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長野市に今も残る戦争の跡

1945年8月15日(水)

8月15日は、昭和天皇の玉音放送により、国民に終戦を知らせた日。1945年は、東京など全国各地で空襲が起こりました。沖縄では米軍の上陸作戦が実行されました。さらに、広島、長崎では核兵器が使用されました。
太平洋戦争が長期化していれば、攻撃の激化、さらなる核兵器の使用、アメリカ軍の本土上陸作戦が行われ、日本が消滅し、朝鮮半島、かつてのドイツのような東西分裂の可能性がありました。
長野市南東部にある長野市松代町には、当時、政府の機能を移す計画がありました。現在も当時の名残は観られます。それが、松代大本営跡、象山地下壕です。1944年、当時の東條内閣が日本本土への空襲が現実味を帯びたため、国の機能を東京から移す計画をたてました。東京は空襲に対する防衛が弱いことを考えて、守りやすい地下壕に皇居、政府機能、軍の指令部を移すことを決めました。
今回は、松代大本営跡を訪れた話を書きます。松代大本営跡へは、松代駅バス停から南へ徒歩5分のところにある、松代観光案内所で自転車を借りて行くと便利です。松代駅バス停から徒歩では片道1時間近くかかります。

松代に大本営が作られた理由

爆発にも耐えられるほど地盤が固いこと。松代大本営跡の地盤は、石英閃緑岩という岩盤です。マグマが地下深くでじっくり冷やされてできた岩盤で爆発や空襲に耐えられるほど頑丈です。
松代から長野飛行場が近くにあったこと。長野飛行場だった場所と松代大本営跡は、12km程度(車で約30分の距離)しか離れてません。長野飛行場は、1939年に使用が開始され、大阪、東京への定期便がありました。しかし、2年後に軍用の飛行場とされ、戦後は民間の飛行場として、1990年まで長野県警やマスコミ関係のヘリコプターの発着所として利用されました。閉鎖後は、市営住宅や中学校が建てられました。現在も滑走路跡は道路として利用されており、飛行場の名残は見られます。
海岸から離れていたため、軍艦からの攻撃を受けにくいことも理由の一つです。

松代大本営跡

 舞鶴山を中心に、皆神山、象山に碁盤の目状に掘られた総延長10kmの地下壕が松代大本営地下壕です。縦に20m、横列50m ごと、碁盤の目状に掘られております。

松代大本営跡全体像


 1944年11月に工事を開始し、1945年の終戦まで続けられました。労働者を全国各地から集めました。しかし、食糧難など労働環境が悪く、過労死も続出しました。建設中に終戦したため、一度も使用されることはありませんでした。
1947年から松代地震観測所として利用されています。1965〜1970年に発生した松代群発地震(総エネルギーM6.4、最大震度5)でさまざまなデータをとり、群発地震の発生のメカニズムの調査に役立てられました。2016年4月1日から無人になりました。
昭和天皇が避難時、滞在予定だった場所は、窓から部屋の雰囲気を覗くことができます。

松代地震観測所
昭和天皇避難予定だった和室

象山地下壕

 戦争の悲惨さを伝え、平和な世界を後世に語り継ぐために必要な遺産として1989年から象山地下壕の一部500mを公開しています。安全のため、照明、柵などを設置されています。見学するとき、ヘルメット着用が義務づけられています。当時掘ったままの状態の壕を観ることができます。
 戦時中は倉庫と呼び、正体を隠していました。
 岩を破壊するために、ダイナマイトやロッドが使われました。刺さったまま残ったロッド、穴、掘った岩くずを運んだトロッコの枕木跡から、当時の工事の雰囲気をつかむことができます。

象山地下壕入口
象山地下壕

象山地下壕
開館時間 9:00-16:00
休館日 第3火曜日、12月29日〜1月3日、臨時休業あり

2023年は太平洋戦争終結から78年です。ロシアウクライナ戦争を発端に、世界は再び分断されています。欧米はウクライナを援護し、皮肉なことに、各国の軍事アピール合戦にもなっています。日本も周辺国から発射されるミサイルの脅威にさらされています。平和は一瞬で崩れることを証明しました。今一度、平和について考えるべきだと松代大本営跡を見学して強く感じました。

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