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佐渡 ①

 Good bye, FILM  #3

かつての一番好きな遊びは散歩で、近所でも旅先でも、とくに何でもない場所を、ひとり気まぐれに歩くのを好んでいました。散歩をすることは一種のエスケープで、仕事や何やらに行き詰ったときのちょっとした気分転換といったことの他にも、散歩は、もっと根本的なものからの逃避する行為として、僕の拠り所になっていたのです。

その頃の僕は、現代の高度資本主義社会への強い絶望感を持っていました。
巨大なシステムの支配下にいることが途方もなく思えて、隅々まで市場化された社会で、常によき消費者であるようにと、監視されているような窮屈さを感じていました。
ただそこにいるだけで、嵐のように降りかかり、足元からもじわりと染み込んでくる膨大な情報は、焦燥と不安を募らせ、そして、競争に駆り立てる。日常という情報空間から一時でも離れて、心を休めることを必要としていたのです。

そんなときの薬は、旅に出ること。
もちろん、できるだけ遠い非日常の場に行くことができたらいいに決まっていますが、最も身近な小さな旅である散歩という行為にも、それなりに効能があります。
いつもの場所も、何の目的も持たずに旅人の視線を持って歩けば、あらゆるところに「隙間」のような非日常的ともいえる場所、情報の支配から取り残された空白が存在することに気が付くはずです。
住宅街や下町の路地、ビルの間、高架下、曲がりくねった暗渠の道、古い団地、寂れた庭、埋立地、人のいない昼間の歓楽街に覗く「隙間」から、異空間へアクセスすることに癒しを求め、東京の路上を当てもなく歩きつづける。そんなことをやっていました。


配偶者の出身地である佐渡島に定期的に訪れるようになったのは、2007年以降のこと。僕にとって、この見知らぬ土地はたいへんに魅力的でもありました。
佐渡は大きな島で、行き先はいくらでもあったし、
夏場は、だいたい一週間ほど滞在するのが常で、その間には、毎日のように、海、山、街へ、水筒と地図を片手に島のあらゆる場所に赴き、ただ歩き写真を撮るという、ことをやっていた。そうして、先々で遭遇する「隙間」のイメージを捉え、定着させる作業を行なっていたのです。

ここしばらくの数年は、佐渡には行っていません。
社会的な状況なども含め、いろいろな事情が重なったからだですが、それ以外にも、佐渡に限らず、最近は出歩くこと自体が減りました。
もう僕は、以前ほど散歩に興味がなくなったのです。

あらゆる場所が無防備に開かれ、もはや「隙間」を探す意味を見出せないからです。あらゆるイメージがオンライン上に溢れ、もうどこに行っても既視感が拭えないということもありますし、絶えず変化する外側に注意を向けていちいち反応することが、どうでもいいことに思えてきたのです。
それに何より、もっと別のこと、目に見えない世界や、未来に意識が向きはじめたからでしょう。
今は、自らが「隙間化」することの方に関心があるのです。


2011.8(120mm, negative)

佐渡2


佐渡3


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佐渡5
佐渡6
佐渡


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