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終活から集活へ ライフエンディングを支えるのは「つながり」

漠然と思っていたことや、なんとなくしていた行為、存在はしていも社会的に共有化された名称がないもの。それに、ある日「名前」が与えられる。

「そこの森で出くわした、立ち上がると大きさが2メートル以上もある、毛むくじゃらで鋭い爪と牙のある動物」「ええっと、いまこうした課題があるので、かくのごとき対策が求められていると考えて、このように動いているんです」――。「名前」がない時にはいちいち説明が必要だったものが、「名前」をかざすだけで説明の多くが不要になる。便利になる。

「終活」という言葉も、そんな「名前」の一つだ。

終活は2009年、週刊朝日の連載企画名として使われたのを機に広がり、定着した。「人生の終末を迎えるにあたり、延命治療や介護、葬儀、相続などについての希望をまとめ、準備を整えること」(デジタル大辞泉)といった意味の言葉だ。

社会課題の存在を浮き彫りにした
終活という言葉が生まれる前から、人々の行動が先行していた。お墓はどこにしようか、葬儀のやり方はどうしようか、そもそも誰に自分の死後のことを託そうか、と。

近代家族が解体を始め、家族機能が変容し、社会の個人化が進むなか、まず「家墓」「先祖代々墓」がはっきりと社会的不適合を生じていた。

跡継ぎがいない。墓守できない。独りで利用できる墓がない――。

それが1980年代後半。人々が動き始め、永代供養墓、合祀墓、散骨、樹木葬などが次々と生まれる。葬儀も自由な形式が広まる。そして、誰に自分の死後を託すかが問われ、NPO法人による生前契約などが広がった。

こうした変化の過程で生まれたのが「終活」という言葉だった。まさに時代に合致したのだろう。一気に広がり、「終活カウンセラー」や「終活専門誌」など、新たなビジネスを生み出し、関連産業分野を活性化し、「エンディング産業展」開催へと続く。

これはすばらしいことだったと思う。社会課題に名前が与えられたことで、問題の存在が多くの人たちの共通認識となった。対処が必要なことが認識された。「行動することで変わり者だとか、かわいそうな人だなんて指さされる心配は全くないんだよ」と、いわば社会的なお墨付きが与えられたようなもので、格段に行動しやすくなった。

終活は基本的に、やらないよりやったほうがよいと、わたしは思っている。だから「みんな終活とかしているみたい。行動しないのは変かな」とブーム的な動きが生み出されたのも、悪くないことだと考える。

だが、わたしは最近、「終活から集活」を言い張る時期になったと感じる。

ビジネスだけでは対処できない
終活は、ビジネス的活用が広がりすぎた。もちろん、社会課題を解決するための事業が経済的に成り立つことは大切だ。だが、ビジネスだけでは終活という言葉が本来含有していた社会課題のすべてに対処はできない。

最たる例は、NPO法人りすシステムが構築、提供している生前契約の分野だろう。生前から死後までを死後事務委任契約や任意後見などを活用して、従来は家族がなんとなく担っていた部分を「契約家族」の概念で支える。詳細はここでは省くが、実はこれはビジネスにならない分野だ。営利目的の企業がこれだけでビジネスを成立させるのは、よほどの高額所得者を相手とした利用料設定をする場合ぐらいだろう。

周囲の人々との間に壁を築きかねない
ビジネスによるサービスを購入するばかりで終活を完結しようとすれば、かえって周囲の人々との間に「壁」を張り巡らしかねないとも感じる。他者とのコミュニュケーション抜きで成立する死の準備の内実は、中核部分に大きな空洞があるように思う。

国立社会保障・人口問題研究所の「生活と支え合いに関する調査」(2017年)によると、ひとり暮らし高齢者男性の15%は、だれかと会話する頻度が2週間に1回以下。同じ調査で「日頃のちょっとした手助けを頼む人がいない」と答えた人の割合は、ひとり暮らし高齢者男性で3割にのぼる。高齢者(特に男性)の社会的孤立がみてとれる。

こうした状況を考えれば、終活が墓を買い、葬儀の予約をし、部屋の整理を業者に依頼し、遺言をのこせばOKというものではないことが感じられる。むしろ、高齢期には社会的に孤立しがちだからこそ、他者との「つながり」を求めること、関係性を構築していくことが終活の肝なのではないか。

恩送り
国はいま、エンディングを社会で支えるシステムとして地域包括ケアの普及、在宅看取りを推し進める。住み慣れた地域で最期までという言葉は美しい。だが、家族機能が弱まっているいま、家族が自宅でどこまで支えられるのか。そもそも「おひとりさま」は誰が支えるのか。肝心なのは、そこではないか。経済力にかかわらず、終活でできることとは、人とつながり、支えとなってもらうことだろう。

これは決して功利的、自分本位の主張ではない。人はだれもがいつかは必ず亡くなる。死亡率は100%だ。看取る側もいつかは必ず見送られる。終活という「死」を前提とした活動だからこそ、他者への共感はいわば「恩送り」的色彩を帯びる。いつかは自分もの意識が他者への共感を生み、同時に自分も将来は安心して他者に委ねられるという感覚が得られるだろう。

いつかは同じ合祀墓に入る者同士が生前から交流し、生前契約によるエンディングサポートまで行っている認定NPO法人エンディングセンターは、こうした関係性を「墓友」(同法人が商標登録済)と名付けた。一緒に集まって話をしたり、料理教室などの活動をしたり。縁を集め、結ぶ。まさに「集活」だ。

こうした考えや行動に新たな名前が定着すればいいな、と思う。終活から集活へ。その意味を理解し、必要性が認識されることで、少しでも多くの人たちが、死と向き合う不安感を減らし、向後の憂いを減らせればよいと願っている。

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