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休職から復職・現在に至るまでの話。

復職・転職してから半年が経ち、休職していた頃の出来事を少し忘れかけていたのと、もう今ならあの頃を振り返っても平気かな、と思い、辛かった時の記憶と、立ち直るまでどんなことを考えていたのかを文章に残しておくことにする。たぶん、この先の人生で役に立ちそうな気がするから。


2022年3月下旬~4月上旬
チームの異動で福岡から東京に帰ってきた。営業職であることは変わらなかったが、対峙するクライアントの業種が変わったことで仕事の内容が大きく変化した。これまで経験してきた仕事とは全く毛色が違ってかなり戸惑う。自分がしている作業が全体像のどの位置にあるのかも掴めないまま仕事に追われていた。

4月中旬~5月上旬
ひたすら作業に追われながら、一向に業務の勘所がわからないままの日々だった。何もうまくできなくて、だんだんと自分は周囲から期待されていないんだろうなと思うようになった。今振り返ると自分に全く向いていない仕事だった。
チーム内での経験年数が長いという同僚に質問をしても、いつも機嫌が悪いのか冷たい返事しか返ってこなかったし、上司は人を馬鹿にするスタイルのイジりをする人で、すごく居心地が悪かった。そんな上司から「ゴールデンウィークの休みを潰してでも勉強して仕事に追いつけよ」と言われたが、何もしなかったので怒られた。

5月中旬
上司から明確に「仕事の呑み込みが遅い」と言われた。初めて取り組む業務も過去の事例を渡されるのみの引継ぎで、上司や同僚に質問しても忙しくて無視されるのでどうしようもないのだが、この頃には自分は無能で価値のない人間なんだとしか思えなくなった。なのに「これくらいはこなしてもらわないと困る」と言って業務は増えていく一方だった。
社会人になって初めてクライアントとの打合せをすっぽかした。完全に無意識だった。同席予定だった同僚からは「お客様相手ですよ?」と当然の怒られ方をされたが、社会人9年目なのでそんなことは言われなくても分かっている。多数の締切に追われ続けて完全にパンク状態だった。業務量を減らす口実を手に入れたいと思って心療内科に行ったら即休職3か月の診断を受けた。

チームに入ってから休職するまでの期間の短さにこれを書きながら改めて驚く。ただ当時は永遠に出口の見えないトンネルの中にいるような感覚だった。しんどい状況にいながら時間はいつまでも長く感じてしまうんだから病まないわけがない。休職に至る期間が短いことには変わりないので私は忍耐力が無くすぐに逃げ出してしまった方だと思うが、今にして思えば本当に逃げるが勝ちだ。

5月下旬
休職の諸手続きを終え、週休7日生活が始まった。途中で仕事を投げ出した罪悪感よりも、もう締切に追われたり職場の人間関係に悩まなくて済むんだという安堵の気持ちの方が大きかった。仕事の時間に目が覚めても二度寝できるのが嬉しかった。最初の頃は意識高くランニングとかサイクリングをしていたが、だんだん外に出るのが億劫になって家に籠るようになった。それでも休職する少し前に入ったバドミントンのサークルの活動がある時だけは外に出よう、という自分ルールを課して、かろうじて週1では外出をした。それ以外はほぼ家のベッドで横たわるだけの生活だった。

6月
少し体調が回復したからか、家で過ごす時間がだんだん暇だと感じるようになった。この頃に友人から紹介された『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』をプレイし始める。ストーリーを進めるのが楽しくて、文字通り1日中ずっと遊んでいた。そして以前別の記事でも書いたが、最終的にこの『ペルソナ5』という物語が、私の心をどん底から救ってくれた。職場という環境の中で、今まで自分で自分をひどく抑圧していたことに気づいた。自分の気持ちのままに、正しいと思うままに振る舞うことの勇気と大切さを教えてくれた。ペルソナ5と出会えたこの期間は、割と本気で人生のターニングポイントだったと思っている。

7月
3月に福岡から東京に帰ってきてからずっと目まぐるしい日々だったので、東京に戻ったら会おうと思っていた友人たちとも会っていなかったなと思い、少しずつ友人とごはんを食べる用事を入れるようになった。休職していることを伝えると皆驚いていた(私が元気そうな様子だったので)。久々に友人と会えた嬉しさで気持ちが高揚し、自分でも病気のことを忘れてしまうような感覚だった。ただ何がきっかけだったのか全く思い当たらないのだが、この頃から何故か急に夜に一睡もできない身体になってしまった。
3か月の休職診断を受けた時は期間が長すぎると思っていたが、あと1か月で職場復帰なのかと思うと途端に憂鬱な気持ちになった。これは駄目だと思い心療内科で休職期間延長の診断書をもらった。1か月に一度面談を行う会社の産業医の人は相性が合わずもやもやした。
面談後、社内で信頼していた先輩と待ち合わせて昼ご飯を食べていた時に、「転職を考えてみたら」と言われた。後になって聞いたが、当時面談終わりの私の顔は病的なほど青白くなっていて明らかに異常だと分かったそうだ。この会社に戻っても希望はないと薄々気づいてはいたが、転職に舵を切るきっかけを与えてくれた先輩には本当に感謝している。その先輩との関係は今も友人として続いている。

8月
誘ってもらった勢いのまま参加を承諾してしまったバドミントンサークルの1泊2日の合宿に行った。主に体調の面で不安がありながらではあったが、(多少酒で羽目を外してしまいつつ)無事に2日間を過ごすことができたのは結構自信になった。合宿中に自分の誕生日を祝ってもらったりもしてありがたいなあと思った。夜はみんなで花火を楽しんだり、翌日は合宿所近くの海で遊んだりもしたので、なんだか遅れてきた青春を取り戻しているかのような気持ちだった。8月はそんな感じですごく楽しかったので、転職のことについては完全に忘却の彼方だった。
あとこの頃に放置していたnoteを再開した。

9月
この頃になると精神的にはだいぶ落ち着いた感があった。睡眠ができなかったり体調や体力面での不安はありつつ、そろそろ本格化しなければと思って転職活動に本腰を入れ始めた。書類の通過率は悪くなく、面接で「なぜあなたのような学歴の方が弊社に?」と聞かれた時は初めて学歴社会の恩恵を受けた気持ちになり、死に物狂いで受験勉強を頑張った甲斐があったと思った。その後、その会社も含めて面接でことごとくお祈りラッシュを喰らったのでやはり自分はダメ人間なんだと落ち込んだ。
それとは別で、9月末にリーサルウェポンズのライブに参戦した。めちゃくちゃ楽しかった。

10月
転職エージェントから紹介される求人票もだんだんとネタ切れ感が垣間見えるようになり、会社選びも完全に迷走していた。そんな折に新しく登録したエージェントから、新卒の就活の時に憧れて挑戦したが失敗した業界、かつこれまでの経験も活かせないわけではない…という好条件の求人が舞い込んできた。薄給とか長時間労働とか職場環境が劣悪とか、絶対に何かしらの裏があるに違いないと思いつつ、一応申し込んどくかと思って書類を提出したら間もなく面接をすることになった。
憧れの業界の企業だったのですごくドキドキしながら臨んだのだが、面接が始まってすぐ、本当に不思議なくらい一瞬で緊張がなくなったのを覚えている。面接官の人たちの雰囲気がとてもよかった。採用の場なので多少自分を取り繕うことを意識していたが、後半の方はそれすら忘れてしまいほとんど素で喋っていた。だが向こうも私を評価してくれたようで、面接の終わりに次の選考に進む前提で説明を受け、1時間も経たずに最終選考の日程調整の連絡が来た。仕事の内容に魅力を感じて求人に応募したが、面接を終えて「こういう人たちのいる環境に身を置きたい」というのが一番大きな気持ちになった。社風が合うってこういうことなんだと思った。

11月
ほかの企業の面接をこなしつつ、第一志望の最終面接の日を迎えた。事前に聞いてはいたが社長はかなりぶっきらぼうな印象だったので、前回の面接のようにはいかず極度に緊張した。ケーススタディ系の実技試験を終え、空回りながらもぜひ御社の一員として働きたい、という旨を伝えた。手ごたえはあまりなかったが祈るような気持ちで連絡を待ち、実際に何度か近所の神社にうまくいくことを祈りに行った。内定の通知をもらった時は嬉しさとほっとした気持ちとが入り混じってずっとほわほわしていた。給与の条件面でも納得のいく回答をもらえ、姉と両親に電話で仕事が決まったことを報告した時、やっと家族を安心させられると思った。

精神面では回復したものの、体力面で不安を抱えていたので積極的に近所の公園に散歩をするようになった。園内の大通り沿いの銀杏並木がちょうど紅葉の時期を迎えていて、すごく綺麗だったので思わず写真を撮った。自然に囲まれながら歩いているととても穏やかな気持ちになった。なんだか今まで気に留めていなかったものに意識を向けられるようになっている自分に気づいて、少しうれしい気持ちになった。

12月
諸々の退職手続きと、置きっぱなしだった荷物を回収するために前職の会社に出社した。休職した時のチームの人達には絶対に顔を合わせたくなかったので別フロアに場所を用意してもらい書類手続きを済ませ、お世話になった方々をお呼び出しさせてもらい退職の挨拶をした。会社全体の社風は合わなかったし、上層部を中心にこんな人間にはなりたくないという人に数多くはちあったが、一方で心から尊敬できる人もいた。社会人として辛抱強く育ててくれ、時に自分の利益よりも優先して私のことを守ってくれた方々には本当に頭が上がらない。

年末ということで友人や学生時代の先輩・後輩など、多くの人たちと会って酒を飲んだ。元々思っていたことだったが、改めて私は友達に恵まれて、周りの人たちに生かされているんだなあと実感した。逆を言えば、悪い環境にいると私は本当に駄目になってしまう。だからこそ、これからも自分が腰を据えていく場所はしっかりと見極めていかなければと思った。

1月 復職~現在
体力面で多少不安を残しながら復職したものの、始まってみれば全く問題はなかった。新しい職場はすごくいい人たちばかりで初めて取り組む業務も優しく教えてくれ、仕事内容も興味が持てるものだったので頑張ろう、と純粋に前向きな気持ちになれた。入社して3週間ほどのタイミングで、睡眠剤も含め全ての薬の断薬をするに至った。

入社2ヶ月目、メディア向けにとあるプレスリリースを書く業務が回ってきた。そんな仕事の経験は今までなく、見よう見まねで書き上げたものをプロのライターの方に添削してもらったところ、怒られるかと思ったらなんと手放しで褒めていただいた。予想外の展開だったのでびっくりした。「これ初めて書いたの?」「君には間違いなく文章の才能があるから絶対に強みにするべきだ」と言われた時は、少しだけ自分が異世界転生モノの主人公になったかのような気分だった。私よりも綺麗な文章を書く人は社内にも沢山いるし、入社間もない社員のモチベーションを上げる気遣いも当然あったのだろうけど、仕事でこんなにも認めてもらえたことが初めてで、すごく嬉しい気持ちになった。
再開したnoteを見てくれた友人が、私の書くエッセイ(もどき)が好きだと言ってくれたのも、少しくすぐったい気持ちだったが、すごく嬉しかった(10年以上twitterをやってきた経験がここに来て初めて活きた、とも思った)。自分の気持ちや記憶を整理するために文章を書いていたが、それを読んでもらえて、その人の心の中で何かを思ってもらえることって、すごくありがたいことだなと思った。

社会人になってからどんな分野にも自信が持てず、自己肯定感も低かったけど、自分が書いた文章を褒めてもらえたことで、少しだけ胸を張っていいものを手に入れられた気がした。
別に直接何かの役に立つわけではないかもしれないけれど、こういう積み重ねを少しずつでもしていくことで、ペルソナ5から学んだ「自分の気持ちのままに振る舞うことの勇気」が持てるようになるのではないか。そうやって自分自身に対しても自信が持てるようになるのではないか。
もっと文章を書いてみようと思った。そうしていつだかの友人との飲みの場で軽い気持ちで発した「いつか文フリに出展する」というのが、私の当面の人生の大目標になった。達成がいつになるか分からないし、達成する前に挫折する可能性も全然ありえるが、でも将来の夢みたいな、目指したいものを人生のマイルストーンに設定して生きていくことはとても楽しいなと感じた。



休職期間を終えてからずっと考えていたことがある。
「人生に無駄な経験なんてない」という言葉は、どこか思い通りの結果を出した者のウイニングランのような、驕りの気持ちから生まれるものだと思っていた。擦り傷程度の失敗はともかくとして、心に傷を残したり、日常に支障を来すような辛い経験はしなければしないほどいいと思っていた。
そうなんだけど、でも多分そうじゃない。苦しい経験をしないで済むのならとても幸せだが、でも経験してしまったことは変えられない。悲観して終わるのではなく解釈や捉え方を変えてみたり、何かに活かしたりする努力こそが大切で、そうすることで何かしらの意味のあるものに変わり、結果的に「無駄な経験」ではなくなる、ということなのだと思う。
実際、そんなに難しいことではない。休職に至って転職を決意したからこそ今の仕事に辿り着いたとか、ゆっくり休んだことで自然の風景に感動したり見える景色が広がったとか、週休7日生活という、普通に社会人をしていては絶対にできないレアな体験をできたな、とか。
だから全てがうまくいかなくてもいい。理想として思い描いていた道から外れ、不可抗力で進まざるを得なくなった道の先にだって、別の良いことはきっとあるはずだ。


休職してよかった、とまでは言わないが、この経験を経なければ絶対に見えなかったであろう景色もあって、そこに今の自分がいる。失ってしまったものもあるかもしれないが、それと同じくらい、きっと人間として一つ大きくなれたな、と思いたい。そして療養中も変わらず仲良くしてくれた友人たちや、支えてくれた家族のお陰で、今こうして前向きな気持ちで居られることにとても感謝している。
もしかしたら今後また思いもよらないことが起こるかもしれないけど、まあそうなったらその時にじっくり考えれば良いか。
自分の将来に対して少しだけ楽観的に構えることができるようになったのも、この経験を通じて得ることができた賜物だ。

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