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長編連載小説 Huggers(22)

妻の実家を訪ねる沢渡。義母が提示したのはいちばん恐れていたものだった。

          沢渡 4

「まあ、哲史さん、いらっしゃい。暑かったでしょう、さあさあ、どうぞ」
 詩帆の母親はほがらかに言って、上がり口にスリッパを揃えた。
義母は、詩帆によく似ている。そういうと詩帆は目を丸くして「そうかなあ? 昔からお父さんにそっくりねって言われるんだけど」と言ったものだが。その義父は認知症を患い、一年前から施設に入っている。
「千葉から電話してくださればよかったのに。歩いてくるなんて、大変だったでしょう」

JRの千葉駅で私鉄に乗り変え、十五分ほど乗った小さな駅が、詩帆の実家の最寄り駅だ。実家はそこから車で十分ほどのところにあり、バスの便も悪いため、今までは義母か、一足先に帰っていた詩帆に車で迎えに来てもらっていた。

その道を、今日は歩いてみようと思った。いつも車で素通りしている、詩帆の育った町並みをじっくり見ながら歩こうと考えたからだが、ショッピングセンターやカラオケ店、車の修理屋やチェーンのファミリーレストランが立ち並ぶ大通りは、典型的な郊外のニュータウンといった感じで、特に目新しいものは見当たらなかった。まだ梅雨明け前とはいいながら七月の気温は三十度を越え、てくてくと歩くうちに汗が噴き出してきて、三十分近くかけて実家にたどり着いた頃には汗びっしょりになっていた。

一階の和室に通されて、義母の出してくれたひんやりと冷たいお絞りで顔を拭くと、ほっとして思わず深いため息が出た。
「お昼はどうされました? おそうめん、ゆでたんですけど、召し上がりません?」
「いえ、結構です。すませてきましたので」
 食欲がないと言えば、余計に勧められるだろうと思い、沢渡は言った。義母は「そうですか、じゃあ、スイカでも切りますね」と部屋を出て行く。最初の半年で五キロほどやせた。十か月たった今でも戻っていない。少し体脂肪が増えて腹回りも気になっていたので、自分ではむしろ体調はよくなったような気がしていたが、事情を知る社長は「沢ちゃん、やせたんじゃない?」と心配する。

 八畳ほどの和室は廊下に面していて、ガラスの掃き出し窓の外は小さな庭になっていた。
道に面した塀際に低木が数本あり、その手前では薄紫やピンクがかった色の紫陽花が盛りを迎えている。今はガラス戸が開け放たれているので、網戸を通して気持ちのよい風が入り、エアコンを入れなくても十分涼しく感じた。

 居心地のいい家だ、と思う。だがそんな居心地のいい家に、沢渡は滅多に顔を出したことがない。
――哲ちゃんも、一緒に来てよ
 詩帆の少しすねたような声が、聞こえたような気がした。
――一人で行ってくるといいよ。僕がいないほうが、お母さんたちも気兼ねがなくていいだろ
――でも、一緒がいい
 彼岸、お盆、年末年始になると何度となく繰り返された問答だった。さすがに正月だけは沢渡も年始の挨拶に訪れたが、元日の昼ごろに顔を出して、夕飯が済むとそそくさと一人で自宅に帰っていた。
――どうしていいか、わかんないんだよ。どこにいたらいいのか、何を話せばいいのか
――そんなこと、考えなくていいんだよ。ただ好きにして、くつろいでいればいいんだよ。家族なんだから
――君の家族だけど、僕の家族じゃない

「甘いといいんですけど」
 顔を上げると、義母が三角に切ったスイカの皿とグラスに入れた冷茶を盆から長卓に移しているところだった。
「ありがとうございます」
添えられたフォークでスイカを切り取り、口に運んだ。
「甘いですね」
「うちの子たち、二人ともスイカが好きでね、あ、まあ、ご存知でしょうけど」
「ええ、よく知ってます」
 微笑んで答えながら、家を出て十年以上になる成人した子供を、親は「うちの子たち」と呼ぶのだ、と沢渡は微かな驚きを覚える。
「だもんで、今でもスーパーで見かけると、つい買っちゃうんですよね。まあ、昔みたいにまるごと一個は買いませんけどねえ」
 義母は言って、屈託なく笑った。

 仲のいい家族だったのだろうと思う。詩帆だけでなく、詩帆の弟の仁志とその妻も、去年転勤で渡米するまでは、しょっちゅう実家に顔を出していたらしい。
 だが沢渡にとって、家族というのはうっとうしく、違和感を感じるものでしかない。
子供がいれば、違ったのだろうか?
 そんなふうに考えていた時期もあった。子供さえできれば、そうして自分がこうであってほしかったと思い描くような輝かしい日々を、父親として子供に与えられれば、自分のなかにぽっかりと欠落している部分を埋め合わせできるのではないかと。でも結局、子供はできなかった。

「それで、お電話いただいた件ですけど。その、手紙というのは」
「ええ、わかっています。今、持ってきますね」
沢渡が食べ終わったスイカの皿を盆に戻し、台ふきんで卓をふきながら、義母は言った。
しばらくして戻ってきた義母は、一通の封書を卓上に置いた。中身の察しは何となくついていた。封書に触れた自分の手が震えているのを、沢渡は感じた。
封書の宛名は義母の名前になっていた。裏には沢渡詩帆という名だけで、住所などは書かれていない。封は切られていた。中には一枚の紙と、一筆箋が入っている。一筆箋には短く「お母さんへ 電話した件、よろしくお願いします。こんなこと頼んで、ごめんね。 詩帆」と書かれてあった。もう一枚の紙は詩帆の署名捺印がされた離婚届だった。

「これは……」
 言いかけてから、何を言おうとしたのかわからなくなった。
「じゃあ、詩帆は……」
「電話してきました。先週です。ごめんなさい、すぐにお知らせしなくて」
 義母はすまなさそうに頭を下げる。
「でも、元気そうでした。少なくとも、声は」
「話したんですね」
沢渡は頬の筋肉がひくひくと動くのを感じた。詩帆が元気だと知ってほっとしたのか、義母がすぐに知らせてくれなかったことへの怒りなのか、それとも目の前に広げられた一枚の紙が意味するものへの絶望なのか。

「で、詩帆は、どこに?」
 義母は首を振った。
「場所は私にも言えないそうです。新しい携帯の番号は聞きました」
 一瞬、間があった。
「教えてもらえませんか?」
「それは、できません」
きっぱりとした口調だった。
「僕は夫です」
「それが条件なんです。哲史さんには教えないというのが。約束は、約束ですから」
「なるほど」
握りしめたこぶしに、爪が食い込んだ。
「親子で、仲がよろしいようですね」
「うちは、主人のこともありますので」
義母の口調も硬くなった。
「それで、離婚届も保護者経由ですか」
 義母の顔色が変わったので、さすがに言いすぎだったと気づいた。
「すみません、ちょっと、気が動転して。ただ、どうして僕に直接連絡してこないのか、よくわからなくて――これも」
 沢渡は机の上の紙を指でたたくようにした。
「僕は一度も、離婚なんて、考えたこともないんです。詩帆がそんなことを考えてたことも、知らなかったんです。だからなんだか、話についていけなくて……。もし本気で離婚したいというのなら、せめて直接会って、理由を聞きたい。ちゃんと話をしたい。理由も言わずに突然家を出て、突然こんなものを送ってこられても、到底、納得できません」
「待って、説明させてください。これはすぐに離婚してほしいとか、そういうことじゃないそうです。ただこういうことをする以上、自分なりに覚悟を決めているので、離婚されても仕方ないと思っている。そのしるしとして、これを受け取ってもらいたいそうです」
「しるし? 何のことでしょう。僕はただ、理由が知りたいんです。でもそれより何より、詩帆に戻ってきてもらいたい。ただ帰ってきてくれれば、それでいい」
「理由は、わかっているはずだと」
「え?」
「哲史さんは、わかっているはずだと言っていました。メッセージを残してきたから」
(つづく)


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