「82年生まれ、キム・ジヨン」を観た後に見える景色と終わらない物語。
息苦しいこの世界に出口はあるのだろうか。この映画は、観終わった瞬間からあなたの物語が始まるオープンエンドな映画だ。
映画とは、自分では無い誰かに自分を重ねて観るものだ。
この映画を観ながらにして、私は「もし私が彼女の夫だったならどうしただろうか」という思いと同時に「もし私が彼女だったらどう感じるだろうか」という思いが交互に訪れた。
「女性の生き辛さ」という範疇で収めることのできないとても大きく、深い映画だ。
この映画を観て、瞬時に咀嚼できる人がいるのだろうか。ここは共感できた!ここは泣けた!というポイントは人によって場所は変われど、多くあるだろうし、特に女性であれば心の深くを揺さぶり、突き刺さる場面はもしかしたら10や20に済まないくらいあるのではないだろうか。
でも、私はこの映画で韓国も日本も同様にあるこの生き辛い閉塞的な社会の在り様とか、強固に受け継がれる男性社会における女性の生き辛さについて、殊更に言葉を重ねたいとは思わない。なぜなら、それはもう皆が暗黙の元に感じている共通認識だから。
だからこそ、思う。
この映画を観て、では私たちはどう生きれば良いのだろうか、と。
主人公の彼女は冒頭すでに心が壊れかけている。むしろ夫はその事実を受け止めながらも、直視するのを怖れるように、向き合いきれずにいる。
「どうして、彼女はそんなに追い詰められたのか?」
この問いにどれだけの意味があるのだろうか。
奇しくも2年前、82年生まれの彼女と同年代の竹内結子さんや芦名星さんが自殺(だとされている)されたのがなぜだろうか?という問いの意味があるのだろうか。
心という広大で捉えどころのない光と闇の産物を、この世界で、この社会で、パートナーと、自身の家族と、夫の家族と、娘と、日常と、生活と、人生と、過去と、未来と、今と、見えない出口と、後悔と、希望と、憂鬱さと、眠れない真夜中と、変わらぬ朝と、プレッシャーと、周囲の目と、夫を溺愛する義母と、男尊女卑が抜け出せない父親と、必死に生きてきた実母と、甘やかされて育った気の利かない優しい弟と、主張することによって必死に立たせている姉と、鳴りやまぬ子供の泣き声と、突然鳴る電話と、同期の出世と、収入格差と、薄汚れた窓枠と、色褪せたカーテンと、産後うつという理由づけと、気だけ疲れる近所づきあいと、見つからないシッターと、夫自身の手伝ってあげているという無意識の違和感と、いい旦那さんじゃないのという何気ない言葉と、手伝うのは当たり前という夫の実家の暗黙と、無遠慮な義姉家族と、エモイワレヌ罪悪感と、君のためという自分のためと、怖がって手を打たない夫と、小さい頃に夢見た自分と、鏡に映った自身と、どこに、何が、どこまで、原因を数え上げれば、それはそのまま、心が壊れていくことになるのだろうか。
そんなこと数えて意味があるのだろうか。誰もがそこに至ってもおかしくはない。
彼女の異変として夫が気づく、いわゆる‘憑依’や‘別人格’という表に現れた現象を特別視することもできない。彼女の症状に顕著に表れたのがそういうことであって、その根元には、形容のできないほどに、生まれてから今まで37年間の全ての記憶と感情と葛藤が折り重なって、心が映し出し、溢れ出させたひとつのカタチに過ぎない。
私自身も、私の家族も心が壊れそうになったことは幾度かある。壊れかけたカップをセロテープで止めながら日常をどうにか切り抜ける感覚もわかる。
で、どうしたらよいのだろうか。もし自分がそこにいたならば。もし自分の夫や妻やパートナーがそこにいたならば。もし娘や息子がそこにいたならば。もし父や母がそこにいたならば。
甘く見てはいけない。
ふとした瞬間に闇に引きずり込まれることだってあるのだ。そこに至る前にできることはあるのだろうか。
「救えなかったことを一生悔やんでいる」家族は多い。でも救うことって何なのだろう。
家族も、夫婦も、人生も、こうしたら正解なんて、無いと思う。
ただ彼女も彼女で精いっぱい生きていて、彼女の夫も彼は彼であれが精いっぱい、娘の真実を知った母親の嘆きの深さ、でも彼女も精一杯生きてきた。それ以上いったい何ができるっていうのか。私は彼らのその精一杯の姿を思い出すだけで胸が詰まる。
この映画は観終わった後、あなたが命を閉じるまでずっと問われる「この世界と共に生きていく」ことの答えのない大きな問いかけを深く心に残していく。
でもこの映画の最後に垣間見える優しさと彼女のあの表情を見た時に、
あなたがあなたの人生でその出口の見えない場面に立ち会った時、ふと彼女の表情を思い出すと、心にすっと風が吹くかもしれない。
行き着いた先の風を感じてほしい。
そこからまたあなたの人生は続いていく
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