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「2つの祖国を生きて サハリンの記憶」(前編)ザ・フォーカスより

こんにちは~

今年1月。ひとりの女性のもとを厚生労働省の職員がたずねました。

戦後、さまざまな理由でサハリンに残され、その後帰国した人たちの体験を
記録するためです。

証言するのは、近藤たかこさん、86歳。サハリンに生まれ、2000年に日本に永住帰国しました。

近藤さん)戦争が終わってからサハリンは戦争が始まったんです。

記憶をたどりながら、サハリンでの体験を話し始めた近藤さん。政府がこうした事業に取り組むのは、戦後72年が過ぎ、当時のことを知る人が減っている、という現実があります。

近藤さん)日本の人、全然わからないですよ、サハリンのこと。樺太が日本の国だったことも全然わからないですもん。サハリンにいる若い人だって戦争のこと、わからないもん。ああもう戦争って言ったら、体がぶるぶる震えるよ。自分でしんから経験しないとわからないからね。

近藤さんがサハリンで体験した戦争とはどのようなものだったのでしょうか。

2つの祖国を生きて~サハリンの記憶~

近藤さんが生まれ育ったサハリン。ここはかつて「樺太(からふと)」と呼ばれ、日本の領土でした。北海道の宗谷岬から43キロしか離れていません。

1905年。日露戦争に勝利した日本はロシアからサハリンの南半分を譲り受けます。

雪の中に横倒しになった石碑。「遠征軍 上陸記念碑」と刻まれています。

日露戦争で、日本軍がここに上陸したことを今に伝えています。

ロシア・サハリン州の州都、ユジノサハリンスク。成田空港から飛行機でわずか2時間30分の距離にあるこの街はかつて、「豊原(とよはら)」と呼ばれていました。

サハリンが日本領だったのは太平洋戦争終結までの40年間。終戦時にはおよそ40万人の日本人が暮らしていました。

それから72年。すっかりロシア風になったユジノサハリンスクですが、今でも日本の面影があちこちに残っています。

天守閣のような形をしたこちらの建物。日本領だった時代に建てられた博物館です。

1931年生まれの近藤さん。少女時代は、ずっと戦争でした。

しかし、日本本土や沖縄とは違い、戦争中もサハリンでは平和な日常が続いていた、と振り返ります。

近藤さん)戦争しているってわかっていたけど、戦争してるっていう感じはしなかったですね。食べ物もたくさんって言うわけではなく配給は配給だったんですけどそんなに困りはしなかったんです。

そのため、わざわざ北海道や本州からサハリンへ疎開する人もいたそうです。

たえがたきを耐え・・

1945年8月15日。日本が降伏し、長く続いた戦争はようやく終わりを告げました。近藤さん14歳のときのことです。しかし、サハリンの戦争はここから始まったのです。

近藤さん)ソ連の戦車が来たのが何日くらいなのかな。家の前通ったのが。戦車が通ったら地震がきたみたいに家が揺れてね。びっくりして。

終戦の数日後。ソ連軍が国境を越えて、攻め込んできたのです。

近藤さん)それまで見たこともない、鼻の大きい、背の高い人がきているから怖くて。ただ、人が怖くて外に出られない。サハリンにはもう住めないんだなっていう気持ちはあった。

さらに。

近藤さん)飛行機が飛んできて、そこから爆弾を落としたわけさ。

戦争が終わったにも関わらず、サハリンでは空襲が始まったのです。

ソ連軍から逃れ、日本本土へ引き揚げるため、豊原の駅に集まっていた近藤さん。しかし、「引き揚げは中止になった」と告げられ、しぶしぶ、駅を離れました。その5分後・・・

近藤さん)5分遅かったらもうそこで死んだか怪我したか。レーニン像の下が全部防空壕だったんですよ。その中に入っている人、みんな死んだの。(Q:どんな感じ?)A:どんな感じって、ただ恐ろしい感じしかしない。何の臭いがしているんだかそんなのただ分からない。

この空襲で100人以上が死亡。
ソ連の支配から逃れる唯一の手段である引き揚げ船も攻撃されたため、
近藤さんは日本へ引き揚げるすべを失ってしまったのです。

1951年、サンフランシスコ平和条約で日本政府は「南樺太」を放棄しました。国交のない、共産主義国・ソ連の支配下に入ったサハリン。日本との自由な行き来が制限されてしまいます。ここから近藤さんたち、残留日本人の苦難が始まったのです。

近藤さんのアパートに飾られた写真。

(Q:こちらの写真は?)A:これはだんなの。35,6歳くらいかな。

近藤さんの夫です。52歳でなくなりました。

近藤さん)人はいいひとでした。人に絶対嫌なことを言わないしね。
(Q:夫婦の会話は?)A:会話は普通朝鮮語ですね。日本語も使っていたけど普通は朝鮮語使ってました。

日本へ引き揚げるすべを失った近藤さんは、1948年、
サハリンで暮らす朝鮮人と結婚します。16歳でした。

近藤さんのように当時、サハリンに残された女性の多くが、
生活のため、朝鮮人の男性と結婚しました。

近藤さん)もう、暮らしに困るから、家族の多い人は上の子を嫁にやって助けてもらったりなんかしてたのさ。戦争のときは日本人はみな兵隊にとられて男という男がいなかったです。だから、炭鉱だとか林業だとかそういうところに男の人が必要でしょ。

戦前、日本は炭鉱などで働かせるため、多くの朝鮮人をサハリンに
強制的に連れてきました。終戦時には、4万人ほどの朝鮮人がいたといわれています。近藤さんの夫も、こうしてサハリンにやってきた1人だったのです。

国交のないソ連の支配下に置かれた後も、日本への引き上げは断続的に続きました。しかし対象となるのは、日本人だけ。

終戦とともに日本国籍を失った朝鮮半島出身者は
引き揚げの対象とならなかったため、近藤さんら朝鮮人を夫とする女性は
引き上げを断念せざるをえなくなります。

日本の敗戦がもたらした混乱による、悲劇でした。国家や国籍の壁に阻まれ、サハリンの地で生活することになった日本人は1500人ちかく。その多くは近藤さんのような事情を持つ、女性でした。しかし日本政府は、近藤さんたちの存在を認めようとしませんでした。

近藤さん)家族のために残った人もいるし、そういう人を自分の意思で残ったとか、サハリンに日本人いないとか言っているから、はじめは本当に日本の国って薄情だと思いましたよ、ほんと。国が見捨てたんですよ

生活のため、近藤さんはやむなくロシア国籍を取得します。

近藤さん)あきらめてたもん、そのころは。手紙もろくにあれでしたし、来てないし。もうどうせ、日本に行けないんだから、ロシアの国籍をもらうって言ったわけさ。

敗戦国民として、日本人であることを隠しながら生きてきた近藤さん。日本語を使うこともなくなりました。しかし、唯一こだわったものがありました。

名前です。

近藤さん)いつかは(日本に)いくんだという気持ちがあったから。

異国となったサハリンで、息を潜めるように暮らす日々。
そんな近藤さんの心を日本につなぎとめたのは、ある日、
ラジオから流れてきた美空ひばりの歌でした。

♪)美空ひばり 「悲しき口笛」

ラジオを聴きながら日本に引き揚げた家族を思っていたという近藤さん。

状況が変わるのは、日本との交流が徐々に自由になっていった1990年代のことです。当時のニュース映像に近藤さんの姿が残っていました。

残留日本人の一時帰国が許され、近藤さんは、初めて日本の土を踏みました。

近藤さん)日本の土を踏むのは夢のようであります。何年も前からの夢がかなった。みなさまありがとうございます。

離れ離れになっていた母や兄弟と再会。この後、何度か日本を訪れるたび、日本に住みたい、という気持ちが募ります。しかし、日本語ができない家族は苦労するだろう。悩む近藤さんを後押ししたのは、子どもたちでした。

近藤さん)かあさん、もう歳もあれだし、日本に行きたかったら行きなさいっていうわけさ。日本にいけるというと嬉しいような。だけど子どもたちを置いてくると寂しい気持ちが多かったですね

そして・・・近藤さんが永住帰国したのは、2000年。
戦争が終わって、55年の月日が流れていました。

(後編につづく・・・)