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長崎に人類最後の核兵器が投下されてから78年

 前回、広島に世界で初めて核兵器が使用されたという事実を伝える記事を書きました。
 今回は、78年前に原爆を落とされた長崎の話について書きます。長崎は、2023年8月9日時点で最後に核兵器が使われた場所です。

1945年8月9日11時2分

 長崎市松山町にあったテニスコートの上空500mに原爆ファットマンが投下されました。ファットマンはプルトニウム型の原子爆弾。爆発時に100m~280mもの火の玉と同時に、爆心地付近では風速440mもの爆風が発生しました。
 半径2km以内は即死、半径4km以内は熱線によるやけど、放射能の影響、15km以内は爆風による建物の倒壊、損傷の被害を受けました。当時の長崎市の人口は24万人。年末までに3割に当たる約7万人が亡くなりました。

長崎に原爆が落とされた理由

 当初は小倉に投下される予定でした。しかし、小倉上空は雲や隣の八幡で前日、空襲が行われたことによる煙が広がっていたため、視界長崎に変更されました。長崎も曇りにより、視界が広がっていませんでした。しかし、沖縄基地まで戻るための使用可能な燃料もギリギリな状況でした。晴れ間があり、市街地が見えたため、長崎に目標を変えて落とされました。長崎は、造船業が発達しており、軍艦も製造されていました。軍事工場が多くあったことも理由の一つです。
 長崎市も広島市同様、北西東を山々に囲まれ、南は海に面しています。一方、長崎は坂の街と呼ばれるほど平地が狭く、効果を調べるために、不向きと考えられ、反対意見も多かったです。

爆心地公園

長崎原爆資料館

 長崎の平和祈念でも、広島の平和記念資料館と同様に、原爆による被害が解説されていました。熱線で焼かれた兜、時の止まった時計など、展示から原爆の脅威が伝わります。投下されたファットマンの模型も展示されていました。
 長崎の原爆資料館では、原爆の被害の状況だけではなく、「核兵器の時代」として戦後の核兵器・核実験の現状について、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸の被爆やアメリカ、ソ連の原水爆実験など、放射線障害について解説するコーナーも設けられていました。

平和祈念像

 平和祈念像は、爆心地公園の北の平和公園内あります。平和祈念像の前で毎年8月9日、平和祈念式典が行われ、黙祷を捧げます。
 19.7mの高さの青銅製の巨大な男性の像。長崎県出身の北村西望という彫刻家が制作し、1955年完成しました。上を向いた右手は原爆の脅威、水平に伸びた左手は平和、目を閉じた顔は犠牲者の冥福を祈る姿を表現しています。この場所には、原爆投下時、浦上刑務所がありました。炭鉱労働のため、強制連行されていた収監されていた中国、朝鮮出身の45人を含む、130人全員死亡しました。

旧浦上天主堂

 爆心地から北西へ500mの場所にあったレンガ造りの教会でした。建物は一部の壁を残して崩れました。中にいた方々は全員即死。残った壁面は1959年、現在の浦上天主堂を建設するときに、爆心地公園へ移されました。塔の一部が残されており、マリア像などは熱線により変形していることも見られました。

1959年に再建された現在の浦上天主堂

 太平洋戦争終結から78年が経ち、戦争を経験した世代の高齢化が進み、継承が課題になっています。

 ウクライナ問題や東シナ海、南シナ海の情勢の悪化など、世界情勢は不安定。また長崎を最後に78年間、核兵器は使われていません。皮肉なことに、核を抑止力として利用する国が次々と現れ、いつ使われるか分からないです。さらに、原発を狙った攻撃を受ければ、当時の原爆より確実に被害が出ます。平和とは何か改めて考える時代でもあります。

参考文献


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