17年前に志した独立を実現した後悔のない生き方【大阪 上本町 "米Lab 百福" 代表 浜田修司さんの半生 前編】
「清々しい人」
奥行太郎、生まれて初めてのインタビューは17年来の付き合いとなる浜田修司さん。私が学生時代にアルバイトしていた飲食店の店長とバイトという関係性からスタートし、卒業後もお互いのフィールドで切磋琢磨し合う関係性が続いている。
この日だけインタビューをする人とインタビューを受ける人といういつもと違う関係性として顔を合わせた。
ちなみに清々しいとは
"さわやかで気持ちがよく、思い切りがよい"
という意味のようだが、浜田さんは17年前から"清々しい"そのものであった。
会ったことのある人なら、誰しもが「さわやかだ」というのではないだろうか。一緒に仕事をしたことがある人なら、誰しもが「思い切りがよい」というのではないだろうか。
インタビューした際の印象もまさしくその言葉がふさわしい。
浜田さんがどう生きてきて、今何を考えていて、この先どう生きていきたいのか。17年も付き合っているのに、いや17年も付き合っているからこそ、興味があっても今更そんなことは聞けない。
少し卑怯だが"インタビュー"という手段を使って聞いてみることにした。(取材・文・編集/奥行太郎、写真/中森一輝)
全ての学年が楽しかった少年時代
インタビュアーとして浜田さんを初見で見た時の印象は、40歳ながら童顔も相まって"スポーツ少年"を連想させる。それもそのはず、小学4年生から大学2年生まで野球一筋で過ごしてきたそうだ。
「趣味とまでは言いませんが、小学校4年生から大学2年までずっと野球をやっていて。今はもっぱら見る方ですけど。兵庫の神戸育ちなので阪神ファンです。」
「掛布、バース、岡田・・・。それが大体4歳から5歳ぐらいですね。優勝したっていう記憶はないけれども、バースとかめっちゃ打ってたなというイメージはあります。笑。」
すらっとしながらもガッチリとしたスタイルをしているが、小さい頃は3月生まれの影響もあり非常に苦労したとのこと。
「3月末生まれだったので、今から思うと中々周りの人に追いつけてなかった感じがあります。勉強で苦労したとかではないですが、周りの皆の方がお兄ちゃん・お姉ちゃんだったかなと。」
「出来ているようで出来ていないことがたくさんあったし、それに加えて子供特有のやんちゃさがあったので、友達や先生が自分のことをすごく理解して支えてくれたんじゃないですかね。幼少期から人に恵まれていたと思います。」
陰と陽で言えば、明らかな陽タイプ。「いらっしゃいませ」の声も明るく、遠くまでよく通る。これで陰と言われたら私は人を信じることが出来なくなるかもしれない。
「そうですね、とびきり明るかったと思います。笑。」
次の瞬間、そんな私の予想を遥かに超える驚きの言葉が飛び出した。
「珍しいと思いますが、私は社会人になるまでの全ての学年が楽しかったです。めっちゃ嫌だったっていうのはあんまりなかったですね。毎年クラスも変わりますし、新しい友達も出来ますし。」
「唯一楽しくなかったのは、小学校4年生のクラブで入った漫画クラブです。漫画クラブは漫画が読めるクラブだと思ったら漫画を描かないといけないと。4コマとか。顧問がすごく厳しくて、ちょっとでも喋ってたら真面目に描きなさい!って怒られるような感じで。その時だけ楽しくなかったですね。笑。」
あくまでも私調べにはなるが、大学も含めた全ての学年が楽しかったという人を私はあまり知らない。住んでいた地域がよかったのか、親御さんの育て方がよかったのか。
「恵まれた環境だったと思いますね。地域的にもそうですし周りの人には常々恵まれていました。野球を始めた後に、今も付き合いがある親友と呼べるような友達も出来たりしたので、何不自由なく学校にも行かせてもらって、部活もさせてもらえるっていうのは本当に家族に感謝ですね。」
「当たり前にすることを当たり前にしてあげられるっていう難しさは親になって初めてわかります。」
楽しい学生生活の中でも忘れてはいけない出来事が。中学校2年生の時に被災した阪神淡路大震災。たくさんの友人が亡くなった。
「中2の冬です。我々の世代は地震や揺れというものが一般的ではなかったので、この震災で"揺れ"というものを初めて経験しました。めちゃくちゃ怖かったです。」
「阪神淡路大震災の中では結構大変な地域でした。東灘というところで。祖母なんかは半世紀以上生きていますが『こんなことは初めて』『100年に1度』と言っていました。」
「兵庫県神戸市の中では一番人が亡くなった学校でしたね。もちろんその中には昨日遊んでいた子が亡くなったり、街ですれ違った子も亡くなったり、小学校の時からずっと遊んでいた子が亡くなったり、そういう意味では自分の人生の1つの大きなターニングポイントではあると思います。」
「意識的にはそうは思いませんけど、改めて口に出して話して思い出すと、無意識にそう感じる部分はあります。自分も含め色々な人の一生を変えたと思います。」
今の仕事につながる飲食店でのアルバイト
震災での辛く悲しい経験を胸に秘めながら(私の文章力のせいで陳腐な文章になってしまいますが、亡くなられた全ての方へご冥福をお祈りいたします。)大学生の時に今の仕事につながる飲食店のアルバイトを始める。
「大学でも続けた野球部と平行して、大学1年の秋ぐらいに飲食店のアルバイトを始めました。周りの皆も何かしらのアルバイトをしていて、自分も遊びたい盛りですし、そのためにはお金も必要になってくるので。そんなつもりで始めたんですけど、その飲食店のアルバイトがすごく性に合ったんでしょうね。どんどんハマっていって。」
その当時で、創業30年ぐらいの地元では名の知れた趣のある民芸風居酒屋。本館・別館と居酒屋にしては珍しい2棟タイプで、1店舗ながら社員さんを10人ほど抱えていたそうだ。
大学を卒業するまで、そのお店で働き続けることになる。
「初めはホール・接客で入ったんですけど、お盆を持ってオーダーをとるだけではなくて、ドリンクを作ったり洗い場で洗いものをしたり。それをこなしていくと、違う仕事を与えられたりするわけですね。唐揚げ揚げてみろとか。笑。」
「そのお店は焼き鳥、揚げ物、天ぷら、焼き物、鉄板、小鉢、お寿司、造り、結構なんでもあって。その分働かせてもらえるポジションがいっぱいありました。」
「ちょうどその当時は平成に入ったぐらいで、世間的にバブルが弾けて百貨店とか飲食店とかが今まで割らなかった前年を割り出して。そうなるとちょっとした人件費や経費の削減をし始めまして。」
「そういう理由もあってマルチに仕事をこなせる人間が重宝されるという流れがありました。元々私自身飽き性っていう部分があって、色々やらせてもらえたのが性に合いましたね。」
料理がどんどんうまくなるとかお客様に喜んでもらえたとか、そういう類の"性に合った"を私は予想していたが、色々仕事をやらせてもらったとか簡単にいかなかったということが"性に合った"という話を聞くと人生何が起こるかわからない。
「もし違う居酒屋さんで働いていたら、あまり長続きはしなかったかもしれません。それまでもアルバイトは結構やっていたんですけど、すぐ良いレベルというか基準に達してしまい、そこまででいいよと言われることが多かったんです。」
「でもその居酒屋は厳しかったんです。『お前こういうオーダーの通し方ないやろ』とか料理も『何番に持っていってください』ではなく置きっぱなし。持っていかなかったら『何で持っていかないんだよ』と言われる。箸を置く音や皿をすらす音で気付かないといけないんです。」
「今思えば変だなと思うんですけど、そういう理不尽なことがまかり通った時代だからこそ、簡単にいかなかったのがよかったのかなと思います。」
「それとその時代は、アルバイトでも真剣に仕事をする人間が多かったように思います。お互いに切磋琢磨をするのが面白かった。」
「卒業されたアルバイトさんにも闘志を燃やしていたので、昔のアルバイトさんの成功事例なんかも社員さんによく聞いていました。そうすると色々やらせてもらえるチャンスが回ってくるというか。」
「それで失敗しても笑ってくれるし、やろうとする姿勢を買ってくれるというのがわかりました。お店の中で良いサイクルが回り始めて本当に楽しかったですね。どんどん飲食業にのめり込んでいった感じです。」
がんこフードサービスでの17年
もし私が飲食企業の採用担当なら、先程の浜田さんの話だけで採用を決める。
当然時代背景によって働き方は変わるが、この話だけを聞いていると昔の働き方を全面的に否定はできない。やりがいに満ちあふれている。
当然就職活動は飲食店中心になる。
「初めは漠然としていたので、出来ることとしたいことを絞りました。絞って省かれていったのが"オフィスで働くこと"。無意識に自分の性に合わないと真っ先に思いました。笑。」
「どんな自分になっていきたいんだろうと考えると、先程からお話している、アルバイト先の居酒屋みたいな場所を持てたらいいなと考えました。会社、チームみたいなものを作りたいなと。」
「まぁ簡単な言葉で言うと独立ですね。そういうなりたい像を考えていくと、飲食の道に進もうと思って就職活動を始めた感じです。」
浜田さんが就職活動をされる2〜3年前がちょうど就職氷河期の時代。就活中は氷河期が雪解けしてきたタイミングだったそうだ。
最終的には「がんこフードサービス」という関西では有名な老舗のお寿司、和食、炉端を中心とした飲食企業に就職。志を実現するためにあえて厳しい道を選んだ。
「がんこはとても勢いのある営業をしてました。もう尻込みしてしまうぐらい。白衣を着て接客をするので物怖じするというか雰囲気や迫力もすごかったです。営業が祭りみたいな感じでしたね。笑。」
「就職活動中も独立したいという話を面接でしていました。がんこはそんな中で徹底的に外食マンになれるよう教育する、躾を徹底するということを言っていたので、今後の独立のことも考えて、一番厳しい選択肢を選んだという形ですね。」
「炉端部門で入社して3年〜4年目で店長になり、5年目で和食部門に異動。1階がお寿司で2階が炉端、3・4階が宴会場みたいな大型複合店という業態で支配人を任されました。」
「その次は責任者としてがんこの中のお屋敷業態の立ち上げ、運営に携わりました。炉端で5年、和食部門が12年。その中でもお屋敷業態で10年ぐらい、計17年働きました。」
浜田さんが社会人として働き始めて苦労した点は、社会を出て4年〜5年ではなかなか経験しがたい内容であった。
日々自店の組織が上手く回るよう運営しながら、リアルタイムでお客様をもてなす外食産業はマネジメントありきなのかもしれない。
「3年、4年とがんこで社会人経験を積む中で何となく出来るという自信はついてきましたけど、それを理論理屈で人に伝えていくスキルであったり、店長としてのマネジメントスキルが磨かれないまま過信で突き進んでいきました。」
「がんこはマネジメントを理論だててやっている会社だったので、そういう意味では上には上がいるというか、自分よりも高い意識をもった人も多かったですし、プロ志向で取り組んでいく組織だったので、そこに対応していくのは非常に苦労しました。」
「特に入社5年目からは社員・アルバイト合わせて80人〜100人ぐらいを責任者・支配人として見ていました。そういうお店を任せてもらえたのは、すごい経験を積ませてもらったなと思います。」
お客様と接するだけでなく、80人〜100人の従業員とも接していかなくてはいけない。"良い経験を積んだ"ではすまない責任がのしかかっていたはず。場数が違う。意思決定の量も多いはず。清々しさの原点はがんこで働いた17年にあるのではないか。
その生活をよく17年も続けられたなと思う反面、経歴だけを聞いていると順調そのもの。なぜ辞めるに至ったのか。
「内部の人しか知らない事情ってあるじゃないですか?笑。多かれ少なかれ派閥があったり、会社の方向性なんかも17年いれば見えてきます。また自分がどういう風に見られているかもわかりますよね。」
「もうまもなく40歳になるという手前で、このままいけばよっぽどのことがない限り、昇進も出来たのかも知れませんけど、残りの社会人人生で有意義な時間をどれだけ過ごせるのかなと思うと、迷う部分が出てきました。」
「自分の人生において、後悔を残すということだけは嫌だと思ったんです。独立したいと思って飲食業界に入って、たまたまうまくいっていい立場を与えていただきましたけど。」
「心の中ではずっと『自分のお店をやってみたいな』という気持ちは持ち続けていて。その気持ちを押し殺しながら、さぁ今から独立しようと思っても出来ないという年齢になったら、死ぬ間際に後悔しかないと思うんです。」
「なんかそれが数年前までは特に思わなかったんですけど、この1〜2年ぐらいすごく思うようになったんです。」
「特別なきっかけがあったわけではないんですが、やっぱり17年やってくると、本当に大事にしたい情熱が色あせてくるような気がして。」
「一緒に働いている仲間のことを想う気持ちが薄れたり、1つの料理に対して命をかけるというと大層ですけど、美味しいと思ってくれたらいいなという気持ちを込めてお料理を提供することができているのかとか。」
「それがサラリーマンでかつ管理職になると、従業員の雇用時間を◯時間以内に抑えられるかとか、どれだけ効率よくできるかとか、そういうことばかりに気が持っていかれて。そういうことが進めば進むほどお客様の方を向かなくなり、僕が好きだった飲食とは違うぞとなりました。」
「今までお店のマネジメントや自分自身のリーダーシップに力を入れてきたけど、元々描いていた飲食の面白みと暖かみとのバランスがとれなくなってきた、というのはあるかもしれないですね。」
2019年にがんこフードサービスを退職。そのまま独立の道に進むのかと思いきや、誰もが驚く道へ進んでいく。
「若い時からお世話になっている先輩が運営していたタピオカ店で修行を積むことになりました。」
◯△□ ◯△□ ◯△□
編集後記
衝撃的な告白で終わった浜田修司さんの人生【前編】。
【後編】ではタピオカと独立の話、米Lab百福で提供しているお米の話、そして浜田さんの未来の話を中心にインタビューをした。そんな【後編】のインタビューで浜田さんの口から、次のような言葉が出てきた。
インタビューの"イの字"も知らない私が、何を言ってるんだという話かもしれないが、インタビューでその人の全てがわかるとは思っていない。
その時の気分やコンディションによって過去や現在、未来の捉え方は必ず変わるし、インタビュアーの聞き方によっても答えが変わるはず。
でもこの言葉は、どんな状態の浜田さんであれ、誰がインタビュアーをしても出てきた答えだったと思っている。
でないと、過去から現在に至るまで浜田さんの周りに人が集まってこないし、周りに人が集まってくるからこそ「全ての学年が楽しかった」と言えたのだろう。
シンプルな言葉ではあるが、この一文に浜田さんの根底にある優しさや思いやりといった価値観が垣間見えたような気がした。
【後編】も乞うご期待。
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