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聖夜だね

クリスマスらしい本を読んでいます。

Kindleのサンプルではじめにの部分を読んで購入しました。

2015年2月からTwitter というSNSで、キリスト教や聖書について140字で楽しく伝える、という活動を行い続けてきた結果、神様の恵みをいただいて、ありがたいことに現在では7万人を超えるフォロワーさんを得るに至りました。
もともとの私たちの活動コンセプトが「笑いながら聖書に親しんでもらう」ですから、この本も当然、そのようなコンセプトになります。私たちがやりたいことは「宣教」でも「伝道」でもありません。強いて言うならば「そこのあなた、ちょっと一緒に聖書を楽しんでみない?」です。
この本で一番長い文章は恐らくこの「はじめに」だと思います。あとはだいたい500~800字を一記事として電車の中やトイレの中といった「スキマ時間」に気軽に読めるくらいの長さになっています。

確かに書いてある通り、さらっと気楽に読める内容です。途中に可愛いイラストも挟まっています。

アダムとイブが手をつないで「おこられちゃったね」って。可愛い。

今日は夫が子供と過ごしているので、私は一人時間になり、そうだ教会とか行ってみよっかな、と思いついて近隣の教会のHPなど見てみたのですが、なんとなくハードルの高さを感じたのでやめました。

私の教会の記憶は、母方の伯母家族と一緒に行ったのが最初です。シンプルで綺麗なワンピースを買ってもらってそれに着替え、教会に出向いて聖書をもらい、賛美歌を歌ったのを覚えています。大人ばかりがたくさんいました。独特の雰囲気を感じたけれど、嫌な場所ではありませんでした。

私の親はクリスチャンではないので、その後教会との縁は薄れていきました。行くとすれば結婚式くらい。ですが、先述の本に「結婚式にいる牧師さんや神父さんは多くの場合偽物」と書かれているし、自分の結婚式も含めて全ての式で特に何も感じていない。あー違うな、大人になってから教会というものに行ってないな、などと思っていたら「教会とは建物のことではなく、キリストを信じた人の集まりのこと」なのだそうです。

偽物の神父さんに誓ったあれはなんだったのか。

私は夫のことを考えると恐怖で体がすくみます。今の一文で「私」と「夫」という単語がすぐ近くにあることにすら落ち込む程です。そして今日のように子供が夫と過ごす時間、私は「連れ去られた」という感覚に陥ってしまいます。それでも、平常心で一人の時間を過ごせることはだいぶ回復した証です。

夫のことは毎日考えます。思い浮かべて、その時々の自分の心境を感じ取ります。最近は無意識に行っているので、落ち込むことにも慣れてきました。

なぜこんなことになったのか。一つ思うことは、鬱になるために結婚したということ。鬱という経験が自分を変えるために必要で、そのための結婚だった。

夫のことを考えると具合が悪くなってしまうのですが、夫に関連する物事を見たり聞いたりした時にも、同様に不安定になります。なので、そのような物事にも近づかないようにしていました。

そんな生活をしていたら、私の周りは私の好きな物ばかりになりました。よくよく考えてみると、「夫に関連する物事」のほとんど全てが、元々私が全く好きだと思わない物ばかりだったのです。

好きだった物を、他者の影響により嫌いになるのはとても苦しいことだと思います。ですが、私にはそれがほとんど無い。これって、自分がより自分らしく生きるための過程を踏んでいるとしか思えないのです。夫のことを嫌悪する理由が揃い始めている。ただ、夫がこれを納得するのは無理だと思います。だからこうしてこじれて苦しんでいる。

この苦しみを乗り越えたい。日々の暮らしをつくりながら、時間をかけて考えていきたい。鬱になったのには意味があったんだと確信して、私はまた一つ解放されたような気持ちになれました。聖なる夜に。神様ありがとう。

あ、クリスマスらしいことをもう一つしました。子供のプレゼント選び。

しばらくの間、子供が興味津々に見つめる物を観察しておいて、いくつかあった中からこれに決めました。けっこう大きいのでプレゼント感があって満足してます。サンタクロースにお願いしておきました。明日の朝はリアクションを動画におさめるために早起きします。楽しみ。

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