見出し画像

2年ぶりに双極性障害について思うことを書く

2018年に双極性障害と診断されて、3年。

気分の波に翻弄されて、双極性障害とともに生きていくことが本当に難しいと思う日が続きました。以前Twitterやnoteに投稿が多かったのは、自分がそれだけ悩み苦しみ、それでもなんとか「双極性障害」という壁を乗り越えたいという希望を胸に抱きながら、日々向き合い続けてきたからだと思います。

そして、2018年最後のnote投稿を見返すと、そこには「常人でなければならない」という価値観に揺り動かされ、悩まされている自分自身がいました。「障害」とは、常軌から「逸脱した何か悪いもの」と内心で捉えていたのかもしれないですね。見返すと、しんどそうでした。

それから3年。自分の中では価値観の変化が生まれているなーと思い、久々にnoteに投稿しようと思いました。
ここ数年で仕事が変わり、環境が変わり、会う人が変わり、価値観が変わっていきました。

仕事柄、日々障害があると診断された人と会い、自分自身についてもオープンに話し、その一人一人との会話の中から得られたことがありました。

障害は「逸脱した何か悪いもの」ではなく、
単なる
「個人要因と環境要因のアンマッチからくる”づらさ”」にほかない
ということです。

以前の自分は、自分自身の内面(個人要因)に躁鬱による困りごとの原因があると思い込んでいました。だからどこへ行っても社会生活上困ることが多く、いつまでたっても人並みの生活は送れないと。つまり、どこへ行っても”社会不適合者”であると、自分自身にレッテルを貼って、もがき苦しむことが多かったです。

しかし、きっとその価値観によって自分の苦しみが強化されていて、しんどい思いをしていたのだなー、と今になっては思います。
一時的に所属していた社会(やコミュニティ)のルールや秩序が、自分自身の体質・特性・価値観にたまたま合わないからといって、「社会から逸脱した何か悪いもの」とまでは自分自身を責めなくても良いことを少しずつ学んできました。

・仕事に行けないからダメなやつだ
・障害になって恥ずかしい
・みんなはできているのに自分はできない
・自分なんて周りに迷惑をかけてばっかだ

こうやって苦しんできたのだけど、今冷静に振り返って考えれば、
ただ単に、マジョリティが作った一部の社会のルールや秩序に、
一時的に合わなかった、という事象に過ぎないのだと思います。

例えば、うつ病だと診断される人は「真面目な性格」と言われることが多いと言われます。その結果、一人で抱え込む傾向が強いと言われることがあります。これらは個人の性格や特性についての個人要因です。

一方で、環境要因は、ルール・仕組み・天候・季節・国、そして人といったその個人を取り巻くものだと考えられています。

仮に真面目な性格で仕事で成果を上げ続ける人がいたとして(それは一般的には素晴らしいことなのかもしれないけど)、それを同僚が賞賛し、家族も応援し、友人にも期待され、成果を上げればあげるほど報酬がある給与システム下に身をおいて、働きすぎて体調を崩したことを考えてみます。

もしかしたら個人が真面目であるという個人要因を、周囲(環境要因)が理解しながら、上司が定期的に声をかけたり、面談したりすることで、オーバーワークを事前に防ぐことができていれば、体調不良には至らないかもしれません。または、給与システム自体に問題があるのかもしれません。あるいは、家族が期待をかけすぎたパターンも考えられます。

いずれにしても、障害とはやっぱり個人要因と環境要因のアンマッチによって発生するものなのだな、と思います。

これはうつ病や双極性障害に限らず、多くの障害と言われているものに関して、同様のことが言えるはずです。環境が変われば、個人の困りごと(障害)がすっと無くなることは多いにあり得ると思っていますし、自分自身の何か一つが変われば、困りごとが消えて無くなる場合もあるかもしれません。

自分自身が本当に困っている時には、経験不足、思考力低下でそこまで考えが及びませんでしたが、これらに気づいてからは、少しずつ楽になっていきました。また、マジョリティのルールとマイノリティの文化に目を向けるようになっていきました。困りごとが発生している時は、自分の経験上、一時的に、マジョリティのルールに乗っかれずに、社会的マイノリティになっていることが多いなと感じるのです。
そして、マジョリティのルールとどう自分自身が向き合い、マイノリティの文化をどう周囲に受け入れてもらい、そもそも今のルール自体をどうやって変えていくのか、を考えてきました。

例えば、鬱の波がきて、
・時間通りに出勤できない
・期待通りの成果を上げられない
・自分の状況を誰も理解してくれない気がする。
そんな時、どうすれば良いのかを考えてみます。

自分の出した解は、
①自分自身を変える
②仲間(理解者)を集める
③ルールを変える
の3つです。

①自分自身を変える
については、自身の障害特性について理解し、自己対処方法を少しずつ身につけてきました。日々の気分・思考・行動をモニタリングし、睡眠・食事・運動の最適解を探していく作業をしていきました(記録していき、客観的なデータをとっていく)。そして波が現れる前兆や、現れた時の早期対処法を模索していったのです。つまり、会社として定めているルールに対して、自分自身を変化させながら、どれだけアジャストさせられるか、に力を入れていきました。とはいえ、どうしても変えられない部分が発生します。そこで②です。

②仲間(理解者)を集める
については、自分はここまでやってみたのだけど、これ以上は難しかった。なので、どうすれば良いのか一緒に考えてほしいと相談を切り出します。自分自身の経験を誇張や歪曲せず、事実と感情を切り分けて伝えていきました。また、相互で助け合えるような優しさのある社会、「障害のない社会を作る」というビジョンも語ってきました。そうすると、周りは理解しようと歩み寄ってくれて、少しずつではあるけど、自分にとって生きやすい社会が数年間で拡がっていった気がします。もちろん、自分自身が生きやすい社会が作られていけば、反面で他の人が生きづらくなっていくこともある、ので、結局は自分自身や愛する誰かが、障害のない社会をどのように望んでいるのか、に考えが収束していくのだろうなと最近は感じています。

③ルールを変える
については、現在進行中で、これからもずっと続いていくと思います。時に気の遠くなることもあるけど、社会的マイノリティがマジョリティの中で理解を得て、生きやすい社会を作るためには、マイノリティ同士が団結することや、マイノリティの気持ちに寄り添えるマジョリティが必要なのだと分かってきました。自分を含めた障害者とされているマイノリティ同士が団結して、社会的に大きなムーブメントを作っていくだけでなく、きっとルールを変えていくためには、”障害”という枠すらも取っ払った"何か"が必要なのだと思います。その"何か"は、当たり前ですが障害の有無は関係なく、きっと愛情、尊敬、仲間意識といった人間の根源的な欲求や感情なのではないか、と想像しています。

まとめると、
双極性障害に限らずですが、障害は「逸脱した何か」ではなく、
単なる「個人要因と環境要因のアンマッチからくる、”づらさ”」
であることを、やっと気づき、実感できている最近です。
周囲に障害に対する考え方の不一致があったとしても、話し合い、理解し合おうとする覚悟がやっとついてきたかな?と思います。

そして自分自身、そして自分の愛する人が困り感なく幸せに生きていくために、どうすればいいか考えるのが、多分好きなのだろうなと思います。

最後に、来月の8月22日にデンマークでアイアンマンレースに出ます。
(水泳4km、バイク180km、ラン42kmです。)
かれこれ6年間、体調の波や社会情勢の大きな変化がある中で準備してきました。よければ応援していただけるとありがたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?