読書記録⑤国枝史郎『神州纐纈城』
いきなりだが、友だちがいない。
それでも学生時代は本やCDの貸し借りをするような人はいたが、就職し、生来の資質もあって急流下りで人間関係が疎かになっていき、交友ほぼ廃れた。
いや、自虐や友だちいないオレカッコいい自慢がしたかったわけではなく、今まで生きてきてこの国枝史郎の話を他人としたことがないということを言いたかった。
いや、皆が知らない作家読んでるオレサブカル系でCoolでしょ?でもないんだけど、よく考えてみたら大人が他人と「何の本読んでますか?」なんて話題になるの?
趣味を聞かれて「読書です」って答えてそこから話を膨らませるのが社交術なんだろうけど、学生時代に本や音楽の話題で散々それで失敗してるからATフィールド張り巡らしてるし。
それとも大人は皆文芸サークルとか読書クラブ入って情報交換するの?人から勧められた本なんて読みたくない。自分で探して巡り合った作家が一番好きになるじゃん、といくつになってもこじらせは直らないという本文とはなんの関係もない自分語りでした。
国枝史郎(くにえだしろう)は1887(明治20)年生まれなので、この界隈の作家で言うと、大下宇陀児、谷崎潤一郎(1886年)、夢野久作、白井喬二(いずれも1889年)あたりと同じ世代にあたるだろうか(ちなみに乱歩は1894年)。
長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)出身で、長野の美しくそして人々の畏れの対象ともなる山々、そして清らかな水(湖や川)のイメージは国枝の作品に色濃くあらわれている。
本書「神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)」は、1925(大正14)年から翌年にかけて雑誌「苦楽」で、全21回に渡って連載された。同誌は直木三十五が編集者として関わっており、乱歩の「人間椅子」も同時期に掲載されている。当時4本の長編連載を抱えていた国枝史郎全盛期の作品である。
「蔦葛木曽棧(つたかずらきそのかけはし)」、「八ヶ岳の魔神」と並び三大傑作とされるが、1933(昭和8)年に春陽堂から刊行された単行本は「前編」のみで終わっている(後述のネタバレ理由)。
その後1960年代後半まで入手できない状態が続いており、国枝の「幻の名作」として噂を呼んでいた。
1968(昭和43)年に桃源社から「大ロマンの復活」として、国枝を始め、小栗虫太郎、橘外男、海野十三ら戦前の伝奇・探偵小説の一連のリバイバル刊行があり、その第一弾にして目玉となったのが本書である。
この反響は当時凄まじいものがあったらしく、三島由紀夫が晩年のエッセイで
と述べている。
自分が初めて読んだのは図書館で借りた『昭和国民文学全集10角田喜久雄・国枝史郎集』(筑摩書房/1978年)で、高校生か予備校の頃だったと思う。
「時代小説なんて棺桶に片足突っ込んだ老人が読むものさ」とナイフみたいに尖っていたが、夢枕獏の「大帝の剣」シリーズをきっかけに、当時読んでいたSF作家の時代物や山田風太郎を読み始める。そして角田喜久雄を知り、この時は一緒に収録されていた角田の「髑髏銭」目当てで借りた。
「髑髏銭」は、女性に好かれやすいがある大望を持った主人公剣士、訳ありの覆面殺人鬼、幕府の偉い人、主人公を助ける怪人、豪商、主人公に惚れるのが不幸な身の上でも健気に生きる町娘、同じく色っぽい女掏摸、同・幕府の偉い人の娘!そして宝探し。
伝奇小説の王道でとても楽しかった(今でも好きなお話である)。何日かかけて読んだ。
もう一人の国枝史郎は聞いたこともない作家だったし、このまま返却しようかなと思いつつ頁を捲っているうちに惹き込まれ一気に読み進めてしまった。そして最後に「えーっ!」という衝撃。
このお話のメインテーマなのでネタバレするが、この物語は「未刊」である。一番最初の出版も完結したらまとめて出すつもりで、結局なかなか連載再開されぬままだったため苦肉の策で前編のみ(21回中の16回まで)となったのではないか。
あらすじは下記のとおりである。
「纐纈城」というのは実在というか、元ネタがあり、宇治拾遺物語巻十三「慈覚大師纐纈城に入り給ふ事」に登場する。
慈覚大師・円仁は天台宗の開祖最澄の弟子にあたり、最澄入滅の際に特別な奥義を伝授されるなど、初期の天台宗布教に活躍した人である。45歳のときに夢に現れた亡き師のお告げにより、唐に渡り仏教をさらに学ぶことにする。
唐ではいろいろな苦難があり、新たな皇帝の仏教弾圧により都から逃げ出す途中、助けを求めた山あいの栖(すみか)が纐纈城。
そこでは同様に迷い込んだ人々を、騙し太らせて逆さ吊りにして血を絞り、その血で染めた真っ赤な布を売っているという(「纐纈」とは絞り染めのことを言うらしい)。
円仁のこのエピソードは仏教説話なので、最終的にはその苦難も遠く離れた比叡の三宝(仏法僧)に祈ることで、ご本尊薬師様のお導きにより無事脱し、ありがたい経典と共に日本に帰ることができたという結びとなっている。
纐纈城伝説は検索した限りでは中国には存在しないようだが、田中芳樹が円仁も絡めて「纐纈城綺譚」という中国武侠小説を描いているようである(未読)。
「神州纐纈城」は伝奇ものの常套でそうした古典からのネタや、武田信玄、「心頭滅却すれば〜」の快川和尚、塚原卜伝、高坂弾正(春日虎綱)、山本勘助、上杉謙信といった実在の人物も登場し、虚実織り交ぜ紡がれた物語である。
先ほどのあらすじに出てきた土屋庄三郎は本作オリジナルの登場人物で、主人公でありながら運命に翻弄され続け、様々な人たちと複雑に入り組んだ人間絵巻を織りなしていく。
庄三郎の父親であり富士本栖湖にある纐纈城主となった土屋庄八郎は、業病「奔馬性癩患」を病み、膿み爛れた手足は包帯に覆われ、腐れた顔は仮面で覆っている(初めて読んだときからバイオレンスジャックのスラムキングのようなイメージでいたが、後に永井豪もこの作品が好きだったと知り合点がいった)。
その弟で庄三郎の叔父である土屋主水は、庄三郎の母、纐纈城主の妻である妙子の元恋人であった。兄に奪われた恋人を忘れることができず、またそのことを知る庄八郎により酷い目に合わされる妙子。二人の間に産まれた庄三郎が果たして誰の子なのか。疑心暗鬼に囚われた兄に決闘を言い渡され、逃げ出した主水は、富士山の地底で役小角の木乃伊の導きにより、修行し光明優婆塞となる。そして彼を慕い集まった人々と富士教団を組織し、後に教団を棄てる。
信玄の命により、甲斐を出奔した庄三郎を捕える罰するため差し向けられた非道な少年高坂甚太郎(高坂弾正の子で妙子の弟)。
富士三合目の裾野で陶器を焼きながら、寝取られ逃げた妻と同輩を探し、病的に人を殺しまくる三合目陶器師(元は北条氏の侍大将)。
富士の洞窟で人々の顔に外科的改造手術を行う月子は理想である極重悪人の顔を求めている。
富士の裾野の森で、人体を解剖し取り出した内蔵から秘薬五臓丸を作る直江蔵人(かつては上杉氏に仕えていた武士)とその娘松虫。
ひょんなことから五臓丸を入手し、それが人間の内臓から作られていることを知り、非道な作り手を斬るために探し歩く剣聖塚原卜伝。
国枝の文章は時代小説にしてはとても読みやすく、特徴的な文体である。
もともと大学時代から劇作家を目指していたこと(自費出版の戯曲集もある)や、中退後、朝日新聞で演劇評論をしていたこと、そしてその後松竹座で脚本家をしていたこともあり、登場人物二人だけの会話のみ(地の文無し!)で数十行進むこともある。
そして、カタカナ表記で多用される擬音。
時代小説なので対峙する場面でも、
朗読したくなるようなメロディアスで疾走感のある文体であるが、個人的には三島由紀夫がそこまで絶賛するほど美しい文章とは思えない。よくネタでみるライトノベルやなろう小説に近い気もする。
しかし文章のスピード感、ストーリーの迸りは凄まじく、国枝の特徴である場面転換が次々と行われ、そのたびに、時代小説にありがちな類型的キャラクター(先に挙げた角田喜久雄のような)とはかけ離れた個性的過ぎる面々が、新たな展開に翻弄されていく。
国枝自身は自らの作品を「フリージャズ」と称したそうだ。即興で次から次へと展開が変わっていく様子にたとえ、物語が読者の予想のつかない方向に変転していくということだろうか。
悪く言えば行き当たりばったりかもしれないが、雑誌連載時はきっと毎月読者が手に汗握ってハラハラとしながら読んだことであろう。
物語は甲府、富士裾野、纐纈城と何度も舞台転換し、人々の運命が絡みすれ違う。
庄三郎は甲府から富士教団。光明優婆塞の失踪により荒廃したそこを追放され纐纈城へ流される。
庄三郎を追う甚太郎は纐纈城、そして庄三郎と入れ違いに富士の月子のもと、そして謙信の越後へ。
纐纈城主庄八郎は、迷い込んだ甚太郎を見て懐かしき故郷を想い出し、城を出て甲府へ。その道すがら火柱となって触れる者を皆、恐怖と絶望の底へ落とす。
この描写がただただ凄まじい。
「奔馬性癩患」とは国枝の創作であるが、世界で唯一この神聖な病に犯されている城主は、触れるものすべてを天刑病と言われた癩に感染させ、数年から数十年かけて進む症状を一瞬で進行させる。
本作は全21回の章からなるが、第13回で纐纈城から出て本編の終盤1/3を放浪し、朦朧とした意識のまま人々を感染させ、甲府へと進んでいく。
そして三合目陶器師は月子によって醜い顔へ変えられた妻と男を見抜き、追って混乱の甲府の町へ。
五臓丸により癩病を治せるのではないかと考えた直江蔵人は協力することになった塚原卜伝と共に、すべての元凶である纐纈城主を追い、やはり甲府へ向かう。
城外には、恨みの声をあげる絶望的な病人たち、そして国境に押し迫る上杉と北条に為す術もなく手をこまねいていた武田軍では道鬼山本勘助が戦車(詳細不明)を開発していた。
富士教団を襲撃する纐纈城軍と、愛する人を奪った兄への憎しみが消えずまた陶器師との対話により彼を救うことが出来ないと悟った光明優婆塞は、教団を捨てて何処へか修行の旅に。
そしてある日、甲府の街に聖者が現れる。
穢い乞食のような身なりのその男に触れられたものは病が快癒するという。彼により街の人々に笑顔が戻り始める。その聖者こそ光明優婆塞であった。崇拝されるのを厭い、みすぼらしい姿でひとり俯きながら歩くその道の先には兄であり宿敵であった纐纈城主がいた。
で、【未完!】
このあと果たして愛憎渦巻く兄弟は邂逅したのか。
主人公であったはずの庄三郎はじめそれぞれテーマを抱えた登場人物の運命は?
またおそらく伏線として登場人物の会話にのみ出てくる「甲斐と信濃の境、八ケ岳の渓谷にいるという尼僧」とはいったい?
拡げるだけ拡げて謎を残したまま物語は永遠に(読者の心の中で)続く。ある意味理想の終わり方かもしれない。
栗本薫亡き後も書き継がれている「グイン・サーガ」(当初100巻完結予定を売り1979年スタート。作者拗らせにより展開が進まず、終わらず、2009年、130巻で作者死亡。その後2013年から別の作家2名によって書き継がれるが10年以上経っても149巻までしか進んでいない)をいまだに読んでいるし、夢枕獏の「キマイラ」(1982年スタート。途中で文庫からハードカバー、新書版に判型を変え、巻数も変更されるが40年以上経っても通算23冊しか)、「餓狼伝」(1985年スタート。途中いきなり「新・餓狼伝」になる。通算18冊)も40年近く読み続けてもまだ終わらない。
長編のシリーズ物を読む一読者としては、作者と物語が当初の面白さのパワーを維持し続けてくれれば一生続けてくれても構わないのだが、作者も読者も衰える。
上記の作品たちなんて拡げすぎていろいろな設定が辻褄合わなくなったり、物語が始まった時代と現実がすり合わせできず、昭和の筈だったのに携帯使いだしたり(「ガラスの仮面」現象)、何年かおきにしか出ないので忘れて直近何冊か読み直したり。正直、買い続けてるのは惰性のみ。
一番の理想は田中芳樹の「銀河英雄伝説」くらいに作者が勢いある時期に短期間(5年10冊!)に書き上げてくれることであるが、勢いあるときは連載も多く抱えてしまいなかなか手がつけられなくなりがち。
そして止まっていた連載が再開されて完結させたは良いが、どうでも良い尻すぼみな落ちをつけられても納得がいかない。
我々は「大帝の剣」(夢枕獏)、「アルスラーン戦記」(田中芳樹)、「機械獣ヴァイブ」(山田正紀)の悲劇を忘れてはならない。
風呂敷拡げるだけ拡げて放りだしてくれ、絶頂期で作者死んでくれ。
なお永井豪の朋友であった石川賢がこの作品を漫画化している。未読であるが、国枝の作品以上に荒唐無稽であるとのこと。果たして完結したのだろうか?
そして筒井康隆の「時代小説」という短篇は国枝史郎や「丹下左膳」をパロディ化した作品があるので機会があればお読みください。