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失われた筆跡とプロセスの追憶

仕事で、ノートの代わりに iPad を使っている。Apple Pencil(第2世代)とペーパーライクフィルムの組み合わせは至高で、まるで本物の紙とペンのようだ。

以前は、 ラップトップに直接メモや会議の議事録を打ち込んでいた。その方が、後からノートの乱筆を見返して悪戦苦闘することもない。極めて「効率的」だと思っていた。実際、メモを取ったページをパラパラとめくって迷子になることもない。

ただ、「手書き文字を認識してテキストに自動変換される機能」には違和感を感じる。Apple Pencil でスラスラと文字を書くと、それは瞬く間にテキストデータへと変わる。コピペしたり検索できたりと何かと便利だ。けれど、好んでこの機能を利用したことは未だにない。

先日、TikTok をぼんやり眺めていたら(親指は絶え間なく次の動画をベルトコンベアのように下から上へと受け流していた)、アプリの動画広告が目に飛び込んできた。そのアプリは、紙やノートに書いた文書を撮影して取り込むと、OCR(光学文字認識)によって文字をコピーできるようになっていた。「ほら、便利でしょ」と猛アピールが凄まじい。
興味深く眺めていると、次の瞬間、取り込んだ手書きの文書があっという間にテキストデータへと変わるシーンが映し出された。

宮崎アニメの金字塔『千と千尋の神隠し』には、主人公の千尋が迷い込んだ異世界で湯婆婆と労働契約を交わすシーンがある。拙い筆跡で「荻野千尋」と契約書に署名し終わった次の瞬間、湯婆婆の魔法によって「千」を残して他の文字たちはペリペリペリと剥がされ、奪われてしまう。iPad の自動文字変換に感じた違和感はこれに似ていた。

人の筆跡には、コンテキストや過去の記憶が宿っている。手書きのメモを見返すとき、その筆致やレイアウト、行間などの様々な情報から、メモをとっていた時の情景が思い出されることがある。(一方で、何を書こうとしていたのか当の本人にも思い出せないこともままある。)
物心ついた頃から共に過ごしてきた旧知の間柄であるから、君のことはよく知ってる。(手前味噌だが)達筆な自分の筆跡を見て、「あぁ、この日は『よそ行き』でおめかししてたんだね」とか、一転してミミズが這ったような暗号を目の当たりにして「ふむ、君は何が言いたいのかな?訳知り顔なのはわかるんだけど。」と途方に暮れることもある。その日のコンディションが手にとるようにわかるのだ。

その筆跡ちゃん/くんは、最初からその姿で生まれてきた訳でもない。○年生の漢字を書き順を覚えながらひたすら写経したり、授業の黒板を一心不乱に板書したり、意中の異性の筆跡を真似てみたりする過程を経て、君も一緒に大人の階段を上ってきた。

もう一年ほど前になるが、二子玉川で催された「END展」を訪れた。出張の合間を縫って足を運んだお目当ては、ドミニク・チェンの《TypeTrace》だった。以前から彼の書籍を通じてその存在は知っていたが、直前で『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』を読み、どうしてもこの目で見てみたくなったのだ。このときのインスタレーションは、初期のものではなくスマホ版のほう。暗幕を隔てた内部には、複数台の端末が一定間隔を置いてスタンド上に設置され、「カタカタカタ」と微かなタイプ音を立てながら、蛍のような光を放っていた。

空いている端末を選び、じっと画面を見つめる。

「カタカタカタ」

知らない誰かが、これまた知らない誰かに遺すための言葉が綴られていく。
少しタイプが進んだと思えば、すぐに立ち止まる。
時に、一度書かれた文字が消され、また立ち止まる。
(水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』が脳内再生される。停止ボタンを押すが、また曲が流れはじめる。)

──そうして15分ほど同じ端末の前で過ごしたが、普段目にする校了済みの「きれいな」文章からは削ぎ落とされた脈動が感じられるようだった。

いや、でもこれは「結果」と「プロセス」の比較であって、フェアではないだろうと思い直す。すみません、校了済みのきれいな文章。あなたにも、これまで歩んできた長い道程があったのですよね、とノスタルジックな思いに浸る。

ともかくそれは、通常は他者からは見られないプロセスを、顔面を両手で覆いながら指と指の隙間からこっそりと覗き見るような体験だった。そこには、圧縮されたり研磨されたりする前の、ふわふわとしたゴツゴツとしたものが確かに存在した。

手書き文字の認識は、機械学習(現在は AI と言う方が主流なのだろう)のテッパンとも言える。その背後には、「教師データ」と呼ばれる膨大な一人ひとりの筆跡があるが、私たちにそれを確認する術はない。教師データの文字たちは、その共通項によって次元が圧縮され、最大公約数が「モデル = AI」として導き出される。
ここで、あなたが何か文字を書いたとする。その文字が平均的な筆跡に近い場合には、そのモデルと照合され、最も「正解」の可能性が高いと思しきものがテキストデータとして返される。しかし、ちょっと癖のある、本人や近親者じゃないとわからないような筆跡はうまく認識してくれない。

──Apple Pencil を握って何度も iPad と格闘する。3回目か4回目でやっと正しく認識される。テキストデータは晴れて画面上に姿が残る。でも、1回目や2回目に書かれてうまく認識されなかった筆跡たちは、文字認識の AI モデルという「型」に嵌まらなかったために DELETE される運命なのであった。

自分のことを誰かにわかってもらえない淋しさは、誰もが経験したことがあるだろう。
いま世の中に求められるのは、よくわからないプロセスや紆余曲折ではなく、わかりやすい結果の方だ。結果を出さなければ価値はない。無駄なことはやめて、効率化しよう。型からはみ出た「パンの耳」は役立たず、捨てられる運命なのだ。

そうやって生きてきたある日のふとした瞬間に、手書き文字が認識されない。そうか、わかってもらえないのか──。

そんな淋しさと、アイデンティティ・クライシスの狭間で、取り繕いながら毎日を過ごしていく。

だから、互いに、聞いたり話したりするのかもしれない。

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