプションから外れることが主流でしたが、近年はMBのレセプション能力も必要とされてきています。
 守備力の高さや、個人技のうまさと言われるものは、もはや日本の専売特許でもお家芸でもなくなってきています。

「日本の文化や気質に外国人監督は合わない」と言っていたけど

 約30年間の低迷期においては、組織的な迷走もありました。何度か、低迷にあえぐ日本の男子バレー再興のために、外国人監督の招聘の機運もありましたが、その度に日本人指導者に固執した動きが目立ち、新しい風やイノベーションを起こす機会を逃してきました。
 現在バレーボール日本男子代表チームは、フィリップ・ブランが指揮を執っています。気が付けば、今は外国人指導者が、日本代表のヘッドコーチ(監督)を務めていることに違和感を持つ人はいません(ゼロではないでしょうけど)。
 そもそも、日本のバレーボールの強化に、日本人か?外国人か?という基準自体が、あまりにも理不尽と言うか不毛な議論ではなかったでしょうか?
あの時の、外国人監督アレルギーは一体何だったのでしょうか?あの時に足を引っ張っていた人々は、今の状況をどう説明するのでしょうか?

ヒーローやカリスマ・・・個人の要因だけでもない

「誰が出ても勝てるチーム」

 最近の、バレーボール男子日本代表チームの話題から聞かれるようになったフレーズの一つです。
 今思い返すと、日本のバレーボールでは、その時々で「個(個人)にフォーカスする」ことが多かったように思います。エースやヒーローと称された選手に期待が集まり、その個人のパフォーマンスや調子ばかりに視点が置かれてきた感があります。その重圧によって、何人の選手が苦しんだでしょうか。
 日本の男子バレーが低迷のトンネルから抜け出す頃に符合するように、そうした個人への依存から脱してきているように見えます。

 「誰が出ても勝てるチーム」の体現・・・。
 確かに、2019年のワールドカップよりも、2021年の東京2020オリンピック、さらには今年のネーションズリーグや世界選手権利と、時を重ねるごとに世界の強豪チームと渡り合えている様を、多くの人々が感じているのだと思います。
 それは、個人の依存から、全体の底上げへ。そして一人一人のパフォーマンスや個人技の集合体から、システムや戦術を駆使できる組織体へとアップデートしているのではないでしょうか?

まずは「眼に見えることから」「何をやっているのか?」から

リードブロックを土台にしたブロック枚数の確保
バックアタックを標準装備し、シンクロ攻撃によるアタックの数的優位
相手ブロッカーの思考判断の裏をかくフェイクセット
ビッグサーブ、ハイブリッドサーブ、ショートサーブなどのサーブ戦術の多様化
ドリフトクイックとバックアタックの連動

などなど
 現代のバレーボールのゲームで見ることができる、眼に見える形で表現されているプレーやスキルを「やってみる」ことは、日本男子代表にとっては、非常に大きな一歩だったのだと思います。
 これまで
「世界と同じことをしていては日本は勝てない」
「高さとパワーに劣る日本は、日本オリジナルを追究しないと勝てない」
などというお題目で、長年(世界の当たり前を)「やってみる」ことに蓋をしてきました。ある意味「思い込みの悲劇」「固定観念の呪縛」となっていました。

(みんなが)「やっていることには必ず意味がある」

 バレーボールは、チームスポーツとしてのネットを挟んだ攻防による対戦型ゲームです。そこで繰り広げられるシチュエーションの数々は、完全再現が限りなく難しいものであり、バレーボールのゲームで起こっている現象は、単純な要素やパーツの組み合わせやパターンだけでは生み出すことのできない、要素還元主義では説明しきれない「複雑系」(※1)であると考えます。
 そんな複雑系(※1)を、「今必要とする目指す姿」として成立させるためには、ある種の、概念や思考判断における原理原則やディシプリンみたいなものがないと、「今必要とする目指す姿」に到達できないのではないでしょうか?

 この場合、「今必要とする目指す姿」=「現代のバレーボールで対等に戦うこと」だと考えてみた時、やみくもに独自の理論や推論で技術や戦術を打ち上げる「ジブンタチノバレー」ではなく、みんなが(世界が)やろうとしていること、広く取り組んでいることを「やってみる」ことで、戦う内容で同じ土俵、または同じスタートラインに立つということになるんだろうと思います。
 バレーボールというスポーツ、競技というものは、組織体としての機能や成長が求められる世界です。そして成長やディベロップメントには、構造的なものがあるはずです。そういった組織体としての機能や構造に反する要素・・・つまりは、選手の主体性やチームとしての試行錯誤を阻害するような指導法や構成員のアプローチ、当事者の意識や思考が働いてしまうと、その組織(チームが)機能していかなくなるのです。

 下の図は、そういった関係性を、表してみたものです。 
 ここで言うところの「眼に見えていること」、「まずはやってみたこと」というのが、図でいう最上部の「プレー指針」なのではないかと考えます。
 おそらく、東京2020オリンピック以前の、今から3~4年前の日本男子代表の段階は「まずはやってみる」、つまりは、真似やコピー的な導入段階であって、やっていることの意味や本質には迫れていない可能性も残ります。おそらく、今の日本男子代表が、2019年のワールドカップや東京2022オリンピックよりも「いい感じ」に見えるのは、少しずつその意味や本質に迫りつつあるからなのではないかと考えます。

次に(眼に見えている現象は)「なぜ起きているのか?」っていう眼に見えにくい仕組みや必要性を理解する

 人間誰でも、起きている現象をとらえるためには、百聞は一見にしかず、まずは見えていることから始まるのかもしれません。
 サーブを工夫し、バックアタックを標準装備してシンクロ化していく。リードブロックを当たり前のこととして取り組む、フェイクセットをやってみる・・・。
 しかし、そういう眼に見えることを「やってみる」だけでは、なかなか世界との差を縮めることができなかったわけです。それが東京2022オリンピックまでの段階だったのではないでしょうか。一見、ブラジルやポーランドなど世界の強豪と同じようなプレーをしているように見えても、結果、力の差がまだ大きく感じられました。
 そこで足りなかったのは、(みんな)「なぜそれらをしているのか?」という眼に見えるプレーやスキルの発生源とも言える、ゲームのコンセプトやコンセンサス、思考や概念みたいなものへの理解だったと考えられます。
 バレーボールというもので表現されていること、発生していることというのは、すべてを単純化しパーツとして組み立てているものではありません。ですから、人間(選手)の思考やアイディア、インスピレーションや相互のシナジー効果が、安定的に発揮・機能できるような概念や思考判断の仕組みが必要だったわけです。
 こういった共通理解を示すものが、図でいうところの、最上部の下に位置する「ゲームモデル」というものになるんだろうと思います。
 これは先に挙げた「プレー指針」よりは、ぱっと見だけではとらえきれないものとなります。

攻撃(アタック)の数的優位
ブロックの数的優位
個々のスキルの質的優位
自チームの守備をシンプルに単純化させ、攻撃は多彩な攻めにするために必要な位置的優位
パニックゾーンやアウト・オブ・システムに陥るのではなく、常に意図的に選択肢を確保することでカウンターを創出する思考判断的優位

 上に挙げたものが、男子バレーが進んでいる現代バレーの姿へとつながるものです。
 眼の前で起きているプレー、眼に見えてくるプレー・・・バックアタックをからめたシンクロ攻撃や、リードブロックを土台としたブロックシステム、フェイクセットからの攻撃・・・こういったものが「なぜ出現しているのか?」というものへの理解、思考の構造的な認識がない限り、コート上のプレーヤー(選手)たちは、その場で自ら考え判断し、主体的にアクションすることに限界が生じます。その限界は「パターン」であったり「指示待ち」であったり、「型にはめる」という状態になってくるわけです。

さらに、「そのためには何が必要か?」を考え、「みんながものにする」ことが必要 

 ここまできて、眼に見えているバレーボールのゲーム、プレーや戦術が、「ああなるほどそういう理由があるのか」というレベルまで落とし込め始めたとします。ここまでの段階でようやく「頭で理解できるようになった」ということかもしれません。
 ですからその次に課題となるのが、そのチームのすべての選手が理解して「ゲームモデル」の実現させるために必要な「プレー指針」の実行のもととなる技術やスキルが求められてきます。いわゆる「基本練習」とか「ファンダメンタル」と言われるような部分です。

・4枚のアタッカーによるシンクロ攻撃を成立させるためには、「セッター」は相手ブロッカーに選択の的をできるだけ絞られないよう、オーバーハンドによって全方向にいつでもセットできるようにしなければならない。つまりは、フロントセットやバックセットのみに拘束されることなく、サイドセットも同等の必要な基本技術とする。

・サーブは日々進化しており返球は容易ではなくなってきている。そのためあらかじめ落下点で限定的な姿勢(正面など)で拘束されるのではなく。フレキシブルな動きと多角的なプラットフォーム(レシーブ面)の安定的な操作によって対応できることを当たり前としなければいけない。

・組織的なブロックシステムは、「シーアンドリアクト」によってなされるリードブロックも、単なるバンチやデディケートといった配置との組み合わせのみで遂行されるものではなく、「ゾーン・マーク」という基盤にもと、相手の多彩な攻撃に柔軟に対応できるようになっている。

 「当たり前」や「基本」というのは、特にトップカテゴリーのハイレベルでハイパフォーマンスなゲームの中では「見えにくいもの」です。
 しかしこのように、「プレー指針」⇒「ゲームモデル」⇒「共通の当たり前」というように深堀していくと、まさに地面の下に埋もれているものが見えてくるごとく、前提とすべき要素が明らかになります。
 こうやって、「系統性」が導き出されてくるのではないでしょうか。そして、「基本」という以上、それはカテゴリーを貫いたトップカテゴリ―からアンダーカテゴリーを貫く全員に当てはまるものにならないといけません。
 今回は、階層構造の図の上から掘り下げる形になってしまいましたが、先述の通り、長い低迷と迷走の打破においては止む無しだと考えます。
 しかし、本来あるべきアップデートは、むしろ「下から上へ」。
 階層が下の要素ほど間違ってはいけない拘束力のあるものとして、日々点検していかねばならないものです。


「単調な」殴り合いから「対等」な殴り合いへ

 こうして考えていくと、バレーボールのゲーム(試合)の戦い方や見え方も少し変わってくるのではないでしょうか?
 例えば、「単調なオフェンス」と称される状態があるとします。誰が観てもセットされる場所が限定されている中でのスパイク・・・オープン攻撃やハイセットなどが分かりやすいと思います。
 しかし、コート上の選手たちが、どのような共通理解や認識の中でゲームをしているかによって、その意味合いも違ってくるのです。つまり「ゲームモデル」のあり様に注目すると、起きていることがポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかが見えてくるはずです。

 低迷期にあったかつての日本男子代表のバレーボールにおいては、強豪チームのオフェンスシステムに対応しきれず、防戦に終始し、アウト・オブ・システムからの止む無し的な攻撃をせざるを得ない。ネガティブなオフェンスが多かったわけです。
 他方、今の日本男子代表は、仮にシンプルなオフェンスだったとしても、全体として取り組んでいる「ゲームモデル」のもとにおける、一つのシチュエーションとして、意図的に、ポジティブにカウンターに持ち込めているわけです。
 一見同じような攻撃だったとしても、かつてのネガティブな意味における「単調な殴り合い」だったものから、今は(世界のシステムを取り入れた)「対等な殴り合い」へと進化していると言えます。

主観を極力排除した総括をするために

 「スピードで勝つ」、「サーブで勝つ」、「レセプションで勝つ」、「守備力で勝つ」、ましてや「精神力で勝つ」・・・バレーボールはそんなに単純な営みではないのです。
 バレーボールは、ネットを挟んで相手と攻防を繰り広げるスポーツ。ですから相手の正確な把握も重要です。そしてその相手の現状に対して、どのように戦うか。まずは同じ土俵、同じスタートラインに立ってから、個々のパフォーマンスやテクニックの勝負、戦術の仕掛け合いによる頭脳戦になっていくのです。
 こういったバレーボールのゲームをどう構築していくかにおいては、一部の指導者の経験や感覚に依存した主観的なもので意思決定されるのは危険性が多くあるのです。

期待される「内からの」アップデート

 低迷の長いトンネルからの脱出に30年間かかった。しかもその突破口は、いち早く海外でのバレーボールに挑戦してきた何人もの選手たちからの刺激と、東京2020オリンピックまで中垣内氏の緻密な戦略とマネジメントによって外国人コーチのブラン氏の招聘で大きく動いたわけです。

 これから期待されることは、外から(外圧)によるアップデートだけではなく、日本のバレーボール界の中での主体的なアップデートがなされることです。それによって、持続可能な進化を続けていくことだと考えます。
 そのためには、バレーボールという競技を、より構造的にとらえることで、多くの人がディスカッションの土台を共有し、あらゆる立場の人々からの知見やデータを総動員して、技術検討や戦術の分析、全体として試行錯誤を継続していく体制や風土が必要です。

「基本」は時代とともに変わる

 30年間も続いた日本バレーボールの低迷の要因は、多岐にわたり複雑に絡んでいるので、一言では説明しきれませんが、その最たるものの一つが、日本のバレーボール界にある、指導観、指導風土、それによって固定化されたプレー観があります。
 今回述べてきたように、バレーボールを構造的に掘り下げていくと、目に飛び込んでくる「プレー指針」もそれを支える「ゲームモデル」も、4年に一度のオリンピックを経るたびに進化してきているわけです。ですから、それぞれにおける「基本」も変わって当然なわけです。
 しかし、残念なことに、日本のバレーボール指導者の声を聞いていると、まだまだ20年前、30年前から言われている指導方法や指導観をそのまま踏襲していることが少なくありません。これこそ、トップカテゴリ―から技術検討が系統的になされず、アンダーカテゴリーとのつながりのない一貫性のなさという現状になるということです。
 バレーボールという複雑系(※1)の進化には、選手の主体的なアクションと試行錯誤、そして周囲はそれを最大限機能するようなサポートをしなければいけません。


「オリジナル」は、「同じ当たり前」をやってから・・・その先にあるもの

 ボールゲームでありチームスポーツであるバレーボールに対して、何か採点競技みたいな見た目の形や体裁に偏った視点だったり、水泳や陸上競技みたいな数値の競争的な視点に偏っては、複雑系(※1)であるバレーボールの構造には迫ることができません。

 おそらく、「標準」とか「基本」とか「基準」というものは、一部の人が勝手に決めるものではなく、その時代、その時点において、それに関わるあらゆる分野や立場の人々の取組を通して得られた膨大なデータ(結果や経験)から、最適なものや最適化に必要な要素が見つかっていくんだと思います。
 ですから、バレーボールでは「他のみんながやっている当たり前」を自分たちにも導入することは、恥ずかしいことでもなければ、負けでもありません。むしろ、バレーボールと言うものの特性上、必要なプロセスなのです。
 
 (当たり前を無視した)「他と違うこと」をやれば勝てる・・・おそらく体操競技やフィギュアスケート、スノーボードのハーフパイプなどの採点競技では、誰もがやっていない「技」を成功させれば、高得点で勝利を得ることができるのかもしれません。
 しかし、バレーボールは採点競技ではありません。アーティスティックスイミングのように、集団を統制しながら様式美を精錬していくものでもありません。ボールを用いた対戦型のチームスポーツであり、しかもボールを保持できない瞬発的な思考判断を求められる競技です。そこで繰り広げられるシチュエーションは、すべてパターンでは再現しきれない「複雑系」(※1)のスポーツです。

・「高さとパワーに負けた」
・「日本オリジナルをすれば勝てる」

 こういった、バレーボールの構造をとらえないままでの感覚的な対策論ではなく、世界の強豪国、チームと「同じ土俵」「同じスタートライン」に立って初めて競争、戦いが始まるのです。日本の男子バレーは、30年間かかってようやく、待ちに待った「土俵」「スタートライン」に立てたとも言えるゲーム内容になったのではないでしょうか。

 長い間、日本のバレーボール界が追い求めていた「日本オリジナル」。それは実は、独自路線をひた走ることではないのです。目的と手段を間違えてはいけない。これまでの30年間は、目的無き手段先行、または、間違った目的から生まれた手段によって脱線をしてきたのかもしれません。
 まずは現時点でみんなが必要だと思ってやっていることを取り入れる、ある意味土台はみんなと同じことをやりながら、そこから先の創意工夫やハイパフォーマンスによる勝負、そして戦略や戦術によるゲームシナリオでの戦いになっていくのです。さしずめ、「ゲームモデル」が目的の「プレー指針」がその手段・・・といったところです。もし本当に世界をけん引するような日本オリジナルがあるのなら・・・、それは枝葉のプレー論ではなく、組織や組織システムにおける試行錯誤の機能を絶やさない仕組みを構築していくことだと考えます。
 日本がこれまで求めてきた「ニッポン・オリジナル」は実は「ガラパゴス化」と迷走への入り口だったのです。

(※1)「複雑系」とは
【複雑系(Complex System)】無数の構成要素から成る ひとまとまりの集団のこと。 各要素が、他の要素とたえず 相互作用を行っている結果、 全体として見れば、各部分の動きの 総和以上の何らかの独自のふるまい (シナジー)を示すものであり、その全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなもの。

(2022年)
※10月2日加筆・修正①

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