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いきなり床屋で働いて7年後に自分のお店を出した理容師の話【大阪 松原市 "JINKEY" 代表 徳田健司さんの半生 前編】

「無理せずに充実した人生を送っているヒト」

徳田さんは、私が通っている床屋
"JINKEY BARBERSHOP"の店主だ。

床屋といっても"青と赤と白のクルクルしたやつ"が回っているわけでもなく、赤が基調の店内には、バーカウンターがあったり、サーフボードも置いてあったりと、野太さ全開のイカした空間が広がっている。

店内には徳田さん一人。カットの技術も去ることながら、マンツーマンでじっくり会話も楽しめる。

お店の野太さとは逆に、徳田さん自身は穏やかでゆったりしていて、こんな言い方をすると怒られるかもしれないが、癒し系男子だ。

そんなギャップに魅了されて、ここ5年ほど1ヶ月に1回のペースで通っている。

先日も髪を切ってもらっていたのだが、その時にふと思った。

「徳田さんは僕のことをある程度わかっているが、僕が徳田さんのことをわかっていないのは、大事な頭皮を預ける上で対等ではない。よってインタビューをさせてもらうべき」

我ながらわけのわからないクレーマーのような発想だなと思うが、約5年の付き合いになる徳田さんがどんなヒトなのか正直わからない。

一回のカットで1時間×12ヶ月×5年=合計60時間

すなわち2泊3日で旅行に出かけたのに、僕は徳田さんのことを何も知らずに帰宅している。そんな旅行はない。お互いのことを知っている旅行の方が楽しいに決まっている。

そんなクレーマーからのインタビュー依頼を、徳田さんはにこっと笑顔で「いいですよ~」と快く引き受けて下さった。

こんなクレーマーに付き合ってくれた徳田さんには本当に感謝。インタビューを通じて徳田さんの半生を深堀してみた。

(取材・文・編集・写真/奥行太郎)

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【プロフィール】徳田健司さん

1990年滋賀県大津市生まれ。高校卒業後、堺市で3店舗展開している床屋に入社、約3年間理容師としての基礎を学ぶ。退職後は、母親が経営していた美容室で約1年間カットの技術を学んだ後、倉庫作業やカラオケ店、スペインバルを始めとする飲食店で理容師以外の仕事に従事。2016年には"JINKEY BARBERSHOP"をオープンさせる。お客様がくつろぎやすい空間を提供するとともに、クラシカルなスタイルからトレンドなスタイルまで、幅広い髪形をマンツーマンで提案している。趣味は一眼レフとゲーム。プライベートでは2019年に結婚。


徳田少年

まずは幼少期のお話。幼稚園の時に親御さんの離婚に伴い大阪へ引っ越すという、いきなり変化に富んだ幼少期を過ごしていたそう。

年少か年中ぐらいで両親が離婚して大阪に引っ越しました。前のお父さんはちょっと楽観的やったみたいで、そこが母親とうまくいかなかったみたいです。
元々滋賀の大津にいたんですけど、その時に幼なじみみたいな男の子と女の子と、ずっと遊んでたのをめちゃくちゃ覚えてて。引っ越してきてからそういう子がいないから、基本心は閉ざしてましたね。
小学校3年生まで学童に行っていたことも影響しているとは思いますが、1年〜4年まで、友達を家にあげたのは2人ぐらいです。普通はもうちょっと家で遊ぶイメージがあるんですが。帰ってからどこどこで遊ぶみたいなのも一切やったことなくて。学童から帰ってきても、家でゲームしたりアニメ見たり。それくらいしか覚えてないです。
1人遊びは今でも好きですけど、その時は1人の方が圧倒的に楽しかったです。団体が嫌いってわけじゃないですけど大事にしてますね、1人の時間は。今のベースは小学校1年〜4年の延長かもしれません。

小学校5年生の時に転校。そこで一気に友達が増えたそうだが、中学校~高校までの話を聞いていると、小学校1年生~4年生までの徳田さんをベースにした、肩肘張っていない少年を想像してしまった。

転校した5、6年の時に友達がめっちゃ増えたんですよ。前の学校とはちょっと肌感が合わなかったかもしれないです。今でも地元で遊ぶというと5、6年の時の友達ですね。
中学校も引き続き楽しかったです。一時期幽霊部員でしたけど、卓球部に所属してました。自分は勉強が苦手で、受験はあんまり頑張れなかったです。塾の講座の後に自習室で勉強して帰る、みたいな流れやったんですけど、金八先生見たくて帰りますとか言うてましたからね。それぐらい勉強から避けて通ってきました。まぁなんとかなるやろうと。最終的には家から一番近い高校に行きました。
高校はバイトばっかりでしたね。焼肉屋さんのバイトとか、茶碗蒸しの工場のバイトも行ってましたし、その後は古本屋でバイトしてました。3年の時はバイトも何もしなかったら、おかんにめちゃくちゃ怒られて。再婚した父親が、高2の時に洋食屋を経営し始めて、そこを手伝って小遣いをもらうみたいな生活をしていました。

インタビューの序盤ではあるが、ここからどういう流れで"床屋になる"までたどり着いたのか。全く見当がつかなかった。美容師や理容師になられた方の大半が幼少期や中学・高校時代に、そういうことに興味を持った体験をしているものだと思いこんでいるからだ。

そうなんですよ。将来のことは本当に何も考えてなくて。3年のバイトを辞めた時期に将来どうしようってなって。先生に相談したら、今の学力やったら大学も厳しいよと。内部進学できる仕組みなんですけど、そこにもあがられへんくらいの成績やって。


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おかんの一言で変わる人生

内部進学は難しい、ということが分かった徳田少年は、社会に出て働くという決断をする。そのキーマンは"おかん"だ。

そうなったら無理に大学行っても遊ぶやろうなと思ったんですよ。4年間無駄なるわと。それやったら働こうと。学校の就職課から紹介されて、学校に求人がきているリストに目を通したら、なんかあんまりピンと来なくて。この中から選ばなあかんのか、選択肢せまいなと思って。でもここから真剣に考えだして、おかんに相談したんですよ。
そしたらおかんに「それやったら理容師になりや」と言われました。おかんは美容師で、その頃自分の美容室を経営していたんです。なんで理容師を進めたかというと、床屋って息が長いんですよ。美容室は女性がメインターゲットなので、歳を重ねるごとに女性を触れなくなってきます。美容室に勤めているおじさんやおじいちゃんはあまり想像できないですよね。歳を重ねると、専門学校の先生になったり、ディーラーになったり、オーナー業に徹することが多くなります。
それに比べて床屋は男性がメインターゲットなので、自分もお客様も歳をとっていく。ずっとお客さんの髪を触れるんです。だから床屋は現役でプレーヤーでやってるヒトが多いじゃないですか。ほんなら理容師になって床屋で働こうと思いました。
理容師になるなら専門学校を卒業しないとダメなんですけど、おかんが通信制というものがあると教えてくれて。そこは3年間通わないとダメなんですけど、働きながら勉強ができるみたいな感じやったんです。普通は2年間専門学校通って、それが終わったら資格試験受ける流れなんですけど、専門学校って学費は高いし、いざ床屋で働こうと思っても、初めに就職したところが合わんかったりしたらもったいないなと思って。それやったらまず現場で働いてみて、そこから通信で免許をとったらええかと思いました。


理容師への道


中高時代の徳田少年はどこへ行ってしまったのか。インタビューをしていても、高校卒業前にガラッと人格が変わったように見受けられた。徳田少年のことを理解していた"おかん"にしか出来ない荒業でもあるが、それを素直に聞き入れた徳田少年もすごい。卒業後"本当に"床屋で働き始める。

高校を卒業した4月の半ばぐらいから、堺の床屋で働き始めました。3店舗展開していたんですが、初めは本店で働き始めました。床屋になろうと思ったけど、今まで床屋に全く興味なかったですし、流れがわからず初めはずっと床掃いてましたね。お昼だけ休憩があって、9時〜19時ぐらいまでずっと立ちっぱなしでした。
3日目でもう辞めようと思ったんです。この仕事無理やと。立ちっぱなしで足しびれてるし、社会人ってやっぱりしんどいなと思いました。でもここで辞めたらまた一緒やんとも思ったんですよ。あと1週間続けてみよう、1週間後また辞めたいなと思ったら辞めよう、逃げたろうと思ったんです。

18歳の男の子が、自らの意思とは言えど、突然社会に出て味わう厳しさ。失礼ながらそのまま辞めてしまったんだろうと、インタビューをしながら頭の片隅で思ってしまった。

ほんで結局1週間たったんですけど、やっぱり辞めたいんですよ。あれ?思てたんと違うなと。辞めたいと思ったんですけど、でもあともう1週間頑張ろうと思いました。そしたら徐々に足も慣れてきて、たまたまではありますが、支店にいくことになりました。
なんか今までが適当すぎたから、ここからはちゃんとやろうと思ったのかもしれないです。ここで辞めたらまたダラダラいきそうやなと直感で思って。なんか大学で遊ぶから働こう思て働いてるのに、ここで辞めたら大学生と一緒やんと。そこは考えてましたね。

支店に異動した後も、厳しい環境には変わりはなかったが、約1年間社会人としてのマナーや礼儀を当時の店長から叩きこまれ、再度本店に異動。そこから必死に働き続け、"床屋"というものの輪郭が、おぼろげながらに見えてきた2年間だったそうだ。3日目で辞めると言っていた"徳田少年"はその頃にはもういない。

そうですね、友達とかは大学生じゃないですか。地元の友達に「高校とかで遅刻しまくってたあのけんちゃんがよう3年も続いてんな」と言われましたね。ようやく2年半〜3年経った頃に床屋ってこういうことするんや、っていうのがわかって、カットをやりたいなと思ったんですが、そのお店がコンテスト重視でして。
オーナーの志向がコンテストで上位取らん奴はあかん、みたいな感じで。僕はそんなことより、お客様のこととか、技術を練習したかったし、何よりも早くカットがしたかったんです。その上先輩も多かったんですよ。上も詰まっていて、結構待たないとカットの位置までいけないことがわかりました。

美容師や理容師に限らず、"やりたいことが出来るまで待たないといけない"という現実と葛藤することは大いにあると思われるが、ここでもまた"おかん"のアドバイスと徳田さんの素直さによって局面が大きく変わる。

それをおかんに相談したんです。ちょいちょいターニングポイントで出てきます。そしたら「もうあんた辞めや」と言われたんです。「違う店でやるか、それかうちきいや」と。とりあえず最初は違うところでやってからっていうのはおかんも思ってたし、「もう3年やったらええかなと思う」と言ってくれて。
そこから数日後、退職の意思をオーナーに伝えました。伝えた後の帰り道、なぜかめっちゃ泣いてしまいました。なんか高校卒業してのほほんと過ごしてきて、そっから急に3年間頑張ってきてしんどかったんでしょうね。解放された、ほっとした感じが出てもうて。おかんに泣きながら電話したら「そっか、これからまた頑張りや」と言われて。泣こう思て泣いてない涙はその時が初めてでした。



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前編を書き終えて

徳田少年が現在の徳田さんに変わっていく過程で、キーマンとなっているのは紛れもなく"おかん"だ。

実際にお母様とお会いしたことはないが、ちゃんと子供のことを見て、子供のことを理解して、子供を信じていたんだろうなと勝手な想像をしてしまう。

文字に起こすとすごく簡単に見えるが、高校でたくさん遅刻をしたり、勉学に励まない息子に対して"信じる"という行為は、自分に置き換えると非常に難しい。色々な葛藤もあったと思う。本当にすごい。

徳田少年側はどうなんだろう。なぜおかんが進める理容師への道を簡単に受け入れることが出来たのか。徳田さんはこう答えてくれた。

おかんは年中の時から働きに出てて。やっぱり帰りが遅いんですよ。途中で保育園に迎えに来てくれて、そこから職場にいくんですね。そこで母親の仕事ぶりを見ていたので説得力があったんです。小学校の時もそうやし、お店やり出した時もそうですけど、近くでおかんの仕事ぶりを見てきたのが、大きかったと思います。

家族の生活のためにがむしゃらに働き続けた結果、その姿を徳田少年が見て、それを理解し、おかんの言うことなら間違いないと信じた。

子供がいようがいまいが、目の前のことに懸命に取り組むことで、必ず誰かが見てくれている可能性があるということを、徳田さんを通じたインタビューから学ばせていただいた。

今自分が何のために働いているのかわからないという方は、是非後編も見ていただきたい。

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<JINKEY BARBERSHOPホームページ>

http://www.jinkeybarbershop.com/
<JINKEY BARBERSHOPインスタグラム>

https://www.instagram.com/jinkeybarbershop/
※撮影時のみマスクを外して撮影を実施しております。店内では各感染防止対策実施中です。

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