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勉強するのは自分のためなのか?

勉強した恩恵を受ける対象は大きく分けて3つくらいあると思っているが、
そのうち2つくらいの話を書く。

勉強という言葉そのものに多少違和感を持つというか、
イマイチ何を指したいのかよくわからないというか、
みたいな感覚はあるのだが、
まあよく聞くフレーズの一部として勉強という単語を敢えて使う。


〇勉強したくない人の話

ネット上でも、noteの中でもチラホラ見る話題。
まあ実際のところ勉強に限りはしないのだけども、
ありがちな感じのする例として勉強を挙げた。
私の書き物のジャンルとも割とわかりやすく近いと思うので。

「こんな勉強して何になるの?役に立つの?いいことあるの?」
まあそこかしこで聞いたことがある、もしくは言ったことがある
という体験談がありふれていそうなフレーズ。
決まり文句と言ってもいいほどに。

私の答えは「じゃあしなければいいのでは?」でしかない。
したくないならしなければいい。
これに尽きる。

わざわざ親や教師や誰かに言い訳を要求してくるが、
「聞いて納得したらやりたいです。」
なんて前向きさを含んでいるとは思えない。

全員ではないかもしれないし、
結果的にそうなることがないとも言わないが。

何かある物事に対して前向きな人は、
その価値を誰かに問わなくても自分で考える、見出せる。

この問いかけの問題は、
聞かれた相手がうまく言い訳できれば解決するようなことなのだろうか

「だらけたい、つまらない、きゅうくつだ、他にしたいことがある。」
まあ様々あるだろうが気持ちが向いてないことは確かだろう。

だから「やる気が出るように言い訳してみろよ。」
と言ってきているように聞こえる。

年を取ると頭が固くなるとか、話を聞いてくれないとか、
そんな言い方をされることもあるが、
年齢はさておき、いわゆる頭ごなしな態度をとることは子どもにもある。

私からすれば大差ない。
そうは見えないだろうか?

自分の中に「やりたくない」という答え、気持ちが先にあって
そこから動かない。動けない。

まあ子どものほうが少し揺らぎやすいかもしれないが、
個人差程度のようにも感じる。
状況的に子どもは折れるしかない、というパターンは多いかも?

ではそんな時、仮に先生がうまく言い訳してあげられず、
頭ごなしに勉強しなさい、とまでは言わないとしても
相手の心にぴったりハマる答えをしなくてはならないとは思わない
できたほうがいいんだろうけど。

うまく言えないけど勉強したほうがいいよ、と
そう思ってるならそう答えるだけで十分、そこは既に対等だ。
どちらも頑固で口下手なだけ。

大人なんだからもう少ししっかりしてよ、とは思うかもしれないが、
勉強する意義なんて世に問えば
いくらかのもっともらしい答えはネット上にさえわざわざ書いてある。
読んだところでじゃあ勉強しよう、となるとはあまり思わないが。

勉強したくない、しなくていい理由を自分で考えるのもいい。
それで納得しているくらいがいい。

そうではなく、やる気になれないだけだしさせてみろ、みたいな
思わせぶりに問うてくることが私は気に入らない。


〇勉強した恩恵は自分が受けるとは限らない

まあ返しが「しなければいい」と言うタイプの私にとって
それはどうでもいいことではある。
究極的には勉強する理由はそれが面白いから、楽しいから、くらい。

だから、基本的に勉強した恩恵はそのまま自分が受けている。
勉強するのが面白くない、というのはわかるけどわからない。

これまで書いたいくつかの記事でも書いた通り、
“作業”は嫌いだったし、暗記反復練習のようなものはつまらなかった
先生の授業が素晴らしいほどに眠気を誘うこともある。
寝不足だったり疲れ切っていたりすることもある。

話や授業デザインなどがよくないという場合はあるだろうが、
本質的に新しく物事を知ることやスキルを身につけることが
面白くないと言うのは少しおかしい

自分にはない見方や考え方、感性、方法、行動などなど
魅力的なものはいくらでもある。

もしかしたら、そのすべてを完璧に身につけなければならないような感覚に
陥っている、というのはあるかもしれない。
余裕がない、とも言えるだろう。

真面目だなぁ。褒めてあげたい。


まあしかし、例えばそれらのことを教えてくれる先生のうち、
教えている内容のすべてについて
その魅力を余すことなく語れる人あまりいないだろう。

あるいは、すべて完璧に身につけているという人もいないだろう。
しかし、それが問題だとは思わない

自分の語れないものであっても、
どこかでそれを大事にし、価値あるとする人がいるということ自体、
それはすでに学びであると考える。

イメージではなく具体的な存在であるほうがいいのかもしれないが、
時にはまだ見ぬ誰かに思いを馳せることができるのも大切だ。


つまり、それを知りたいと思わないということは、
その人達と価値観を認めあったり、
関係を築いていくことへの否定
と同じ意味になる。

今後生きていく先で、多様な人々と関係を結んでいきたいのなら、
あるいはその必要があるとしたら、学びたくないことは少ないほうがいい。

自分にとって役に立つか、面白いかどうかということさえ、
どうでもいいことなのだ、とも言える。
その一方で、すべて完璧である必要はあまりない


誰かと話をしている時に、何か特定の話題であれば会話が弾むが、
そうでなければ話を簡単に切り上げられたり、
適当な返事をされたりした覚えがある人はいるだろうか?
あるいは、誰かにそういうことをしたことがある人はいるだろうか?

おそらくどんな人でも自分がしたい話をわかってくれたり、
関心をもって聞いてくれるほうが嬉しいというのは確かだろう。

自分の教養や関心が豊かであるほどそれは楽に達成できる。
(もちろんそうする、そうされる理由のすべてが教養や関心ではないが。)
簡単に言えば、楽に仲良くなれる可能性が高くなる。

そうではないのに達成しようとすれば、それは“演技”になる。
“演技”をする能力ややる気がなければ、その会話が弾むことはまずないし、
“演技”は見抜かれることもある。

どんなに好きな相手だとしても、
自分の苦手なことや興味を持てないことの話をされると冷めてしまう、
そうだとしたら、勿体ないと思わないだろうか?


まあ、実際にはそうではないことも割とある。

一緒にいる相手がよければ、
嫌いなことや興味がないことでも頑張れたり、好きになれたりする。
すべて全通りではないだろうが、
そういう記憶や思い出がある人もいるだろう。

先生が変わって嫌いだった教科が好きになった。
外国人の友達ができたから英会話を熱心に勉強できた。

人間関係によっては、
それまでもっていた興味や感覚や行動を逆転させられることさえある。


〇言い訳よりも、したいことをつくりだす

話を少しだけ戻すが、
おそらく言い訳を要求し始める理由は大きく2つあると考えた。
1つは教え方、教わり方が悪い
もう1つは、それに気持ちが及ばないほどしたいことがある

1つ目は、要するに時間や労力を費やしている割に本人が育っていない
あるいはそもそも労力を割いてもらえない

2つ目についてはどうしようもない。
やってこい、としか思わない。
だけど、その何に惹かれているのかは知って損はない
応用やアレンジの利く要素を含んでいる可能性は十分あると思われる。

もししたいことやしたくないことに優先順位をつけたとしたら、
それぞれ誰もに個別のランキングがあって、みんな同じであるはずもない。

私にとって大事で価値あることと、
他の誰かにとって大事で価値あることは違う。


もし先生がしなければならないことがあるとすれば、
“してみたいこと、してみたくなること”を用意するくらいだろう。

私が授業づくりをする時に意識していることはいくつかあるが、
その中の1つに、相手にとって“してみたいこと、考えてみたいこと”に
そもそもなっているかどうか
と言うことがある。

やってみれば、わかってきたら、考えてみれば面白い、楽しい、
というのはすでに一手遅い

やる気があまりない積極的になりにくい
初対面である、まだあまり仲良くなれていない
お互いに何かうまくいかない、少しトラブルがあった。
そういったキャラや関係である時に、これは届かない可能性が高い。

やってみたらいいのに、という程度の用意では不十分になる。

指差したらそっちを向いてくれる、くらいまでは期待してもいい、
だけどその後は勝手に歩いて行きたくなるくらいの内容でなければ
彼らを動かすことはできないだろう。

スタートできないものはゴールしない。

まずスタートしたくなること。
そうすれば何にせよ結果はついてくる。

それを繰り返す中で、結果を肯定的に受け止められる意識が
身についていけば、授業や先生への期待感は上がる
だろうし、
自然に彼らは動きやすくなっていくだろう。

そうなれば、逆転の芽も出てくる。

その先にようやく、自分がしてみたくなったこと、やっていること
価値や意味を自分たちで考え始めることができる


言い訳を教えてあげる必要はない、
それはどんなに尽くしても言い訳でしかない。

考え事や書き物に時間をより多く割こうとした時に、 サポートを受けられることは大変助かります。 次もまたあなたに価値ある投稿となるとは約束できませんが、 もし私の投稿の続きに興味や関心がありましたら、 サポートいただけると幸いです。