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誰が新しい地図を描き始めるのか

かなり“したいこと”の話に近づいてきた、
私のしたいことは何なのか」シリーズ。

想像以上に長くなっている。
2,3本書いたら終わるかと思っていた。


誰もにとって、“自分”を中心にして他者と世界を知っていくことは
価値あることになっていくと考えている、かもしれない。


〇望みや幸せや夢は人によって違う

当たり前っぽいこと。

でも、誰もが同じこと(似たようなこと)を望み、
同じことに価値がある(と思い込んでいる?)とする時代は
少し前までは現実に起きていた部分があったようだ。

何の話かと具体的(?)に挙げるなら

学校は勉強するところ、大人になったら会社に勤める
結婚して子どもができて、一家に一台車が欲しい。
カラーテレビクーラーもあれば最高だ。

誰もが、かは知らないがおそらくそう言ってもいいレベルで
みんなが自分の家庭の人生の豊かさと信じて
それを目指すように生活していたらしい。

しばらく前の価値観、何となく聞いたことがある人もいるだろう。

頑張って勉強して、いい大学に入って、いい会社に入って…みたいな。

最近は少し違う。

学校行かなくてもいい、色んな個性がある、
結婚したくない、車いらない、
働きたくない、好きなことをしていたい、
楽しく暮らせればいい。

画一的に大量生産された価値観の信仰は
少しずつその歪みが明るみに晒され始め、
現在はかなりの個別化、多様化が進んでいるようだ。

インターネットが普及し、情報が得られる範囲も速度も変わり、
誰もが個別に情報の発信と受信をできやすくなった。
世の中の広い範囲の個人に意識が向けやすくなったのもあるだろう。


〇学校と個別化していく世の中

ここ最近、勉強したほうがいいかもしれない理由みたいな内容を
2つ投稿しておいた。

勉強するのは自分のためなのか?
“役に立つ”は誰がわかるのか

これが全てではないけど、
関心があれば読んでもらうとより伝わりやすいかも。
(シリーズ化のつもりは特にないのだけどいつか全部書き出すかも?
 読む人がいるかは知らないが。)


今の時代、誰もが同じ知識や技術を欲するわけでもないし、
誰もが似たような進路に進むわけでもない。

個人の生活や未来や幸福は、徐々に確実に個別多様化していっている。

機械やAIの発達によってパターン化された営みには
少しずつ人間の労力を割く必要性は低くなってきたことも、
それを後押ししているだろう。
何ならそれ以上の発展をする兆しもある。

その中で学校に同じ年頃の子ども
一斉に同じ内容の授業を受けている状態に
違和感をもっている人もいるだろう。

私には合わない
他人と同じペースで勉強するのは無理だ。
自分の興味があることだけやっていたい。
自分の進路に必要なことから優先して学びたい。

こういった個別教育的な発想はもう世に割と溢れているように感じる。

しかし、学校という場所は、
ある意味画一的な価値観に支えられている部分がある。

簡単に言えば、
理由はどうあれ高校や大学に進学する人はそれでもまだまだ多い
授業はある程度まとめた人数を毎日同時に相手にする。
多くの人はテストで点が取れないと困る

必ずしも個別多様化した先にある未来を
誰もが現時点で覚悟しているとは限らない
学校で勉強をしているから選びやすい未来も確実にある。

世の流れはあってもまだまだ過渡期でしかないし、
いつ落ち着くかもわからない。

この先どうなるかわからないのに、
これまで社会を支えてきた制度を一気に変えたり捨て去ったりすることに
不安を抱くのも仕方がない。

そしてその不安は人々の足並みを不揃いにさせるには十分大きい。


別に学校や教師が世の中の流れに気づいていないわけではないし、
そもそも教育はより個人に意識を向ける方向へと傾きやすい。
おそらく実際に傾いている。

少しずつ学校でも様々な取り組みが行われつつある。
しかし、方向転換したくても、誰もが時を同じくしてそうはなれない。
学校だけが変わっても、そこに関わる様々な人々はついてこれない

画一的な価値観の功績は大人の頭の中には根強く残っているし、
現実にそれぞれの学校に来る子どもや親は言い分はそれぞれだ。
そしてそれこそが個別化しているという現実そのものでもある。

〇授業をする理由

どこかにも書いた気がするが、
正直なところ自分が授業をするとして
個別の細かい知識や技術の習得がどうの
ということにはそれほど関心がない。

しかし、学校でとりあえず表向きに教える内容や、
教科書などに書いてあること、
あるいは現在の高校や大学受験なんかで問われること
大半は未だにそれだ。
(少しずつ変わっていってはいるようだが。)

こういった状況もあって、
ひとまず表向きなことをまともに教えていくというのは
教師の仕事上、学校の役割上、普通だといってもいいと思っている。

だが、それは少なくとも私にとって授業をする
あるいは勉強をさせる理由としては特に重要ではない。
もっと違うところにある


大体の場合、先生は生徒より長く生きているし、
全員ではないかもしれないが、
教育や他人の人生やその幸せなんかに多分関心が高い

それが必ずしもうまく作用するとは限らないが、
長く生きている分いろんな経験、交流、勉強などをしているので、
多少考え方や価値観なんかも育っている(と期待される)。

未来の予感やイメージも少しは多様で鮮明な場合もあろうし、
それに影響する現在や過去の要素も少しは思い当たりやすいだろう。
方向性はそれぞれだが、
そういう心配事をあれこれするのが性分みたいな人たちだろうと
私は勝手に思っている。

まあ相手が教師であることに特別な必要性はないのだが、
じゃあ誰なの?と言ったら個人同士の巡り合わせに大きく委ねられる。
そうなると、ほとんど運みたいなものだ。


教師の存在価値はその職業の理念的に、
相手(≒子ども)の幸せに肯定的な関心を持っていて、
相手と適切な接し方ができ、
多少なりとも相手より長く生きている・人間として育っている

ということ、だ。


しかしだから的確であるとか、言うことを聞くべきだという意味ではない

子どもが自分の人生を考える時
(相性のいい人を選ぶ必要はあるかもしれないが)
傍にいて相手をしてもらう価値があるだろう、という意味だ。

あるいは、自分はそうありたいという意味かも知れない。


正直なところ子どもが自分のしたいことがあるなら
それをしてもらえばいいし、
それを差し止めようなどとは基本的には思わない。

ただ、例えばその人にとって今勉強していることが
役に立つかどうか、価値があるかどうかということは、
本人の予感だけで判断することは難しいと感じる。

学校であれば、授業であれば、私だけでなく他のクラスメイトもいる。
こんな考え方がある、こんなやり方がある、こんな理想がある、
そう言ったことを少しは見出しやすい。

世の中にはいろんなことがあるし、
そもそも習っていることは基本的にまだ知らないことなのだ。
その状態で適切な価値判断ができていると考えていることこそ
違和感をもって当たるべき
だ。

それが本人の思い込みにならないように、
あるいはそうであるかないかを一緒に確かめるように、授業をしたい。

教師自身の感性や専門性は十分発揮してもらいながら、
教師の価値観としか向き合えないような授業にしない工夫は
十分可能だと考える。


学校で授業をするとか、そこに教師がいるという価値
私はおそらくそういうところに置いている。

だからその時間を、それぞれの“自分”と向き合える時間にしたいのだ。


〇新しい地図は誰が描く

古い地図を手に入れることはそれほど難しくない。
学校でも、本屋でも、親でも兄弟でも、他の様々な方法でも手に入る。

しかし、その古い地図が自分に合っていないと感じるなら、
どうするだろう。

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道が変わっている、
書いてある言葉や記号が読めない、
現在地が地図の外にある、
あるはずの目的地が地図にない、
穴があいている、
地形そのものが違う、
誰も行ったことがない、
自分がどこにいるのかわからない。


最新の地図は誰の手元にも常になく
自分と他人が同じ地図を求めていることもない

それでもこの世界には、自分も、たくさんの他の誰かもいる。
自分のいきたい場所や辿りたい理想の道もある。


そんな自分と、隣にいる誰かと、どこでどのように過ごそうか。

誰かが描いた古い地図をどこかに置いて、
誰が描いた新しい地図をこれから手にしようか。

少し古いけどこの地図を見ていれば大丈夫、
なんて思ってる人はあまりいないのは確かだろう。

万能な1枚の地図を心のどこかで求めることをやめて、
誰もが迷子であることを認め合う。
それが新しい地図を手にする最初の歩みになるだろう。

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