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【私の書き方】私はなぜ記憶で書くのか

 インターネットで情報を検索するというのは、極力しません。するときもあるけど。それはどうしても必要な時だけです。なぜかというと、情報が氾濫しているから。新聞、ティーヴィー、ラジオ。現在、世の中には情報があふれ過ぎて、溺死しそうになります。さらにくわえて、インターネットという禄でもないものまであり、SNSとか、ブログとかnoteとか、ちょっともう「これまでにない、大雨が降ります。洪水があります。鉄砲水もあります。方舟を用意したので、みなさんすぐに家を出てください」みたいな状況になっています。

 なかでもSNSというのは悪質で、国連人権委員会というのがあるのかどうか知りませんが、国連人権委員会はすぐにでも全世界的にSNSを禁止する勧告を出すべきだと思います。SNSで、もう何人死にましたか? いいの? これでいいんかい(委員会)? とくに注意するべきは、これで子どもが死んでいるということです。何も死ぬことはないのに……。

 私はまだ死ぬのはいやなので、自己防衛をしています。ただでさえ溺死レヴェルの情報が氾濫しているのに、これをわざわざ検索などしたら、確実にあの世行きです。なので私は情報を自分から得にゆくことは、しません。基本的に。

 というわけで何かを書くときは、記憶で書きます。引用が必要であれば、紙の書籍に限ります。基本的には。しかし敢えて、紙の書籍を開かない場合もあります。

遠山に日のあたりたるところかな

高浜虚子

 これは高浜虚子の句です。いいえ。実は私の句です。

遠山に日のあたりたる枯野かな

高浜虚子

 こっちが実際の高浜虚子の句です。私は「枯野」というのを「ところ」と勝手に記憶違いをしていたわけです。この句はとても好きです。好きなんですが、私は、私の記憶違いの「遠山に日のあたりたるところかな」の方が好きです。

「遠山に日のあたりたるところかな」は季語が無いので、虚子的にはNGです。虚子的には季語が無いと駄目。俳句ではない。それでも私は私の句のほうが、遠くの山のどこか、そこに日があたっている景色がよく見え、風景や空間が広がるような感じがするのです。あと、「枯野」というのは、もうなんか、手垢がついたことばに感じてしまいます。虚子には失礼ながら。

 と、まあ、こんな感じで、記憶にたよって書くと、おもしろいです。ともすると記憶違いで、変なことを書く場合もありますが、原文よりも味わいが変わって、私の文章になるばやい(場合)があります。

 この世の情報は巨大で、厖大(ぼうだい)です。とはいえ私の脳におさめられている情報も巨大だし、厖大。さらに深遠です。人の脳というのは宇宙に似ています。それぞれにユニヴァースがあり、ギャラクシーで、遠宇宙のような朧(おぼろ)な記憶があります。

 私はフェイク情報を意図的に書くことはしませんが(それはやっちゃダメです)、しかし自分の朧(おぼろ)な記憶というものを大切にしています。これを言葉にしたいのです。だから書くのであります。

 


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