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【短編小説】魅惑る因果【イソップ寓話:鷲と狐】


イソップ寓話「鷲と狐」
鷲と狐は友だちになり、近くに住むことにした。鷲は木の上に巣を作り、狐はその根元に住んでいた。しかし、ある日鷲は食べ物がなくなり、キツネが留守の間に子狐を捕まえて食べてしまった。狐は復讐できない自分の無力さに悔しがったが、やがて強風で鷲の巣が燃え落ち、雛たちは地面に落ちた。狐はその瞬間を逃さず、鷲に復讐した。


魅惑る因果 ~和洋彩る錯綜物語~


優華の指先が、桜の葉を丁寧に巻き付ける。
ほのかに香る塩漬けの葉の香りが、春の訪れを告げていた。
老舗和菓子店「月のしずく」の厨房に立つ優華の表情は、真剣そのものだ。

「よーし、これで最後」

仕上がった桜餅を眺めながら、優華は満足げに頷いた。
和菓子作りの腕前は20歳とは思えないほど熟練していた。

「お母さん、今日の分できたよー」

奥から母のさくらが現れた。娘の作品を見て目を細める。

「あら、今日のは特に綺麗ね」

さくらの目には、娘の才能への誇りが映っていた。
その時、店の戸が開く音がした。見知らぬ男性が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

優華は明るく声をかけた。
男性は少し緊張した様子で店内を見回した。

「あの、商店街の会長から紹介されてきたんですが...」

さくらが対応する。

「あぁ、岩下さんでしたっけ?向かいでカフェをオープンするっていう」

優華は目を輝かせた。

「え?カフェをオープンするんですか?」

「はい、岩下と申します。よろしくお願いします」

岩下は軽く頭を下げた。

優華は興味津々で尋ねた。

「私、優華って言います。どんなカフェにするんですか?」

岩下は答えた。

「洋菓子が得意で、それをメインに考えています」

「洋菓子?! 私、興味あるなー。オープンしたら、お店伺ってもいいです?」

優華は思わず前のめりになり岩下に近づく。
岩下は優華の熱意に少し戸惑いながらも、微笑んだ。

「あ、はい...ぜひ。でも、まだ準備中なので...」

「優華、お客様にお茶を出してあげなさい」

さくらは優しく声をかけた。
優華は我に返ったように、少し離れた。

「あ、そうだった。岩下さん、何がいい? 抹茶? 煎茶?」

「あ、じゃあ、抹茶をお願いします」

岩下は丁寧に答えた。
優華が抹茶を持って戻ってきた。
さくらは岩下に話しかけた。

「新しいお店の準備は大変でしょう。何か困ったことがあれば、遠慮なく相談してくださいね」

岩下は感謝の表情を浮かべた。

「ありがとうございます。30半ばでの脱サラでちょっと不安だったんです。実は、和菓子についても少し勉強したいと思っていまして...」

優華の目が輝いた。
彼女の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。

「私、喜んで教えしますよ!和菓子の世界は奥深くて面白いんですよ」

岩下は嬉しそうに頷いた。

「ぜひお願いします。僕が作るお菓子のことも教えられると思いますので」

優華の目が輝いた。

「うわー!うちの和菓子のヒントになることありそう!」

こうして、優華と岩下の不思議な協力関係が始まった。


数週間が過ぎ、五月の柔らかな夕日が商店街の軒先を染める頃、彼女は「月のしずく」の暖簾をくぐり抜ける。
その日一日、優華はいちご大福作りに没頭していた。
白玉粉をこねる指先、餡を包む手の動き、そして苺の甘酸っぱい香り。
それらの感覚が、まだ体に残っている。
道を横切る数歩の間に、優華の頭の中では和菓子と洋菓子の味が不思議に交錯する。
舌の上で溶けるいちごの酸味。指先に残る餡の質感。
白玉ともちとの違いを想像しながら、ふわふわの生クリームに思いを馳せる。
岩下のカフェ『風のたより』のドアに手をかける頃には、優華の心は既に今夜のケーキ作りへと飛んでいた。
ガラス越しに見える岩下の後ろ姿に、優華は小さく手を振る。

「お疲れさま、岩下くん」

振り返った岩下の瞳に、夕日の名残りが映る。
一瞬、彼の目が優華の姿を追うが、彼女の意識は既に厨房に向かっていた。

「今日は何作るの?」

白いエプロンを身につけながら、優華は岩下の隣に立つ。
二人の肩が触れ合う。岩下の体が一瞬強張るのを感じた。

「あ、ああ...今日はいちごのショートケーキを」

岩下の声が少し掠れている。
生クリームを泡立てる音が静かな厨房に響く。
優華の手が、岩下の腕に添えられる。

「こうやって混ぜるんだね。和菓子とは全然違うなー」

優華の指は、岩下の手首を滑るように動きながら、彼女の目は泡立て器に釘付けだった。
ホイップクリームの白さが、時折岩下の肌の色に溶け込む。
岩下の呼吸が乱れる。
それは、泡立て器の動きのリズムと不協和音を奏でていた。
「岩下くん、大丈夫? 顔赤いよ」
優華が顔を上げると、ほんの30センチほど先にある岩下の顔があった。岩下の顔が強張っている。
岩下の瞳に優華が映る。波打つような茶色の中に、小さな優華が浮かんでいる。
そして優華の瞳の奥底には、ただ真っ白で、甘い香りを漂わせるホイップクリームだけがあった。
時計の針が深夜を指す頃、カウンターに並んだワイングラスが、仄かな光を湛えていた。
「お疲れさま」

岩下がグラスを差し出す。

「よかったら...」

優華は躊躇わず受け取る。

「ありがとう。でも、お酒は弱いからね」

グラスを傾けると、甘美な香りが鼻腔をくすぐる。
優華は無意識に肘が触れ合う位置に座っていた。
彼の体温が、不思議と心地よい。

「岩下くんって、本当にいい人...」

優華の言葉に、岩下の体が微かに震えるのを感じた。
夜が更けていく。
会話が弾み、笑い声が小さな空間に響く。
優華の頬が次第に熱を帯びていく。
意識が少しずつ遠のいていく中で、彼女は岩下の腕に頭を預けていた。

「ねえ、岩下くん...」

優華の言葉が、闇の中に溶けていく。
最後に見たのは、岩下の複雑な表情だったか、それともカウンターに並ぶグラスの輪郭だったか。
優華の意識は、砂時計の砂のように、少しずつ、深い闇の中へ落ちていった。


意識が戻る瞬間、優華の脳裏に浮かんだのは、崩れかけたいちご大福の形だった。
甘美な香りと、どこか苦い後味。
目を開けると、見慣れない天井が彼女を見下ろしていた。
「風のたより」の奥にある小さな休憩室。
ソファーの革の感触が、優華の肌に違和感を与える。
頭の中で、記憶の断片が不協和音を奏でている。
テーブルの上に置かれた二つのワイングラスが、静かに彼女を見つめ返す。
甘いワインの香りが、かすかな汗の臭いと混ざり合い、部屋に独特の空気を醸し出している。
優華は自分の体に目を落とす。
ブラウスのボタンが一つ、まるで小さな告白のように外れている。
スカートは、秘密を隠すようにわずかにずれていた。
首筋に残る、何かが触れた幻の感覚。

「え?うそ...」

その言葉は、彼女の唇から漏れ出た不安の具現化だった。
心臓が、胸の内で小さな獣のように暴れ始める。
手のひらに滲む汗が、内なる動揺を物語っている。
突如として、ドアが開く音が静寂を破る。

「あ、起きましたか?」

岩下の姿が、ぼんやりとした視界に飛び込んでくる。
彼の髪は少し乱れ、シャツの襟元は開いていた。
その姿が、優華の中に奇妙な既視感を呼び起こす。
優華は半信半疑の目で岩下を見つめる。
彼の表情に、どこか見慣れない影が落ちているように感じた。
岩下の目が、優華の乱れた服装を一瞬捉えて、すぐに逸らされる。
その仕草が、優華の中に名状しがたい不安を掻き立てる。

「あの...昨日の夜は...」

優華の声が、まるで薄い氷のように震える。
岩下は深く息を吐いた。

「急に寝ちゃったからびっくりしましたよ。それでソファに運んで…」

その言葉を聞いた瞬間、優華の顔に安堵の色が広がった。

「そうだったんだ。私、お酒弱いのに飲みすぎちゃって...迷惑かけちゃったね」

「いえ、そんな...」

岩下の声は少し掠れていた。
優華は頭を抱えながら立ち上がった。

「ごめんね、岩下くん。今日はもう帰るね。また今度教えてね」

何事もなかったかのように、いつもの明るい声で言って部屋を出ていく優華。
その背中を、岩下は言葉を失ったまま見つめていた。
優華の頭の中で、断片的な記憶と想像が渦を巻く。
ワインの味。
岩下の笑顔。
ケーキの甘さ。
そして、闇。本当は何が起こったのか、それとも何も起こっていないのか。
その答えは、まだ朝もやの中に隠れていた。
優華の心に、わけの分からない後悔と安堵が入り混じる。
それが何を意味するのか、彼女自身にも分からないまま、朝の空気が彼女を包み込んだ。


初夏の陽気が街を包む頃、優華は「月のしずく」の厨房で水無月の準備に没頭していた。
白く平たい菱餅を型に流し込み、その上に小豆を丁寧に並べていく。
集中した表情で作業を続ける優華に、さくらが近づいてきた。
母の表情に心配の色が滲んでいるのを見て、優華は手を止め、首を傾げた。

「優華、ちょっと話があるの」

さくらの声に、優華は一瞬たじろいだ。
何か悪いことをしただろうか。
あの夜のことが頭をよぎる。

「何?お母さん」

優華の声が、自分でも気づかぬうちに上ずっている。

「最近ね、お得意さまから聞いたんだけど...」

さくらは言葉を選ぶように間を置いた。

「あなたと岩下くん、付き合ってるの?」

その言葉に、優華は目を丸くした。
予想外の質問に、安堵と新たな困惑が入り混じる。

「え?そんなわけないじゃん。誰が言ってたの?」

優華は思わず声を上げた。
頬が熱くなるのを感じる。
岩下との関係を否定しながらも、あの夜の断片的な記憶が頭をよぎる。
さくらは心配そうに続けた。

「みんな、二人のこと応援してるって」

「まさか...」

優華は首を振った。
頭の中が混乱していく。
岩下との関係、商店街の噂、そしてあの夜の記憶。
すべてが渦を巻いていた。

「岩下くんとは、ただのお友達だよ。きっと何かの間違い」

優華はそう答えたものの、どこか引っかかるものを感じた。

「何か気になることでもあるの?」

母の声に、優華は我に返った。
あの夜のこと、よく覚えていない。
そのことが少し気になって、優華は言葉を選びながら答えた。

「う〜ん、なんだろ。きっと大丈夫だと思うんだけど...」

結局、優華は首を横に振った。

「何でもない。大丈夫」

その言葉とは裏腹に、優華の頭の中は少し混乱していた。
商店街の噂、みんなの反応、そしてあの夜のぼんやりとした記憶。
すべてがごちゃごちゃに混ざって、整理がつかない。
優華は窓の外を見た。
曖昧な謎を置き去りにしたまま、夕暮れの空が茜色に静かに染まっていった。


数日後、優華は早朝から「月のしずく」の奥で帳簿と向き合っていた。
数字の羅列を眺めながら、彼女の眉間にうっすらと皺が寄る。
「お母さん、最近注文減ってない?」
優華の声には、純粋な疑問が混ざっていた。
さくらは黙って頷いただけだ。
その沈黙が、状況の深刻さを物語っていた。
老舗の和菓子屋といえど、そんなに儲かっていたわけでもない。
しかも注文が減っているのは大口のお客さんばかり。

「このまま減ったら…」

経営のことは分からない優華でも、事態の深刻さは理解できた。

その日の午後、優華は葛饅頭を箱詰めし、得意先を回る準備をした。
葛の香りが漂う中、優華は慣れた手つきで和菓子を丁寧に紙で包み、赤い紐で結んでいく。
得意先の菊水旅館で、優華は思わぬ言葉に直面した。

「あら、優華ちゃん。ちょっと和菓子の注文は減っちゃったけど、代わりにケーキ、注文したからね」

女将に言われ、優華は首を傾げた。

和食料亭では更に衝撃的な言葉を耳にする。

「優華ちゃん、岩下さんが二人の将来のこと話してたわよ。お店を大きくして、新しい和洋菓子を作るんですって」

「え? 将来って...」

他の得意先でも同じだった。
和菓子の注文は減り、「風のたより」の話題ばかり。

「若い二人を応援してるわ」「優華ちゃんのためだもの」という言葉が繰り返される。
帰り道、優華の頭は混乱していた。
母の言葉が蘇る。「あなたと岩下くん、付き合ってるの?」

優華には理解できなかった。
彼女にとって、岩下とはただの商店街の仲間でしかなかったのだから。
その夜、優華は眠れなかった。
頭の中でぐるぐると、まるで和菓子の餡を練るように、思考が絡み合う。
岩下との関係をみんなが言うようになってから、和菓子の注文が減り、ケーキの注文が増えた。
これまでのこと全てが、一つの方向を指し示しているようだ。

「まさか、岩下くんが...」

優華の心に決意が芽生える。
これまで信じてきた関係が、全く違うものだったかもしれない。
純粋な友情の中に、見えない企みが潜んでいたのかもしれない。

「直接話さなきゃ」

優華は窓から夜空を見上げた。
星々の輝きが、彼女の複雑な心境を静かに見守っているようだった。
真実を知る勇気と、失いたくない何かとの間で、優華の心は揺れていた。


一週間後の夕暮れ時、優華はカフェに向かった。
店の入り口には「本日臨時休業」の札が下がっていた。
商店街の人々が、そっと窓越しに中の様子を覗き込んでいる。
優華は深呼吸をして、ドアを開けた。
店内に足を踏み入れると、いつもと変わらぬ甘い香りが彼女を包み込む。
昼間の営業で提供されていたであろうメロンのお菓子の残り香が優華の鼻をくすぐる。
しかし今日は、その香りが妙に切なく感じられた。
奥から現れた岩下と目が合う。
優華は少し緊張した様子で、でも決意を込めて一歩前に出た。

「岩下くん」

優華の声は、いつもより少し低く、落ち着いていた。
けれど、その奥底に潜む震えを、彼女自身も感じ取っていた。
岩下はゆっくりと優華に向き合った。
その表情には覚悟と不安が混ざっていた。

「優華さん...」

優華は真っ直ぐ岩下を見つめ、静かに、しかし芯の通った声で言った。

「どうして、私たちのことであんな話をしてまわったの?」

優華の問いかけに、岩下は言葉を濁す。

「あ、あれは...みんなが誤解してるから、否定するのも...」

「違うよね」

優華は岩下の目をまっすぐ見つめた。

「あなたが積極的に広めてたんでしょ。そうじゃなかったら、みんながあんな風に言うはずないもん」

優華の目に涙が浮かんでいた。
それは悔しさなのか、悲しさなのか、彼女自身にもよくわからない。

「私たちの大切なお客さんを...どうして!?」

その瞬間、カフェのドアが開く音がした。
振り返ると、そこには母のさくらが立っていた。

「お母さん...」

さくらの声が冷ややかに響く。

「岩下さん、説明していただけます?」

岩下は俯いたまま、震える声で話し始めた。

「申し訳ありませんでした...実はカフェの経営が思うようにいかなくて...優華さんと仲良くしているという事を言ったら、皆さん気を利かせて注文をしてくれたので…つい…」

窓の外では商店街の人々が小声で話し合っていた。

「まさか、優華ちゃんを利用して売り込みしてたのか」
「私たちも騙されてたってこと?」
「とんでもねえ野郎だ!」

心配と怒りが入り混じった声が、小さなざわめきとなって広がっていった。
さくらの目が細まる。

「売上のために優華を利用していたのね。いくらなんでも…」

「違うんです!」

岩下の言葉が、重く湿った空気を切り裂いた。

「僕は...本当に…優華さんのことが好きだったんです!」

その瞬間、カフェの時間が歪んだ。
優華の目に映る世界が、ゆっくりと溶けていく。
岩下の姿が揺らぎ、窓越しの人々の顔が歪む。
優華の中で、岩下との記憶の断片が走馬灯のように駆け巡る。
桜餅を桜の葉で包む指先に残る微かな塩気。
いちご大福の甘酸っぱさ。
柏餅の香り。
水無月の清涼感。
葛餅のつるりとした喉越し。
軽やかなシフォンケーキ。
いちごタルトの鮮やかさにマカロンの繊細な食感。
ビターなチョコレートの香り…。
それらの記憶が、万華鏡のように、優華の意識を埋め尽くしていく。
しかし、そこには顔も声もない。
「好き」という言葉の意味が、新しい菓子のレシピのように、理解しようとしても、どこか掴みどころのないものとして漂う。
そして、店内に漂うメロンの香りに、唐突に現実に引き戻された優華の口から言葉が零れ落ちる。

「ごめんなさい」

拒絶とも謝罪ともとれるその言葉は、優華の口から生まれたというより、空気中から結晶化したかのようだった。

岩下の表情が、ゆっくりと、しかし確実に変化していく。
期待、困惑、そして諦め。
それらの感情が、彼の顔を移ろう。
優華は自分の言葉の意味を理解しようともがいていた。
窓越しの人々の表情も、風景の一部となって揺らめいていた。
彼らの驚きや戸惑いが、カフェの内装と溶け合い、新しい色彩を作り出している。
彼女の無邪気さと、世界の複雑さが、目に見えない糸で繋がれ、絡み合っていた。

やがて、その静寂を破る声が響く。

「おいおい、こりゃあ岩下くん、盛大に振られたな」
「あまりにも年の差あるから怪しいとは思ってたんだよねー」

その言葉が、凍りついた空気を少しずつ溶かしていく。

誰かが岩下に向かって声をかけた。

「おい、岩下。お前、本当に優華ちゃんのこと好きなのか?」

「はい...」

岩下は震える声で答えた。

「そうか、今回のことは俺達にも責任はある。もうこんな真似しないなら俺たちも許そう。でも、二度とするんじゃないぞ」

岩下はゆっくりと頭を下げた。

「みなさん...ありがとうございます。気持ちはまだ整理できませんが、やり直すチャンスをください」

その言葉が、かすかに震える声で発せられる。

呆然としていた優華だったが、周囲の状況をようやく理解し始めた。

糾弾と衝撃から一転、暖かい空気がカフェを包む中、優華はゆっくりと岩下に近づいた。

「ごめんね、岩下くん…。でも、私たちこれからも仲良くできるよね?お菓子作り、一緒に頑張ろう!」

優華の無邪気な笑顔と、お菓子作りへの情熱に満ちた言葉とともに、彼女の手が岩下の手を出来立ての和菓子のように優しく包み込み、彼女の指が、手のひらの柔らかい皮膚を練り切りを象るようになぞる。
その手つきは、熟練の和菓子職人の技だった。

その瞬間、岩下は感電したように動かなくなった。
そして、彼の体が小刻みに震え始め、髪の毛が逆立つのが見えた。
彼の顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
優華の無邪気さと無神経さと無意識の手業に、彼の中で何かが限界を迎えたようだった。

「あああ!や、やっぱり、僕無理です!」
「このままだと、また同じ間違いを犯してしまう!」

岩下はそう叫ぶと、優華を振り切り、ドアに向かって走り出した。
彼の姿は一瞬で街の喧噪に飲み込まれていった。
優華は呆然と立ち尽くしたまま、去っていく岩下の背中を見つめていた。

「えっと...岩下くん、どうしたの?私、何か変なこと言っちゃった?」

彼女の目には、純粋な疑問の色しかなかった。
周りの人々の顔に、驚愕と恐怖が入り混じったような表情が浮かぶ。
そして、誰かがつぶやいた。

「優華ちゃん、薄々思ってたけど、自覚なかったのか」
「無意識の暴力だよありゃ。勘違いするのも無理ないって」
「なんて末恐ろしい…岩下くん立ち直れないだろうな」

周囲の人々のつぶやきに、優華はますます首を傾げた。

夕暮れ時の商店街。
かつて「風のたより」から漂っていたバターの甘い香りは、今は感じられない。
優華の瞳は「月のしずく」をまっすぐ見つめている。
その澄んだ眼差しに宿る決意の光は、次なる季節への予感のよう。
彼女が巻き起こすのは、清々しい朝露のような奇跡か、それとも予測不能な竜巻のような混沌か。
その答えは、まだ誰も知らない。
ただ、この古びた商店街に新たな風が吹き始めたことだけは、確かだった。


【あとがき】
この話はイソップ寓話「鷲と狐」というお話のアレンジです。数あるイソップ寓話の中でも一番最初に掲載されている話で、元は仲の良い関係でも裏切りは必ず罰を受けるという因果応報の話です。しかも子を食い合うという結構過激な話。
現代版は、和菓子屋と洋菓子カフェを狐と鷲に置き換えてるわけですが、人で見ると勘違いが起こります。そういう風に仕掛けていますが、そのせいでかなり苦労することになりました^^;

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