【連載小説 中篇予定】愛が生まれた日㉞独立した物語というのはない、胡蝶の夢
この世には独立した物語というものはない。必ずつながっているし、必ず理由がある。
何千年か前に荘周という人が蝶になった夢をみた。あまりにも生々しく、あまりにもながい夢だったので荘周はいつしか自分が荘周という人だったのをわすれて蝶として、蝶の時間を生きた。何か月か、何年か。ひらひらと、ある日の午後の陽ざしをうけて羽をうごかし、いい気分だわ~などと思っていた。
蝶は葉にとまった。くるくるした口をのばして、花に。蜜を吸った。うまい。と思った。おなかがいっぱいになり、午後の陽ざしもやわらかく、必然的にいい心地になって、うとうとした。蝶の昼寝。
ふと目が覚めると荘周は人に、荘周にもどっていた。もどっていたというか、すぐにはどちらなのかわからなかった。え、蝶?人間?みたいな。どっちよ、と。蝶の夢から覚めたのでその時点では人間であった。あーあ。と荘周は思った。
しかしまたこうも思った。人間の夢から覚めれば、また蝶なのかもしれない、と。だから荘周は、結局南極、自分は蝶でもあり、人間でもあるのだということに気づいた。
『ザ・フライ』という亜米利加映画が昔あった。いろいろな事情があり人間と蠅が混ざる的な。科学的な方法で、ひょんなことから蠅と融合した主人公(蠅人間・荘周<仮名>)は超人的な力を手に入れる。あと、めっちゃ性欲がつよくなる。そんなこんな、まあ色々あって、結末は忘れました。
それと同じです。
荘周はその後、蝶人間として生きた。人としてくだらない日々の雑事をこなしながら、昼寝をしては蝶となり、上空からせかいを見渡した。超然と。いわゆる老荘思想というものは、要するにそういうことです。
『ザ・フライ』の結末は忘れましたが、別に、それでいいんです。大体同じです。人とか動物とか、やることはだいたい一緒です。
生きた。愛した。育てた。死んだ。
こんだけ。
人間というのはことばとか、文字というものを発明したので、これにくわえて余計なことをします。話すとか書くとかの行為がそうです。人間は話したり書いたりして、記憶とか遺伝子のあれとかの補助線を残します。
仏蘭西の作家スタンダールの墓碑には「生きた 書いた 愛した」と彫ってあるそうです。もしかするとスタンダールではないかもしれません。まあでも誰でも大体一緒です。
文字の読み書きができる人間は基本的に「生きた 書いた 愛した」という生き方をします。そしてあっという間に死にます。
本稿つづく
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