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私たちはどう生きるべきか

筆者がこれまで述べてきたことを表面的に見れば、
「神はいない」
「魂はない」
「物事に選択肢はない」
「人生に意味はない」
「善悪はない」
と、ネガティブな結論と思われるかもしれないが、これは正しい捉え方ではない。

これらを正しく言い換えると、
「固有の神は存在し得ない」
「魂は区別し得ない」
「物事に選択肢はないが、未来を見ることはできない」
「人生への意味付けは生きることの原動力にもなるし、捉われにもなる」
「善悪は全ての視点において異なり、“絶対真理”としての善悪はない」
ということである。

前述との明らかな違いを理解いただけるだろうか。

筆者が本書で述べたいことの主意は、つまり、以下の通りである。
私たち人間は、一見すると他の動物と一線を画して、生きることの使命を持って選ばれて、産まれてきたように感じてしまいがちだ。あるいは、産まれてきた理由や、生きることの意味を見つけようと努力する。しかしこれは、人間が手に入れた『言語』を発端として発明されてきた『ミーム』『想像力』『複雑な社会性』『神的なもの
これらによる錯覚である。

人間は、宇宙から素粒子に至るまでのあらゆるものと同等に、ただただ産まれ消えていくだけの存在だ。しかし、このことを受け入れまいとするのが、人間の性(さが)でもある。『想像力』によって文明を発展させたことと引き換えに、生老病死の『苦悩』を背負った。これを解消するために、他の動物よりも圧倒的な想像力によって『神的なもの』や『魂』を発明し、文化や宗教などと融合して『希望』と『捉われ』の綱引きの間で、バランスを保ちながら生きて行くことを強いられている。

「はじめに」にも述べたように、本書は個々の信心を否定するものではない。あくまで筆者によって世界を分析した結果を記したものである。その上で、神的なものの活用は人々が苦悩を解消して生きるために、とても便利で有効な手段であると認識している。

一方で、そのバランスを失うと、神の視点による『善』に捉われて、本来の「私」の自由な心を奪われる原因にもなり得る。

私たち人間は、人間社会の視点においては常に非情で不平等であり、それ故に苦悩と共に生きることを強いられる。その中で、自分自身の考えや意思で、生きている意味や理由に希望を見出すことが出来れば、その人は幸せな生き方ができるだろう。

しかし、それが見出せない境遇にいる人は、眼前に現れる神やスピリチュアルなものが示す教えが希望の光となり得る。そして、『神』や『魂の転生の仕組み』『教義』による、生きることへの『意味付け』によって、非情で不平等な社会や人生の『理由』を説明し、それによって、不安が軽減される。

人間にとって、理解できないことは最大の不安であるから、これを解消してくれるものを無意識的に欲するのだ。

この世界は全てが複雑に関連しているので、誰かが善行を行ったとしても、必ずしも社会全体が平和になるとは限らない。誰かの善行の影響によって、因果が連なり、どこかで何かの悪を生むかもしれない。

また一方で、誰かの悪行が、誰かの善や平和を生み出すかもしれない。ある人が善い行いをしても、世界のどこかで必ず殺人者は生まれるし、必ず戦争や虐殺は起こる。戦争や虐殺の場面に出くわすことによって、その誰かは善の心に目覚めるかもしれない。

人間だけが特別ではなく、全ては波の泡粒のように干渉しあいながら、一粒一粒が生まれ、消えていく。そして、ただただ、それが繰り返される。これが世界の現実である。

そもそも、私たち人間の思考や行動に選択肢などなく、その人が属する社会の中で、その人が起こす行動が善であるか、悪であるか、全ての結果は初めから決まっているのかもしれない。

未来が選択できない決まりきったものだとしても、生きることを決意して生きる。これを選択しようとしてもがくのが、人間らしさではないか。これこそが美しいことだと、筆者は思う。

ただ漫然と生きるのも、生きることを決意して、もがきながら生きるのも、経過と結果は同じかもしれない。であるならば、筆者は後者を選択しよう。たとえ『意味がない』ことだとしても、それが人間らしい、と『私が』思うからだ。

最後に、私の人生で出会った言葉の中から、一つを紹介して本書を終わりとしたい。

友よ私に2つの力を与えてください
変えられないものごとを受け入れる勇気と
変えられるものごとを見つけられる賢さを

【神・魂・人間】 /了

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