是枝さん

映画「万引き家族」が問いかけるものとは? 是枝裕和監督と語り合う

TBSラジオ「荻上チキ・Session-22 6月11日(一部書きおこし)

※注 対談には一部映画の内容が含まれています。

(荻上)
「万引き家族」は罪を重ねながらも生活を営んでいく「小さな家族」の物語だが、着想はいつごろ?

(是枝)
着想をお話しするのは、なかなか難しいんですけども。ひとつは「そして父になる」という映画を撮った後に、あの映画は取り違えを題材にしてまして、家族をつなぐのは血なのか、共に過ごした時間か、という二者択一を主人公の福山雅治さんに背負わせて、迫る物語だったんですが、次にどういうモチーフ、どういうテーマでと考えた時に、じゃあストレートに血縁を超えて親子になろうとする、家族になろうとする人の話をやってみようかなって、(子どもを)産んではいないんだけど、父に母になろうとする人たちを主人公にしてみようと思ったのが、そもそものスタートでした。2014年くらいですね。

そこからプロット、あらすじのちょっと手前のようなモノを書き始めて、「犯罪でしか繋がれなかった」っていう、タイトルではないんですけど、大体いつも脚本書くときにはキャッチコピー的なものを最初に思い浮かべて、ノートの1ページ目に書いて、そこから書き始めるんですけど。「血」じゃなくて「犯罪」でつながっている人たちの話にしようと決めたのが3年くらい前で・それがひとつきっかけになったのは年金詐欺の事件。親が亡くなって、もらっていた年金を死亡通知を出さずにもらい続けたっていうケースが結構全国的に報道されて。なんだろうな、(事件は)ずいぶん叩かれましたけど、確かに詐欺なんで。なんかでも、そのニュースで触れた言い訳の言葉ってのが、「死んだと思いたくなかった」とか「離れたくなかった」とか、報道のされ方でいうと完全に見え透いた嘘だと思うんですけど、ただ何となくその向こうにもう少し違う感情、っていうものを掘ってみたいな、という風に思って。その核になるエピソードが浮かんだ時に、母親を樹木希林さんで、息子はリリー・フランキーさんで、というキャスティングでまず書き始めました。

(荻上)
当て書きだったんですね。監督はこれまでも家族の問題を取り上げてこられました。初期作品は「父の不在」であったり、今度は「父とは何か」であったり。前の「そして父になる」っていうのは。ある種、強固な現代的家長制というか、現代性としての「強い父」ってのを追い求めるような主人公が改心するというか、変えていくようなシーンがあったわけですけど。もう「オルタナティブな家族像」っていうのがすでにある、それを描いていこうというのが続いているような気がするんです。「海街diary」も、結果としてオルタナティブな家族、つながりというのを描いていたと思うんですけど。そのモチーフの一貫性と変化についてはどう思いますか。

(是枝)
いま、言われてなるほどと思いました(笑)そんなに意識しているつもりが実はなくてですね。たしかにどの家族も普通じゃない。でもいま「普通の家族って何だ?」っていう状況ですよね。だから、何かが欠けているとか、どこかがつながっていないとか、そういう「欠損」という言い方をしているんですけど、「欠損」がある方が、それをみんなで埋めようとするので、家族であることとか、父であること、息子であることを意識するっていう、感じがするんですよね。「海街」もあそこには父がいないし、母がいないなかで、誰かがその役割を担っていくという形で彼ら自身がその家族の形、「オルタナティブな家族の形」を模索するっていう物語になっているんですけど、そういう言葉自体が最初にあって、実は作っているわけではないんです。言われて、ああなるほどと思いました。

(荻上)
たとえば「こうあるべき」という家族の像から離れても、それに苦しんでいるという訳ではなく、それはそれで生活が成り立っている。そういうような姿が、例えば「誰も知らない」でもYOUさん演じる母親が途中から不在になっていくわけですけれども、それぞれがしっかり暮らしを営んでいくわけですよね。その暮らしを、社会的に糾弾するんじゃなく、救済するでもなく、ありのままとして描く。

(是枝)
そうですね、「誰も知らない」の時はあれもフィクションなんですけど、もともとインスパイアされた事件があって、子供達だけの暮らしが「生き地獄」という表現で色んなところで語られたんですね。もちろん親に捨てられて子供だけで飢えてっていう状況なので、外からみたらそうなんでしょうけど、いろんな資料を見ていくと長男が必死で子供達の暮らしを外部から守ろうとしている様子がうかがえて来て。亡くなった妹を山に埋めにいくんですけど、警察はそれは証拠隠滅だと捉えたんですよね。死んでしまったことがばれないようにしたと。だけど、たぶん違うだろうっていう直感、そこは直感なんですけど、直感でしかないんで、たぶんフィクションをつくっているんでしょうけど、何か違う感情のディテールをそこにみていくことで、あの時間、あの子供達が、あの家で過ごしていたものが報道とは違うものとして立ち上がってくるという感覚であの映画をつくっていました。

(荻上)
今回の「万引き家族」の中でも、実際にパートをわけるとすると、「家族」が成立していく過程と、それが奪われていく過程。今回の映画のフレーズの中で「盗んだのは絆でした」というものがありますよね。前半は「家族」が絆を盗み、後半のストーリーを僕なりに解釈すると、「家族」が社会という大きな化け物に絆を盗まれていく。それは「家族とはこうあるべき」とメディアが描く姿であるとか、システムが描く姿があるからです。そこに対しての感情というのは、是枝さんはどう抱いてストーリーを書いていたのですか。

(是枝)
私たちの社会が、彼らを解体していく存在としてある。見ているお客さんは、どこかであの「家族」に感情移入を途中からして、「あ、壊れないで」と思いながら、でも壊す側に立たされるという、ちょっと居心地の悪い状態に観た方は置かれるんじゃないかと思ったんですけど。でも確実にあの「家族」は、ああやって社会にさらけ出され、ああいう風に解体されて、子どもは実の親に戻されてっていう状況になるところで、そこは冷たく、あの家族を突き放したんですけど、ある種。答えになるかわかりませんが、家族ものを作る時に唯一心掛けているのは、「家族はこうあるべきだ」っていう「べき」で語らないっていう。こういう形が幸せだっていうことを語らないことが最低限の倫理という風に捉えながらやっています。

断罪したり、救済したりするというのがおこがましいとどこかで考えているのは、僕がドキュメンタリー出身なのがどこかに残っているのかもしれないですけれども、やはり神の目線で登場人物を裁いていく、救っていくということとは遠くにありたいってのがあるんですよね。でも、さっき突き放したって言いましたけど、あんまり結末しゃべっちゃアレかもしれないですけど、この映画の中では子どもが成長するので、傍から見ていたら本当に不幸な子供達だけど、その中でも親をみながら子どもが成長して親を越えていくっていう、そういう可能性というか、希望は残したつもりなんですね。そこをどう、あの子たちがどう拾ってくれるか、見た人がそこに自分が彼らの希望としてどう存在できるかっていうことは描いたつもりなんですけどね。

(荻上)
社会的な「正義」なるものが本当に「フェア」なものなのかとか、しっかりとその人たちの幸福にフィットするものなのかっていうものは、別なんだって観客だけが気づく。

(是枝)
そうです。観客だけが気づきます

(荻上)
ここまで踏み込んで聞いていいのかわからないですけど、あの「家族」の中である人だけは明らかに笑顔になったっていう、最後のシーンを迎えるような方もいるじゃないですか。その位置づけってものは、どう思いながら書いていたんですか?

(是枝)あれは、一人だけ罪を背負ったからじゃないですか?

(荻上)納まったというか、罪を自分で背負えたというか。

(是枝)そうでした。そのつもりでした。

(荻上)社会に対する深い問いかけがあるという風に思いました。今回あえて「絆」という言葉を使いましたよね?これ、すごく陳腐な言葉になってしまった言葉のひとつですが意図的にこの言葉を選んだ?どうしてでしょう?

(是枝)
選びました。陳腐だから。陳腐だけど、信代(安藤サクラさん)が口にするんですけど、「思わず本音が出たように言った方が良いのか、冗談めかして言った方が良いのかどっちがいいですか?」って、珍しく安藤さんが僕に質問しにきました。それくらい重要なセリフだったんですね、きっと。めったに口にしないセリフなだけに、ちょっとわざと使ったんですけど。

(リスナーからの質問:「普通」とは何か、という意味について)

(是枝)
彼らが社会から「普通」を押し付けられるんですよね。彼らが「普通」を求めた?「普通」を求めたワケじゃないんだよな、そこから排除されちゃったんだよな。異常だっていうことは、おばあちゃん(樹木希林さん)はわかっているし、だからこんな暮らしが長くは続かないってことは十分わかった上であそこで暮らしていますからね。いつまでも続く訳じゃないんですよね。

(荻上)
「普通」って言葉の持つ「呪い」ってあるじゃないですか。こうあらねばならないと。

(是枝)
抑圧ですかね。

(荻上)
例えば「そして父になる」のリリー・フランキーさんは、「普通」から、かなり自由な父親だった。今回の治(父親:リリー・フランキー)は、そうしたモデルをあきらめたというか、持ちきらないまま、その日その日を生きているキャラになっていた。信代(安藤サクラさん)は何かしらの救済というか、呪いのキャンセルみたいなものがあるかのようにもみてとれる。

(是枝)
信代(安藤サクラさん)は意識的に、治(リリー・フランキーさん)は多分、全部流されてあそこにいるんですよね、たまたま打ち寄せられて、ほかで打ち寄せられたものを拾ってきちゃうんですけどね。信代さんは多分、打ち寄せられたものを集めて「何か」を作ろうとしているんですね、きっとね。そのことが頭にあると、余計に罪として問われていくという、なんかそんな構造にはしました。

(荻上)
映画にはさまざまな反応があり、内容だけでなく、反応が社会を浮き彫りにすることもあります。今回がそうでした。監督はブログで、そのことについて触れていましたね。

(是枝監督のブログより)
この作品と監督である僕を現政権(とそれを支持している人々)の提示している価値観との距離で否定しようとしたり、逆に擁護したりする状況というのは、映画だけでなく、この国を覆っている「何か」を可視化するのには多少なりとも役立ったのではないかと皮肉ではなく思っている。1本の映画がそんな役割を社会に対して果たせるなんて滅多にないことですから

(荻上)
色々な反応がありあましたが、まずこの映画を見て劇場を出たときに、すぐ政治の話をしだすって、反応としてあるのだろうかと疑問に思いました。だって、観終わった後、まず問われるのは、カメラのこちら側にいる僕(自分)たちじゃないですか。

(是枝)
だと思います。

(荻上)
今までメディアを通じて、ニュースを通じて、誰かを断罪していたものに対して、「自分はこれから何を思っていけばよいのか」という自問自答になると思うんですね。

(是枝)
ということを目指した映画ではありました。

(荻上)これが何政権だとか、そういう議論に回収されてしまうことの、言葉のチープさというか陳腐さというか。ボキャブラリーの貧困というものをむしろあぶりだされてしまって、それが社会の課題を提示したように、僕も皮肉なく思います。

(是枝)
良かったです

(荻上)さらに映画監督として政治的な発言をするなという発言も殺到したようなんですが、それについてはブログでこういう風に述べています。

(是枝監督のブログより)
これを「政治的」と呼ぶかどうかはともかくとして、僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況のなかで映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にこの国の文化を豊かにするのだろうと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。

(荻上)
監督自身は「自分は右でも左でもない」とか、別に距離を取っているわけでもない。是枝さん自身の政治スタンスは、本を読めばわかるわけですよ。ナチュラルに書いていますし。ただ、映画監督としては「大きな物語」を描くというよりは小さな家族の話、インビジブルな所に対してカメラをむけていくってことを繰り返していく。これ今までの作品にも通底している。意外だったのは是枝監督が「大きな家族」っていう像に対して、対決しているっていう訳ではないっていうような姿勢ではなく、「言われて気づいた」っていうくらい自然な、あまりテーマ性として背負い続けているわけではないんだというのがちょっと意外でした。

(是枝)
ああ、そうですか。

(荻上)本当は国家が介入すべきだろ!って、よくニュース見ると思ったりするわけですよね。行政はなぜ救えなかったのかとか。でも、むしろ行政に(オルタナティブな家族が)妨げられる可能性っていうものから、カメラを向けていたりする。そのカメラの位置づけというのはどうしてそちらの方に目を向けるんでしょうか。

(是枝)
フィクションとして撮るならば、やはりそちらにカメラを入れたいっていう感覚なんですよね。それは多分、フィクションにしかできないことだろうという風に思ってやっているんですけど。

制度を批判する映画があってももちろん良いし、国家権力にこぶしを振り上げるような映画ももちろんたくさんありますし、それはそれで良いと思うんですけど、そんなに僕はそこに対して魅力を感じてはいないんだなというのは自分で自覚しているんですね。たぶんジャーナリスティックな目というのは実はそんなに濃くないと思うんですけど。

この間……余談になっちゃったらごめんなさい。外国人記者クラブで会見をしたときに「この映画を作っている時に頭の中に思い描いた政治家」を問われた。その記者は、現政権の誰かとか、そういう言葉を期待したんだと思うし、それはフランスで受賞後に取材にきたフランス人の記者たちも、「これはいったい何を告発しているんだ」って「どこの制度を変えればこういう家族がいなくなると思うか」とか、色んな問いを執拗に聞かれるんですけど。それを、告発を目的につくっているわけではないと話すんですけど、なかなか納得してもらえない。

でも、外国人記者クラブの質問は結果的に良かったんです。「顔は思い浮かべていません」って答えて、ふっと僕の頭の中に浮かんだのは、この映画を作っている時に取材した、ある養護施設で出会った女の子なんですけど。小学校3年生で、親の虐待を受けて施設で暮らしていて。ランドセルから教科書出していたので「いま何を勉強してるの?」と聞いたら、国語の教科書を出して「スイミー」を読んでくれたんです。目の前で、みんなに止められてるのに。で、読み終わって、みんなで拍手をしたら、すごい嬉しそうに笑ったんですよ。

それで、あぁたぶんこの子は本当は親に聞かせたいんだろうなって。その子の笑顔がもう忘れられなくて、あっ、僕この映画、その子のあの笑顔にむけて作ってるなと思った。なんかその記者の、あえて言うと無粋な(笑)質問があったから、ふと浮かんだ。ずっとその子のことを思い浮かべながら映画をつくっていたわけじゃないんですけど、なんか、むしろ、そういうものの方が結果的にはむしろ強いものになるんじゃないかっていう風に思いました。

(荻上)わかりやすいですね。たぶん記者の方々はリベラルな「義憤」に駆られて、どうすれば救済できるんだと。WEB上の一部アノニマスな方はある意味、「国威を汚しているじゃないか」っていう、鉤括弧付きの「義憤」で攻撃してきたりするけれども、(この映画は)そのフレーム自体を問い直してくれる。そうじゃなくて一人のキャラクターとか、一つの人生とちゃんと向き合って欲しいという、メッセージをこめたというと過剰だと思うんですけど、監督は少なくともそうした撮り方をしている。そして僕らも(映画を)見れば、おのずとそういった立場にカメラを通じて立たされる。そういった力をもっていると思うんですよね

そんななか、文科省が褒める、褒めないだの、文化庁から助成をもらっているくせに断るとはだの、よくわからないやりとりもある。たしかに、監督の側から受賞を拒むのは珍しいようにも思いますが、戦後文学者ではよくあることでした。

(是枝)
小さな物語、大きな物語にあえて結びつけて言うと、多分、助成金って税金の再配分なんで、映画という文化の多様性を確保するためにもらっている。ある種、パブリックなものだと思っているんですね。で、ひも付きじゃないかっていう批判もあったんだけど、ひもを握っているのは公権力ではなくて、国民の皆さんだと思っていますし、僕が考えなければいけないのは、ちょっとエゴに聞こえるかもしれないけど、国益ではなくて、映画(文化)の利益なんですよね。映画にとって有益なものを作りたい。映画文化にとって有益なものを作りたいということは考えなければいけないなと思っている。それだけなんですよね。
それが今回の首相の祝意をどうこうっていうのは、国会で(映画公開前に)語っている人たちは、誰一人この映画を見ていない。そういう状況の中で、なんかこう本質からどんどんずれていくなっていう状況で。あそこでこう、祝意をっていわれて、僕が例えばトロフィーを持って、会いに行って、2ショットで写真を撮るっていうのは、僕が「小さな物語」にこだわっているということをむしろ汚すことになるのではないかという、そういう思いでいたんですけど。そんなに表だって、わざと波風を立てたいわけじゃなくって、実はいろんな所から顕彰の話が来たんですけど、基本的にはお断りをしていました。顕彰は是非、別のカタチでっていうような。

(荻上)文化資本という社会の話を紐づけていくということなんですよね。あっという間に時間になってしまいました。またお話を聞かせて下さい!


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映画「万引き家族」

6月18日現在の興行収入は17億9600万円、観客動員は約146万人(累計)

書きおこし:「ニュースが少しだけスキになるノート」池田誠