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“役に立つ”は誰がわかるのか

先日書いた「勉強するのは自分のためなのか?」の続きみたいなもの。
他のことを書いていたら話のこの部分が
あまりにも膨らんでしまったので別でまとめようとなったもの。

まだ書き足りないことのほうが多い気もするくらいで、
気が向いたらいっそシリーズにしてしまってもいいかと思わなくもない。

それはさておき読む前に一言、かなり長い


これは役に立つ、これは役に立たない、と誰かが言う。
本当にその通りだろうか?

まあわかりやすく、続きっぽく、
「勉強」というキーワードで主につないで書いていく。

〇勉強は将来役に立つとは言えなくなってきた?

学校に行く理由、勉強する理由として
世の中で挙げられていそうな答えはいくつかあるが、
そもそもそんなことを堂々と問うこと自体、
少し前なら異様なことだったのかもしれない。

将来役に立つよとか、勉強しないと大学いけないよとか、
就職できないよとか、社会に出てから困るよとか。

まあ言い方は色々あっただろうが、
要するに学校で勉強すること
そしてそれが自分の人生をどこかで左右することは、
当然のこととして信じられていた、のかもしれない。


しかし、それからかなりの時間を経て今、
その構図には当てはまらない人生を送る人が増えていて、
それでも成功したり幸せになったりしている人が割といる、と
おそらく大勢の人が感じている

幸せの形は一通りじゃない、人によって違う。
それが改めて認識され始めたのだろう。

実際には本当に増えたのか、
ネットの普及で目立つようになっただけなのかは
私には区別がつかないので不明なのだが。


まあそんなことを考えているかどうかはともかく、
勉強して何の役に立つの?なんて聞かれたら大人でも困る人は多い。

仮に、いい大学いけるよ、と言ってももはや通用しない場合も多い。

他にも、学校の先生が自分で教えている知識や技術などについて
「○○はこう使われていて~」とか
「みんなの使ってる○○はこうなっていて~」とか
まあ少し気の利いた詳しい人ならそんな話もできるだろう。
それを面白い、興味深いと感じる人も確かにいる。

それはそれで構わない。

しかし、じゃあそれを自分が知っている必要があるの?
絶対知ってないと生きていけないの?と言われたら、
特にそんなことはなさそうなことも多いだろう。

勉強する理由を必要の有無役に立つ立たないで語る人には、
そのまま平行線を辿って最後まで通じないケースがほとんどになるだろう。

〇自分ではなくてもいいと言う認識

なぜそれを勉強しないといけないの?
役にも立たないし、知っている必要もない。

知りたい人が、専門家が、興味がある人がしたらいい。
自分は興味がないし、別に知りたいと思わない。
そう思っている。

そして、それはおそらくほとんど誰もが
自分がさほど興味のないことについてそう思っているのではないだろうか。

それで済ませられるくらい、
生きていくことはある意味で楽なことだ。

幸か不幸か世の中の「こんな時どうすればいいんだろう?」を
全て個人が考えていないと生きていけないようにはなっていない。

知らないことは誰かが助けてくれると思っているし、
身に迫る危険でもなければ諦めることだって選べる
自分が詳しい必要などない。

正確で簡単な物の数え方、言葉の正しい使い方、
病気の適切な治し方、精確な時間の計り方、
選挙のシステム、税金の払い方、
歴史の時代考証、精緻な地図づくり、
外国人とのコミュニケーション、海外旅行で気をつけること、
美しい音楽の奏で方、試合で勝つ秘訣、
災害の対策、外国との貿易、
道に落ちているゴミの掃除、おいしい料理の作り方…。

パッと浮かんだものを適当に挙げてみたが、
他にもいろいろとあるだろう。

そして心のどこかで
「でも、そんなことにはあまり興味がないし、
 私が自分で考えて何かをしたい、する必要がある、
 というようなことではない
かなぁ。」
と思ってしまうものが何かしら思い当たらなかっただろうか?

もし何かあっても、誰かに聞けばいい
専門家の意見をもらう方法だって、今ならいろいろある気もする。

〇誰かへの依存の第1歩目

専門家に任せて言うことを聞いておけばいいか、となっている状態として、
医者の世話になっている時というのが
多くの人が経験するわかりやすい例の1つではないだろうか。

自分はただ黙って従う存在に成り下がるだけでいい。
どうせ専門的なことなんてわからないし、
医者の言うことを聞いていれば確実だろう。

考えても考えなくてもやることはどうせ変わらない。


薬の効果がよくわからないから飲みませんとか、
リハビリは面白くないのでしませんとか、
食事は毎日好きなものを食べさせてくださいとか言いながら
でもきちんと治してくださいね、
なんてことはおそらく通じない。

それは多くの人が理解しているだろう。

自分はわからなくても、任せておけばいい。
文句を言わずにその通りにしていればいい。

おそらくそれをおかしいと言う人はそれほどいないだろう。
偉そうに書いているが私だってそうだ。

意識はするようにしているし、機会と時間があればその時に1つくらいは
わからなかったことを質問してみようとは思っているが、
実際にできることはあまりない。
(そもそも医者に滅多に出会わないというのもあるが。)

自分が知らなくても、ただ黙って言うとおりにするだけいい。
そういう生き方をしていることを言う。


あくまで例え話だが、
医療研究や事情は難しかったり複雑であったりと、
一般人にはわからないことだって多い。

医者であろうと誰であろうと、
必ず正しいことを、しかも誰にでもわかるように伝えられるとは限らない
受けた説明を理解できるだけの素地がない人もたくさんいるだろう。

でもそれが普通だ、何もおかしなことはない

そう思って生きていく先にあることは、
ただ黙って従うだけとは限らない。

〇“役に立つ”は誰に判断できるのか

何かを知らなかったり、考えていなかったことによって
自分が誰かを困らせたり誰かに騙されたりすることは起こり得る。

それは考えすぎだろうと、一蹴することはたやすい。
日常的にそんな警戒心に満ちた気持ちで勉強をする人もそういないだろう。


しかし、本当にそうだろうか?

昨今の事情によって、ここ1,2年の間でも
ネットや報道を通じて不安や動揺が広がり、
結果的に多くの人が振り回されてしまうこともあった。

その様子を目の当たりにしたり、
何らかの影響を受けた人も多いのではないだろうか。

そういったことの引き金となった人がどうなったのかは知らないが、
あまり精神衛生上いいことはなさそうだ。

引き金となった人に何の悪意もないとしても
周囲は自分の無知は当たり前のこととして捉えて無頓着で、
自分や世間の受けた影響や被害を盾に苛烈な怒りや恨みが向けられる
そんな印象だ。


このnoteもそうだが、ネットの普及により、
テレビやラジオに縁がなくても容易に考えや情報を発信しやすくなった。
それは良くも悪くも人目につくようになったということでもある。

個人の些細な言葉や行動までもが見られてしまうことがある世の中だ。
小さな言葉や行動であっても増幅されて広がりやすく
その分何か起きてからでは取り返しがつかなくなることも増えただろう。
もっと言えば、実際に取り返しがつかないことが起きていたとしても
それが自分には見えず、気づきもしない可能性だってある

そういったことを不幸で悲しい、防ぐべきものだと捉えるならば、
発信する側はもちろんそうだが、受信する側も
人選び、情報選びのための感覚や見識をより厳しく
“自分に要求する自覚が必要になるだろう。

拾った情報をそれぞれが正しく、あるいは適切に精査することが
できるだけで、不安や動揺を不必要に煽られたり
無益な行動をさせられたりすることはいくらか減るだろう。

もちろん今世間を取り巻いている問題は、
専門家であっても何が正しいのかすぐにはわからないことだ。
そう早く解決する兆しもなさそうに見える。油断はできない。

しかし、そういった行動を取れる人が増えれば、
逆にネットの普及は現代人の強みになり得る

ただこれは、自分に興味がないから知らない、わからないから考えない、
言われたからそうした、という生き方では実現しない。

もし騙されたり、ただ黙って従うのがイヤなら、
もし自分が無自覚に嘘をついたり傷つけたりしてしまうのがイヤなら、
そういう意味では勉強したほうがいいかもしれない。

自分に要求される感覚や見識がいつどのようなものかなどわからない。

しかし、勉強もしていない、経験もないことについて
自分にとって適切な判断をできる人などそうはいない。

ただ、例え勉強してみて具体的な知識や概念が身につけられなくても
その感触があるだけで自分の考えや行動への油断を減らすことはできる。


自分が1つのことに向き合う時に、認識の広さや深さの違いが
行動や判断やモチベーションを大きく左右する
ことはよくあることだ。

〇“役に立つ”は人によっても違う

まあ色々と書いたが、
本当に知っている必要がないのか、役に立つ時が来ないのか。

それはおそらく人生のかなり長い時間、
例え自分自身のことであっても
はっきりとはわからないものが大半になるだろう。

役に立つかどうかと想像することは若くても幼くてもできるが、
自分で選んで決められることではない
どちらかというと、役に立てたいと思っているだけだ。

自分の人生が個別多様化した先にあるように、
自分以外の人もそうなっている。
その多様化した人々の営みが引き起こす事態の変化
予測することはそれ以前より難しくなったのではないだろうか。


教科書を眺めたり先生の話を聞いていたら、
毎日毎日こんなに価値のないことを言い伝えて、
世の中って無駄なことで溢れ返ってるんだろうなと思うかもしれない。

しかし、今無駄だと感じているものが人々にとって本当に無駄で、
誰からも価値がないもの
だとしたら、誰も扱ってはいない。
遥か彼方の人類の歴史のどこかにとっくに置き忘れられているだろう。

そう考えてみた時、それを価値あるものと考えて生活している人、
仕事にしている人は確実にいるはずだ。


それでもそんなものは全て排除して
自分が役立つと実感できるものだけを取り入れて生きていったとしたら、
自分にとって無駄なく充実した人生を送れると思えるかもしれない。

しかし、人生は自分の思ったように進むとはもちろん限らない。

だからといって、その道を選ぶなとか、
保険のためにつまらなくても勉強しろなんて
私は特に思わない。


ただ、何かに失敗したり、時代や自分を取り巻く状況が変化した時、
その生き方はかなり脅かされやすい

なぜなら、“役に立つかどうか”というのは
状況が限定されているからこそはっきりとわかりやすく際立つからだ。

特定の相手、特定の業界、特定の場所、特定の文化、
すべからくそうだとまでは言わないが、
多くの“役に立つ”は、どこかに、何かに偏ったところでこそ認識される

この相手には、この国では、こういう時には、えーっとどうしようかなあ
なんて時間をかけて考える必要のあるものはあまり当てはまらない

時間が経つと問題が解決せぬまま消滅したり、
大きくなったり、取り返しがつかなくなったりするからだ。


だから、そのわかりやすさがないものを、
“これは役に立つ”と捉えることは難しい

まぁやってみて10年先くらいに解決したらいいかなぁなんて
即効性のないものを役に立つとは言えない人のほうが多いだろう。

あまりわかりやすくないものを役に立つと言える人は、
そのことに十分精通している人だけだ。
当然、精通するにはかなり勉強したり経験を積んだりする必要がある。

〇“役に立つ”の裏表

例えば学校に通っていたとして、わかりやすく“役に立つ”ものの1つは、
テストの問題を解くための知識やテクニックではないかと思う。

この問題を解くにはこの方法がいいよ、この公式便利だよ、
この語呂合わせが覚えやすいよ、この名前絶対出るから覚えとくといいよ。

テストの点を取るには役に立つかもしれない。
そして状況が変わって学校を卒業したり、
その教科の授業を受けることがなくなったりすると、
その大半の知識やテクニックはほぼ思い出す機会がない

それは、その後の進路選択によって、
役に立つ場面が来ないものがそれだけたくさんあったということだ。

これがわかりやすい“役に立つ”の裏表だろう。
それまで学んだことは、未来の自分には残されていかない。
つまり無駄な、“役に立たないもの”へと変わる。

だから、テストで点を取るためだけに勉強して何になるの?
と思っている人もそれなりにいるだろう。

でも、だから勉強しなくていい、する意味がない、
とならないのがこれまでの長い話だ。

〇“役に立つ”の先への意識

もし自分の選んできたものを
失敗変化にもなお対応できるものとしたければ、
役に立つかどうかを越えた先の深み発想力が必要になるだろう。

初学者にもわかりやすく、誰もにとって有益そうな、
“役に立つかどうか”という価値は簡単にひっくり返される。


学校で勉強することや学ぶことに限定する気は特にないが、
まあそのような意味において教養の深さは圧倒的に優位だ。

ただ物知りなだけでは意味がないだろうが、
その知識や経験の活用が得意な者ほど基本的に事態の変化に柔軟で強い


もちろん一見わかりにくいものはたくさんある。
興味がなければそれほど知りたくなる理由はないだろうし、
自分にとって価値あるものとすることはすぐにはできないだろう。

同時に、若さは待つことを嫌がり、生き急ぐ傾向にあると感じる。
したいことがあって、エネルギーもあるからだ。

それは否定的に見るようなことではない、
むしろ尊重するべきことだと考える。

子どもは考えが足りないとか、お前人生舐めてるのかとか、
そんなセリフがどこかにありそうだが
そういう気持ちにはならない。


ただ、もし私と一緒に過ごす時間があったとしたら、
そんな若い彼らに私との時間をどう使ってもらおうかとは考える。

考え事や書き物に時間をより多く割こうとした時に、 サポートを受けられることは大変助かります。 次もまたあなたに価値ある投稿となるとは約束できませんが、 もし私の投稿の続きに興味や関心がありましたら、 サポートいただけると幸いです。