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ミッドナイトスワン


ミッドナイトスワンという映画を観ました。
草なぎ剛さんが東京で暮らすトランスジェンダー(性別的には男性で、気持ち的には女性)の凪沙という役を演じています。その草なぎさんが、親戚の中学生の一果が家庭内でDVを受けていると田舎の両親から聞いて、退避させるために凪沙のところで一時的に預かるところからストーリーがはじまります。

トランスジェンダーと、DVを受けていた少女。二人とも世間では爪弾き者で、疎外感を身に受けながら生きています。

映画中、3、4回くらい涙が出ました。
一つは、予告編の動画でも流れるシーンですが、一果が、精神的に弱い部分が出てしまい、街の中で突然叫び出し泣いてしまうシーンです。
「あー! あー!」と大声で泣いて、暴れる一果を、凪沙も驚いて「どうしたの、大丈夫?」と、優しく声をかけます。それでも叫ぶ一果を、凪沙は後ろからかなりきつく抱きしめて「うちらみたいなんは、ずっと一人で生きていかんといかんのんじゃ、強ならんとあかんで」というシーンがあります。
凪沙は、DVの影響で精神的にも不安定な一果を見て、状況は違えど、世間からの弾かれ者という大枠での共通の意識を感じて、そう言ったのかもしれません。
でも、凪沙のトランスジェンダーの事と、親からDVを受けて親戚に預けられている一果では状況が違っていて、僕には、映画の中の一果は、可能性として、ここから何とかやっていく事が出来ると思いました。
凪沙ももちろん、思うように生きる事は出来るけれど、映画を見ていると、何度も「何で私がだけが…」というようなセリフがあったり、就職するのも、ただ街を歩くだけでも、場合によっては、大変そうでした。
それを見ていると、セリフでは二人は同じ仲間のように言っているけれど、シーンとしては、その奥に書かれているのは、二人の置かれている環境の対比のような気がして、考えると、涙が出てきました。

誰しも、生きづらさを持っていると思います。
凪沙のトランスジェンダーだったり、一果の親からのDVだったり、抱えているものはそれぞれ違っていても、根底には、生きづらさ、社会から見た弱さがある。
でも、それは果たして、弱さなのか、とも思う。優しさとか、繊細さとか、もしかしたら、別の性質のものも、内包しているかもしれない。

仕事をしていると、信じられないくらい獰猛な、人のこころを平気で大きく踏み潰していく人がいる。
自分が弱すぎるだけなのかもしれない。でも、その弱さがあればこそ、共感出来る人もいるし、一緒にいられる人もいる。
ミッドナイトスワンは、心にそういう柔らかい部分を持っている人に、とても響く映画だと思います。

もう一つ泣けたシーンを書くと、これもプロモーションの動画の中にありますが、凪沙と一果が二人で食卓を囲むシーンがあります。
一果が凪沙がつくったおかずを指して「これ、何?」と言います。凪沙は「豚肉のハニージンジャーソテーよ。」と答えると「はちみつしょうが焼きじゃん。」と一果が言って、穏やかな空気が流れるシーンです。このシーンは映画の中でも印象的なシーンですが、僕は、その後のやりとりもいいなと思いました。「野菜も食べなさい。」と凪沙が言って、サラダにドレッシングをかけます。何気ない一言と、表情が、なんとなく嬉しそうに思いました。
トランスジェンダーの凪沙が、こどもを持つ事は難しいと思いますが、凪沙の中で、なんとなく、家族を感じたシーンなのかなと思うと、何気ないやりとりに涙が出ました。

自分の家族のことをふと考えました。社会には絶対に相容れない人がいるけれど、家族がいて、本当に幸せだと思いました。

その日、我が家は鍋でした。
ごま豆乳鍋で、でも、そこにポン酢を入れてみたり、食べるラー油を入れてみたり、あーでもないこーでもないと言いながら、その日観たミッドナイトスワンの感想を奥さんに話していると、また涙が出そうになりました。

いつまでも家族を大切にしたいと思いました。

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