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3. デザインの仕事のこと

美大を速攻で中退したあと、僕は、アルバイトで広告の制作会社に入ったのを始まりに、デザイナーと呼ばれる仕事についた。以来、長きに渡って、何度か職場を変えながら最終的にはフリーランスとして、雑誌や書籍、広告などのメディアを中心に、グラフィックやエディトリアル、アートディレクションの仕事をしていた。

僕が仕事をはじめた当時のデザイン業界はブラックが普通で、休日出勤・長時間労働は当たり前、下っ端が文句を言うことは許されず、出世のチャンスを逃したくなければ耐えて当然、みたいな体育会系ノリがまだあった頃。17年ほどにわたるデザイナー生活の間には、眠る時間も取れないほどに休みなく働いた時期もあったし、さほど悪い待遇ではない会社で割と楽しくやらせてもらった時期もあったが、いずれにしても、ずいぶん安定とは程遠い生活・働き方をしていたものだ。
それでも、不景気が続く中、仕事が途切れることがなかったのは奇跡的なことだと心から思う。また、思えば華やかなクリエイティブ業界の一端にいたことで、一流のプロの仕事を垣間見ることができたのも貴重な体験だと思っている。

現在の僕は、そんな情報メディアの仕事からフェードアウトして、僕は、小さなアトリエを主宰し、そこで衣服や雑貨などの実際に生活の中で使うものや、または、形のない催しなどを企画・デザインをしている。
相変わらずデザインに向き合っていることになるわけだが、以前とはかなり勝手が違う。そもそもプロダクトやファッションのデザインは未経験で、手探り状態だし、クライアントも上司も存在しないので、何事もすべて自己責任においてやらなければならない。また、以前はデザインに集中していればよかったが、苦手な事務仕事や雑務に相当なエネルギーを割く必要がある。
それでも以前より、デザインという行為の本質に向き合っているような気がしていて、デザインの可能性と難しさ、怖さと面白さをダイレクトに感じている。

僕が得意とするのは、ひと言で言えば「シンプル」なデザインで、それはグラフィックでも服でも何でも同じである。
というか、シンプルだなんて、さんざん使い古された言葉で、あえてこんな説明をするのは正直恥ずかしいのだが、他に適当な言葉がない。料理に例えるならば「素材にさっと火を通して塩をかけただけ」みたいな感じだろうか。実は、素材の状態を見極め、適切に火を通すのは案外難しいのだが、出来上がりは極めて単純なので、一見、ありふれたものと見えるらしい。
もちろん、最初からそう意図しているわけではなく、装飾の素晴らしさや、賑やかなデザインの魅力もわかる。だから、過程ではいろいろと要素を加えて試してみるのだが、結局そのほとんどを取っぱらってしまうので、最終的に超がつくほどシンプルなものが完成するのだ。

僕にとって、デザインという行為は、構築するというよりも不要な要素を削っていく作業だ。あくまで目的に応じた素材を選択し、素材の味を引き出すために、最適かつ最小限の手を加えること。またはその見極めの行為なのだと思う。

かつての雑誌や広告の仕事は、華やかさや賑やかさを求められることの方が多かったが、僕が作るものは単純で地味なので、クライアントは不満だっただろう。シンプルな作風を確立した大御所デザイナーならともかく、僕は無名で、そのくせ変なところにこだわりが強いから、きっと使いづらかっただろうと思う。
僕自身、自分の作品はぱっとしないと思っていたし、少なからず自分の引き出しの少なさと不器用さに落ち込んだので、他のデザイナーの仕事を研究したり、流行のスタイルを真似て頑張って工夫してみたけれども、そうやって作ったものは、今になって見るとあまり良くできていないのがよくわかる。

そんな風に信念でもコンプレックスでもある僕のデザインであるが、そのルーツを考えてみると、発達障害的な視点で解明することができる面がある。

視覚的に単純でシンプルなものは、脳にストレスかからない。
故に、無意識に好んでいた、ということが言えるのである。

発達障害人のストレスの多くは、感覚過敏と前頭葉の働きの弱さに由来するのだが、基本的には情報が混み合うほどに脳には負担がかかる。ワーキングメモリと呼ばれる作動記憶が弱いので、同時に複数の情報を処理するのが苦手で、また、視覚情報に敏感で、常に周囲から必要以上の情報を拾ってしまい、脳内で頻繁に不要な思考(課題無関連思考)が生まれてしまうのだが、それを抑制する注意制御機能も弱いので、情報処理や目の前にあることに集中ができない、というわけだ。
文字・図柄・色・素材の種類が豊富であると、僕の脳内は軽いパニックになる。内向的で、本質的な追求を好む気質や、細部に注意が向きすぎることも、僕の場合は結果としてシンプルな形態として還元されているのだと思う。

僕は、装飾や色などの要素が多いと、そのものの役目や機能が、意図するメッセージが、ストレートに伝わってこないのでイライラするし、すぐに気を取られてしまうので、視覚的な刺激が強いものを見えるところに置きたくない。だから、そういうものは作れないのだ。


商業デザインにおいて、人目を引くインパクトや、情報の多さを求められるのはある程度仕方ないが、今後はそうとばかりも言えないだろうと個人的には思う。

近年のメディアの在り方の変化は目覚ましい。
発信することは一部の特権ではなくなり、マスメディアの力が急激に弱まった。それぞれが必要な情報にダイレクトにアクセスできる時代に、ひたすら大声で主張することはもはや通用しないし、情報量が膨大になりすぎた反動で、低刺激を良しとする風潮も出てきた。押し付けがましいものは嫌われ、すでに、多くをインプットするよりも、いかに余計な情報をシャットアウトするか、ということが重要になりつつある。そして、今後さらにそれが加速するのではないかと思う。

そんな先の世界では、外見の特別性だとか、ブランド、デザイナーの名前なども、あまり重要ではなくなっているかも知れないと思う。多くの人が中身や本質を重視し、意味ではなくて感覚に訴えかけるもの、純粋な心地よさをもたらすものを直感的に選ぶようになるだろう。

デザインをする際、僕は常にシンプルでアノニマスであることを意識している。デザイナーの存在を感じさせない、無のようなデザインができたらいいと思う。
そして、おそらくは世界的な潮流としても、デザインはこれまでの「差異を作り出す」という方向から、本質的な意味において、シンプルに、アノニマスになっていくのではないかと思う。

自覚があるかどうかは別として、デザイナーには発達障害傾向の人が多い。
発想力が高い感覚的な天才タイプ(ADHD傾向)、もしくは、淡々と職人技を追求するタイプ(アスペルガー傾向)。これまでは、だいたいこの2つのパターンに特化した人材が中心となって活躍していた業界だったともいえるのだが、僕は、これといって上記のどちらに秀でることもない平凡なデザイナーである。
しかし、この先、余計なものを削ぎ落として物事を単純化していくことが求められるようになるなら、ひとつのスタイルとしては、我ながら結構アリな気質かも知れない。と、そんな気がするのは希望的観測だろうか。
いずれにしろ、デザインは論理と感覚、どちらをも必要とし、バランス感覚が求められる行為だ。感覚優勢型のADHDと、思考先行型のアスペルガーをスペクトラムで併せもつ僕は、さてどうだろう。

 

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