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11. A氏の人格

アスペルガー症候群の名称は、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが1944年に発表した論文に由来する。
社会性・コミュニケーション・想像力の面での障害を同時に持つ、知的障害のない軽度の自閉症との理解で、1980年代以降に世界的に診断基準が確立したものであるが、現在では、この名称は、あまり使われなくなりつつある。
2013年のDMS-5(アメリカ精神医学会の定める診断基準)では、アスペルガーの文字は消え、症状の軽いものから重度までをまとめてスペクトラム(連続体)ととらえる概念に統一され、それ以降は、自閉スペクトラム症(ASD)というのが一般的になっている。
であるにも関わらず、僕は、あえてよくアスペルガーという名称を用いる。
その理由は、発達障害に関する知識が浅い初期に読んだ本や、診断を受けた精神科医の影響、また、単に現時点ではその方がわかりやすい面もあるから、ということもあるが、しかし、それだけではない。

「アスペルガー」という呼び名にちょっとした親近感を持つからだ。

現在主流である3文字のアルファベット「ASD」では、あまりに記号的で人間味に欠ける。それに最新型のAIみたいでカッコ良すぎやしないだろうか?
対して、いかにも旧式で不器用な感じがする「アスペルガー」は、人格とリアリティを感じさせる赴きのある名称である。
人の名前だから当前だが、それにしても「アスペルガー」という直線的かつ凹凸した印象のこの名前、何と症状にピッタリの音の響き、字面であるだろう。
実際のアスペルガー博士がどんな人物だったか知らないし、あくまで勝手なイメージなのだが、この名前から思い浮かべる人物像は、神経質で頑固で論理的、正義感が強く融通の利かない堅物。外見は痩せ型で面長に違いない(後に写真を見たらその通りであった)。まさにそんなASD的人物を想像してしまうのは僕だけだろうか。
また、自分についても、ASDという「型」として定義されるよりも、あたかも「僕の脳内にアスペルガー氏のような神経過敏な人格が存在している」と、考える方が何だか愉快だし、症状との付き合い方も奥深いものになるような気がしてならないのである。

ただ、ひとつ問題がある。
僕の脳内に住んでいるのはこのアスペルガー氏だけではない、のだ。
発達障害は、ASD、ADHD、SLD等の症状を単独で持つのではなく、混合して持っている場合が殆どで、あくまで、どの症状が色濃く出ているかの話でもある。
僕は、ASDとADHDを持っているわけだが、ADHDには不注意と多動の2つのタイプが存在し、僕は不注意優勢でありながら若干多動の要素も混合している。
つまり、極端なことを言えば、僕の頭の中には、①ASD、②不注意、③多動、という3つのキャラクターが同居しているようなものである。

それは一体どんな状態であるのか。
3人はそれぞれどんな人物で、日常においてどんな行動に出がちなのか。
まずは登場人物のキャラ設定から見てみるとしよう。


まず、僕の脳内の①番目のキャラは、上記の想像上のアスペルガー氏と考えてもらえばよい。とっつきにくくて社交性に欠け、冗談が通じず、細かい部分にいちいちこだわる彼は、あまり人好きのする人物とは言えないが、真面目な完璧主義者だ。
そんな僕の中のアスペルガー氏を、略して「A氏」と呼ぶことにする。

次、②番目は、注意力散漫で面倒くさがり屋の人物だ。
これについては、前にも書いたように「ドラえもん」に出てくる「のび太君」を、想像してもらえばよい。
漫画や落語には発達障害と思われる人物がしばしば登場する。感覚がちょっとズレていて周囲を困らせる人、場の空気を乱すトラブルメーカーは、物語や笑いを生む要素として欠かせないからであるが、この、のび太という国民的キャラクターもそのひとりだ。怠け者で忘れっぽくて、優柔不断、争いが嫌いな小心者、すぐにメソメソするのび太は、不注意優勢型ADHDの典型といえる。
他には「ちびまる子ちゃん」も怪しい。まる子も怠け者でおっちょこちょいで、妙に老成したところがあり、不注意優勢型ADHDが疑われる。日中の居眠りの多さはドーパミンの不足の可能性が高く、また、まる子の妄想癖はマインド・ワンダリング(課題無関連思考、または反芻)そのものである。
僕の中にいる不注意キャラも、彼らと同様の性質を多分に持っているので、のび太から拝借して「N君」としておこう。

最後、③番目は、落ち着きのない衝動的な人物である。
再び「ドラえもん」を例に取れば、不注意=のび太に対して、多動=ジャイアン、と、言われている。確かに、ジャイアンの衝動的で自信過剰で大雑把なところ、情に脆い一面などもその通りであるが、暴力行為とキレやすさばかりが強調される彼を多動性優位ADHDの代表とするのは、僕にはいささか抵抗がある。
多動性のADHDとして、僕が真っ先に思い浮かべる有名人、それは、黒柳徹子さんである。実際に、黒柳さんはADHDを公表していて、お風呂に入っても5秒くらいしか湯船に浸かっていられないとも話していたが、彼女の立ち振る舞いは多動性ADHDそのもの。活動的でお喋りで、好奇心旺盛で興味が常にあちこちへと動いてひと所に留まることがない。流行に敏感で発想力豊かな徹子さんは、多動性ADHD特有の才能が存分に発揮された最高例のひとりであることは確実である。
というわけで、恐れ多いが徹子さんにちなんで、僕の中にいる多動キャラを「T子さん」と呼ばせていただくことにする。

さて、3人のキャラクターが出揃った。
神経症の「A氏」と、怠け者「N君」と、活動的な「T子さん」。
この3人が僕の脳内に同居し、日常を共にしていると考えてみて欲しい。
想像しただけで埒が明かない。カオスであることだけはお解りだろう。

僕の主観では、全体を10とすると、現状では、
A氏5:N君4:T子さん1、くらいの割合と見ており、中心はA氏とN君である。
察しの通り、A氏は非常に面倒な人物である。
常に思考が先行するA氏は、何をするにも理由が必要だ。意味の見出せない行動は決してしない。何についても自分なりの論理や順序を持って遂行し、他人が介入することを嫌う。それは、仕事および、掃除の仕方や洗濯の仕方といった些細な家事も含め生活全般にわたるが、ペースを乱されると激しく混乱してヘソを曲げ、誰に何を言われても、自らの論理を超える理由がない限り主張を曲げない。
また、A氏は、洞察力に優れ、言葉の表現に敏感だ。何においても正確さを求める。なぜなら、彼の認識では、一つの物事に対して答えは常に一つだからだ。少しでも該当しない部分があればそれは別のもとなる。なので、微妙な状況の違いに応じるために知的探求心は強い。特に興味のあることに関しては、より多くの事例を集め、系統立て分類するのが趣味とも言える。
しかし、N君は、適当で大雑把。できれば細かいことには目をつぶりたい。事あるごとに面倒なことを先に延ばし、隙あらば物思いにふける。目先のものにとらわれて無計画な行動に出るわ、時に刹那的な浪費をするわ、A氏の計画を台無しにするのである。ズボラなN君は、しばしば物を出しっぱなしにするが、それもA氏には我慢ならない。Nさえいなければ秩序が保たれ、論理の追求ができるのに。
でも、N君にだって言い分がある。何も好んで怠けているわけじゃないのだ。抑止機能の弱さゆえのことで、回避行動だって責任感が強いからこそ、重圧がわかるからだ。そもそもA氏のプレッシャーがなければ、もっとゆったりと、感覚にまかせて楽にやれるのに。
そんな風に2人が拮抗して、いよいよどうにもならなくなったあたりで、不意に何かのきっかけで登場するのがT子さんだ。2人をよそに自由に振る舞うT子さんは後先考えずにとっ散らかしたかと思えば、すぐに飽きて嵐の後ような疲労感を置いてゆく。
と、まあ、こんな感じのドタバタが、日々、脳内劇場で繰り拡げられるのである。

脈絡なく入れ替わり立ち替わりする彼らに僕は翻弄される。
N君が例によってギリギリまで先延ばしをしたあげくに夜中までぶっ通しで仕事したおかげで疲れてダウンすると、ルーティーンをこなせないA氏が苛立ちはじめるので、気分転換にたとえば外へ出かけてみると、目に入ってくるものに刺激を受けてアイデアが次々と浮かんで止まらないT子さんは居てもたってもいられなくなり、触発されたN君が凄まじい集中力で即興的な創作を始めるも、誰かから茶茶が入って中断せざるを得なくなると、突如A氏が現れて怒り出し……。
もうホント、疲れるんですけど。意味不明すぎて。


ところが。
最近になって、変化の兆しが現れた。
今では、以前ほど彼らのドタバタの渦中に呑まれることなく、割と余裕でやり過ごしている僕がいる。

その理由は、それぞれの正体を知ったからである。
そもそも、発達障害を知るまでは、自分の中に、①ASD、②不注意、③多動、という3つの要素があること、それに振り回されているという自覚がなかったが、そういったことを認識することで、客観視が可能となったわけである。
傍観者として脳内劇場を俯瞰する視点が生まれたのだ。
要するに「メタ認知」ってやつである。
ああ、またA氏が出しゃばってるな。今日はN君全開だ。T子さん入ったかも。
一歩外側に意識を置いて、3人の行動を観察し、感情をラベリングしていると、さほど渦中に巻き込まれることはないし、無駄に自己嫌悪に陥ることもない。

と、これは、非常に良い傾向であるのだが、少し不思議な気もしている。
発達障害の症状を知り、謎の自分・謎の現象が、解明されてるにつれて、「自分とは何だ?」という新たな、大いなる謎が生まれてしまった。
ずっと、自分の性格および思考と思っていたことは、何だったのか。症状、認知の歪み、として片付けられるものなのだろうか? 
人格や個性とは、「特性」の組み合わせのバリエーションでしかなく、神経伝達物質やホルモンやその他さまざまな生理現象、また環境によって、いかようにもなるものなのだろうか? だとしたら、独自固有のアイデンティティ、「自分」なんてどこにもないんじゃないか。
しかし、この疑問を追求してゆくと、答えの出ない哲学的な話になってゆくので深掘りは禁物。いつかわかる日が来るかも知れない、くらいに思っておこう。


ところで、3人には共通する弱点がある。
それは、めっぽう傷つきやすく、ストレスへの耐性が低すぎることだ。
T子さんは天真爛漫なところがあるけれど、実は、A氏もN君も本質は一緒なのだ。
両者とも、不安や恐怖に敏感で、防衛本能が強いだけであり、その対処の仕方が逆なだけなのだ。
ストレスを内側に囲い込んで、精一杯の防御を固めるA氏の戦法は、緊張が絶えないが、ストレスを外に拡散させ、逃げたがるN君の本能に従ってばかりいたら、堕落した人生を送ることになる。時々、そんな2人にT子さんが、すべてブチ壊すように喝を入れる。3人はそんな関係なのかも知れない。
そう思えば、バランスが取れていると言えなくもない。
困ったところは多々あるが、けっこう面白い人たちである彼らを飼い慣らし、良いところをどれだけ引き出してやることができるか。
それは、なかなか追求し甲斐のある人生のテーマだ。

とはいえ、彼らをどう活かせばよいのかは、正直まだわからない。
3人が入り乱れる僕には、傑出した得意分野がない。良いところも悪いところも打ち消しあって全部中途半端。いったいどんな職業に向くのか、いまだにわからない。強いて言えば、多角的に全体を見る監修者的立場が向いているような気がするが、そんなポジションとは縁がないし、また、こうして症状を擬人化したりしてくだらない文章にするのは、N君お得意のマインド・ワンダリングとA氏の言語化能力のコラボレーションと言えるだろうが、今のところ何かの役に立つ気配もない。

「A氏」と「N君」と「T子さん」の、こまごまとしたいざこざ対応に追われてばかりの僕からすれば、最新型のAIのような生粋のASD、落語に登場する与太郎のような愛すべきADHD人とっいった、純度の高い症状を持つ発達障害人たちが、ちょっと輝いて見える。
そういった人たちの生きづらさを決して軽んじるつもりではないが、やっぱり、彼らの偏った極端さは、特異な才能であると思うのだ。





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