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ぼくもわたしもフェミニズム

そもそもなぜわたしが写真を撮ったり絵をかいたり、とにかく表現をするようなったんだろう。

今のわたしは、前まで大声で笑っていたバラエティ番組も不快に思うようになった。画面越しで、はっきりと男女の役割が分かれているTVを観ると、がっかりする。そして、まるで誰も私と同じ気持ちの人がいないように思えて、同時に悲しくなったりもする。

人間は何かに所属することで、幸せを感じる生き物だと、聞いたことある。まさにそうだ。大学まで、いつも何かに所属していた私は、その中での生活に疑問を覚える一方で、それに安心感があった気がする。でもいつも幸せではなかった。本当の自分はきっと別にいるんだという思いと共にずっと過ごしていた気がする。

そして、大学を卒業後所属を失った。その頃から、表現をしたくなった。ずっとなりたかった本当の自分になって気づいた。とてつもなく孤独だと。そして気づけば、マジョリティーの真逆にいた。自分が、少数派だと知った。怖かったけど、幸せだった。生きている気がした。日本での生活の中で、ほとんど共感ができない人たちに囲まれ、生きていくには、写真を撮ったり、絵を描いたりするしか方法がなかった。もちろん好きでやっているけど、それ以上に、生きていくため、という感じだ。そう思うくらいに、今の日本はわたしにとって、生きづらい。

ものは考えようだという人がいる。それはそうだ。わたしだって、違うパースペクティブで物事みることはできる。しかし、あ・え・て、そんなことしたくない。今の自分が正直に感じる心で、日本をみたい。東京のおしゃれ軍団だらけの集団に入ればそんなことを感じることは、さほどないかもしれない。けど、田舎暮らしの私としては、東京でものを語りたくない。それで考えるとやはり、今の日本はわたしにとって、塞ぎ込みたくなる場所なのだ。

外国人にはとても人気のある日本。もしわたしが外国人だったら、きっと私も日本を好きだったと思う。それはやはり、外国人はいつまでたっても外の人だからだ。わたしは、いつまでたっても、中の人だ。その事実は一生変えられないから、わたしはなおさら苦しいのだ。

例をあげよう。わたしは、行儀が良くない、そして空気が読めない。そしてわたしは、女だ。これだけで、もう日本に生きるのが向いてないことがわかると思う。日本において、私みたいな人は、毛嫌いされる要素ばかりだ。しかし、それはほとんだの場合、女性というところでだろう。彼は、行儀が悪くて、空気が読めないけど、熱い野望を持っていて、周りからの信頼がある。男性の場合、こういうふうに例えれば、なんだか、イメージが浮かぶやすく、むしろいいイメージになると思う。しかし、それが私の場合だったら、彼女は、行儀が悪くて、空気が読めないけど、とてもおもしろくて、周りを明るくする子だ。うーん。どうだろうか。いいイメージの女性像が浮かぶとは、到底思えない。

しかし、日本より男女差別が酷くない国は、わたしみたいなやつが、大多数に毛嫌いされるとは思えない。これを文化の違いと片付けてしまうのは、あまりにも残酷だ。文化という代名詞をふりかざして、被害を受けてきたものたちのことを、考える時が来ていると思う。私が、苦手なことば、ヤマトナデシコ。この言葉にどれだけの女性が苦しめられてきたのだろう。
日本の女性を男性の理想像にあてはめ、作られた言葉。そして、それに少しでも近づこうと励む女性たち。むかしはむかしだから、否定はしない。ただ、2020年の今も、この言葉は生きていて、まだもいいイメージなのである。そんなことが、先進大国である日本の現実なのだ。

わたしは、そんなこと納得しない。そして、きっとどこかで、わたしの思いに共感する部分をみんな持っていると信じて、今日も表現をあきらめない。


PS: レインボーパレードin Seoul,Koreaより

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