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食べながら学ぶ!パンの日本史

結論

  • 500年前に伝わったが、作られるようになったのは伝わってから300年後。

  • 明治時代、現在のパンの原型が誕生。

  • 21世紀に入っても新しいパンが誕生している。


4月12日はパンの記念日

日本で最初にパンが創られたことから1982年、パン食普及協議会によって制定されました。

日本にパンが伝わってから500年経ち、オリジナルのパンが数多くあります。全国各地のスーパーマーケットでも、ご当地パンに出会えます。今回は、500年間のパンの日本史とともに、現在では定着しているパンの発祥のお店に行った話をします。

パンの歴史

パンとは?

パンは、穀物の粉、水をこねてから焼いたもの。

ロングマン現代英英辞典

1万年も続くパンの歴史

1万年前、メソポタミアで誕生しました。メソポタミアは、現在のイラク周辺にあり、チグリス・ユーフラテス川沿いの肥沃な土地で文明が発達しました。古代では、農耕がさかんで食べ物が豊富に採れる地域を中心に文明が発達しました。

小麦の栽培が盛んで、炒った麦、石挽きの麦に水をこねておかゆのようにして食べました。食事のときに、たまたま焼石の上にこぼしてしまい、水分が蒸発しました。食べてみたらおいしかったです。それ以来、無発酵の平焼きパンが作られるようになりました。当初は、発酵という技術がなく、ビスケットのように硬いパンでした。

古代エジプトで、小麦粉を練ったものを一晩、放置してしてしまい、もったいないので焼いた結果、ふっくらしたパンができました。空気中に漂っていた酵母がパン生地に付いたことにより、酵母が糖、デンプンから、アルコール、炭酸ガスに変えることによって、パン生地がふっくらし、芳醇な香りも広がります。発酵してつくるパンは、古代エジプトから古代ギリシャを経由して古代ローマにも広がりました。

500年前、日本にパンが伝わる

日本には、1543年、種子島に漂着したポルトガル船から鉄砲とともに伝来しました。日本語のパンは、ポルトガルのパオから来ています。しかし、300年もの間、存在を忘れられており、長崎のオランダ商館以外、パンは食べられていませんでした。

300年経って、ようやく作られる

1842年4月12日、 韮山反射炉の建設を監修した江川英龍が最初に作ったとされています。当時の日本は、鎖国をしており、ロシア、アメリカなどから、開国するように脅されていました。東南アジアの国々のように、欧米列強による植民地支配を恐れていた江川英龍は、国防に力を入れるべきと幕府に訴えかけていました。

江川英龍が拠点にしていた江川邸

江川英龍は、ミリタリー飯(戦場に持ち込んで食べるご飯)としてパンに注目していました。当時のパンは、水分が少ないため、ビスケットのように固く、軽いため、保存性、携帯性に優れていました。

材料は、小麦粉、砂糖、卵、水、こしょうのみ。よく練って、まんじゅうみたいな形にしてから、焼鍋に油を引き、きつね色になるまでこんがりと焼きました。作り方は、長野県で食べられてきたおやきにそっくりです。こしょうを入れることにより、ピリピリとして甘味が引き立ちます。リング状に形成すると、ひもを通して腰にぶら下げることもできる便利なパンでした。

伊豆半島中部にある伊豆の国市韮山地区を中心に元祖日本のパンがお土産として購入できる

韮山反射炉にあったお土産屋さんでは、「パン祖のパン」として当時の味を再現したパンが140円で購入できます。江川英龍はパンを最初に作ったことから、地元では、「パン祖」として親しまれています。こしょうは入っておらず、全粒粉、塩、自然酵母、米麹だけで作ったシンプルなパンでした。塩味によって小麦由来の甘味が引き立っており、砂糖がなくても甘さを感じられました。叩くとカンカンと甲高い音が聞こえます。歯が欠けるかと思うような堅いパンです。お茶、お湯に浸けて柔らかくしてから食べることをおすすめされています。

大きなビスケットのような見た目をしたパン祖のパン

さらに、江川英龍ら江川家が代々拠点としていた江川邸では、毎年4月第二週末には、江川邸パンフェスタが開催されます。江川邸にあるかまどで、できたての元祖パンが焼かれて振舞われます。地元の美味しいお店も集まります。2024年は、4月14日(日)、にパンフェスタが行われます。

開国、戦後に日本中にパンが普及した

開国後、横浜、神戸など港町を中心にパン作りが盛んになりました。さらに、鉄道網の発達により、地方にもパンが広がりました。1913年、アメリカでイーストの勉強をした田辺原平さんが国産イーストの生産に成功し、手軽にふっくら柔らかいパンを造れるようになりました。戦前は、玄米と小麦を混ぜて蒸した玄米パンが人気になりました。

戦後、アメリカの支援によって、小麦粉が輸入され、パンが給食から広まり、主食として食べられるようになりました。現在では、コンビニ、スーパーマーケットでも様々な種類のパンが並び、手軽に食べられています。2011年には、米よりパンの消費額が上回りました。

木村屋總本店

1874年、常陸国の元武士、木村安兵衛が創業しました。明治維新により、武士は廃止されました。木村安兵衛は、職を求めて東京に行き、パンに出会ったことから、パン屋さんになる決意をしました。新橋駅辺りに文英堂を開店するも数ヶ月で火災にあってしまい、銀座に移転しました。現在では、日本橋三越、銀座三越にも直営店があったり、「木村屋」、「キムラヤ」として全国各地にのれん分けされています。

当時、日本には、ビスケットのように堅く乾いたパンしかありませんでした。一方、日本では、白米、うどんのようなしっとり柔らかい食感が好まれていました。そのため、明治時代前半は、日本にパンがなかなか広まりませんでした。発酵して柔らか食感に変えられることは、知られていました。しかし、当時、イースト菌も貴重でした。木村安兵衛は、イースト菌の代わりに、日本酒に使われる酒酵母で代替し、しっとり柔らかい食感のパンを開発しました。

あんぱん

パン生地にあんを包んでから焼くスタイルを確立しました軽食とおやつを兼ねたパンとして日本初の菓子パンが誕生しました。あんぱんのへそには桜の花びらの塩漬けが埋め込まれています。1875年4月4日、明治天皇に献上されたことから、4月4日は、あんぱんの日と制定されました。木村屋のあんぱんは、明治時代の大ヒット商品で、毎日のように行列ができました。今では、桜あんぱんだけではなく、小倉、けし、うぐいす、しろなど種類豊富です。製法は、当時とほとんど変わってません。

ジャムパン

ジャムパンも木村屋総本家で誕生しました。木村安兵衛の弟で3代目店主木村儀四郎が開発しました。ジャムパンのモデルは、ドイツで食べられていたビスケットに杏ジャムをはさんだ食べ物です。当時、普仏戦争でプロイセン王国(現在のドイツ)が勝ち、日本の陸軍がプロイセンの戦術を学ぶため、留学していました。そのときに、お土産として、ジャムパンのモデルとなったお菓子が伝わりました。

あんぱんのように、ジャムをパンに包んで焼き上げました。誕生時は、アンズのジャムが主に使われました。現在では、いちごジャムがメインになっています。木村屋のあんぱんとジャムパンは形が違います。あんぱんは丸い形、ジャムパンは楕円形です。

新宿中村屋

1904年、新宿中村屋で誕生しました。中村屋といえば、カレーも有名ですが、1901年創業のパン屋さんです。創業者の相馬愛蔵が毎日通っていたパン屋中村屋を職人ごと譲り受けられ、屋号もそのまま引き継ぎました。

クリームパン

クリームパンのモデルは、シュークリームです。アンパンのあんをカスタードクリームに変えたら美味しいだろうという発想から誕生しました。楕円型のパンの上部に切り込みを入れてグローブ型につくられています。クローブ型になった理由は、上部を切ることで、生地に空洞ができることを防いだこと、アメリカから野球が伝わって日本で人気になっていたため、グローブ型にしたなどの説があります。

体力向上が呼ばれていた時代に会い、栄養豊富な食べ物として流行しました。現在では、生クリーム、チョコレートクリームなどもあります。焼き立てより少し冷めてからのほうが美味しいです。

現在では、あんぱん、ジャムパン、クリームパンが日本三大菓子パンとして成り立っています。


愛媛県八幡浜市に本店のあるパンメゾン。2003年頃、当時の社長が夏でも売れるパンの開発に取り組んでいたことが、塩パンの誕生のきっかけです。パン修行していた息子から、「フランスパンに塩をふったものが売れている。」と聞いたことをヒントに、考案しました。子どもからお年寄りまで幅広い世代でも食べられるように、柔らかいパンを追求し、バターをたくさん入れた結果、誕生しました。外はカリカリ、中はモチモチで柔らかいです。塩分補給もでき、夏でも、食べたくなります。オーブンで30秒温めるだけで、焼きたて食感にもどります。

松山市の南、松前町、東京都墨田区にも店舗があります。

今回は、パンの日本史を食べながら学びました。カレーパン、コッペパンなど、日本にはオリジナルのパンが豊富です。続きは、またの機会にお話しします。

参考文献

ぱんとたまねぎ,(2023) ,パン語辞典第2版,誠文堂新光社
小穴康二,(2015) ,いちばんくわしいパン事典,世界文化社


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