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私の妊娠がわかって、父がアル中で精神科に入院した8月。

8月はいそがしかった。
人生で一度起こるか起こらないかぐらいのことが一週間のうちに起こった。私の妊娠発覚と父がアル中での入院。後者は経験する人はほとんどいないだろう。
母はしみじみ「悪いこともあったら、いいこともあるんやな」と。本当にそう。人生はいいことも悪いこともいきなり起こる。
せっかくだから、先月のことを残しておこうと思う。

まず、私のことから。35歳、夫と二人暮らし。結婚4年目。

不妊治療は昨年末にスタートした。タイミング法で半年できなかったので、「いい加減、病院行ってくる」と夫に宣言した。夫は「まだタイミングでいいじゃん」と全く動きそうになかったからだ。産むならそろそろリミットだし、来年できなかったら私は産むつもりがなかったので、いよいよしびれが切れた。私は子どもがいない2人の生活もいいと思っていたし、あまり積極的ではなかったけど、いずれするかもしれない産まない後悔がこわくて35歳になる直前に病院に行った。

病院は不妊治療で有名なところだったので、全てが早かった。初めて病院行った日に卵管造影まですませて、2、3日後に人工授精をした。訳のわからないうちに病院に精子を持っていった。が、その精子状態がすごく悪かったので、旦那さんに病院に行ってもらってくださいと紹介状を渡された。突然、不妊ということがわかって「ありゃ、そうですか」と抜けた答えしかできなかった。
子どもできなかったのって夫が原因やったんかいと正直思った。少しホッとしてしまった。夫、ごめんよ。

病院を2つ紹介されて家に近い方を選んだのだけれど、これが失敗で金儲けの悪質クリニックだった。精液検査をした結果、原因不明でTESE(精巣内精子採取術)一択と言われた。渡されたのはペラ紙に手書きで精液数値を書いただけのもの。

夫は怪しいと、もうひとつの病院へセカンドオピニオンに行った。怪しいと言いながら、なんだかんだだらだらして、病院に行ったのは2ヶ月後とかだった気がする。こういう時、男の人って弱い。少しずつ行動が遅くてイライラする。この間も私は人工授精のために病院で股を開いて子宮内膜の厚さと卵の成長具合を数日ごとに測られ、注射されたり薬を飲んでいた。精子はとても少ないし質も悪いがいるにはいるので、一匹でも卵子まで辿り着けば妊娠するので治療は続けた。

きっちり検査してもらった結果、夫は精索静脈瘤という診断がついた。
「検査の結果が悪かったら、TESEするつもりです。」と夫が医者に伝えると、「手術と生活習慣の改善とサプリメントで自然妊娠の可能性もある。TESEなんて最終手段です。」とすごくびっくりされたらしい。

私はさっさと進めたかったのでTESEでも良かった。なんだったら1件目でそのまま勧めてくれてよかった。夫には悪いけど私はできるだけ早く妊娠して年内に妊活を終わらせたかったし、それ以降はするつもりがなかった。どうしても長く赤ちゃんのためにがんばるという考えになれなかった。

それにしても、医者でこんなに所見が違うとは思いもよらなかった。夫はそこまで俺の精子は悪くない!と変な自信を持ってそれはそれで面倒臭かった。どっちにしろ早く治療してくれ。

結局手術をしたのは6月。ちょうど4月から不妊治療の保険適用で病院が混んだせいだ。この待ち期間に、私の不妊治療のやる気はほぼゼロになって、やることなすこと遅いと一度喧嘩した。
そもそも私は子供が欲しいかどうか解らないけどリミットがあるからとりあえずチャレンジしてみるという気持ちなので、夫がやる気ないんだったら私もやる気出ない。

4月から混むのが分かっていてなかなか病院に行かなかったのも腑に落ちないし、手術の予約日よりも早められるキャンセル待ちが可能だったのにそれをしなかったのも苛立った。夫はどうやら病院のサイトをちゃんと読んでないらしかった。こういうところに男性独特の弱さのようなものを感じる。自分のことや体に対する責任感が薄い。

そして8月半ばに妊娠発覚。大体、手術後2ヶ月で精液検査に行くのだけれど、検査の前日に妊娠がわかった。

やっぱり、と思った。妊娠がわかる4日くらい前に高熱を出して、頭痛で寝込んだのだ。コロナかも知れないので部屋を隔離したりタオルを総入れ替えしたり、夫が大変だったと思う。おかゆやらアイスノンやら毎日作ってくれた。
治ってからPCRを受けた結果、陰性でコロナではなかった。その時から私は妊娠かも知れないよと夫には言っていた。夫は違うと思うの一点張りだった。
後から聞くと手術後、私がいない時にスマホで見られる簡易の精液検査キットで精子を見たけどよくなかったらしい。健気だなぁと少しジンとした。

一方で、妊娠が分かる少し数日前から、父親がいよいよアル中で入院するかしないかという話を病院とすすめていた。

父親は自営をしていて、7月頭に廃業してから、毎日ベッドで寝たままテレビを見るだけなので、元々弱かった足腰が悪くなり伝い歩きしかできなくなった。いわゆる燃え尽き症候群。

毎日アルコールを飲んで、発言が支離滅裂になり、風呂も入らなくなり、酒を買うためだけに外に出かける。
その上、飲みすぎて朝起きられないから夜の7時に起きて、歩けないので自転車に乗って酒を買いに行っては転倒するという具合。着替えもできない日もあるし、下を漏らす日もある。
このままではやばいと介護認定の申請を通そうとしたら、アル中の方もどうにかしないといけないと病院を紹介してもらったのだ。

私と母は、飲み過ぎ〜アル中?という感覚だったが、先生曰く立派なアル中らしく、入院させる方向に話が進んだ。

詳しい人なら知っていると思うけど、普通はアル中ですんなり入院できない。なぜできたかというと、母が父を一度包丁で刺したことがあるからだ。また別で詳しく書くけど、きっとこのエピソードがあるから入院できたのだと思う。

このまま放置してもう一度刺して何かあったら、病院は相談を受けたのに放置したということで問題になる。だから入院の話がトントン拍子で進んだと私は思っている。けど、本当のところはわからない。でもそれぐらいしか順番待ちを割って入って初診から8日後に入院できた理由の説明がつかない。

妊娠は、父の入院の前日に母に伝えた。伝えるか迷ったが、母にはしっかりしてもらわないと父の世話が私にも回ってくるので、気持ちの支えになることを期待した。
聞いた瞬間母は、「よかった、本当によかった」と喜んでくれて、「死のうと思ってたけど頑張って生きる。」と涙ぐんだので、そこまで母はつらかったのかと少し申し訳ない気持ち半分、何事もたいそうに言う人なので、はいはい、いつものやつね。という気持ち半分で聞いていた。
そもそも、母も父を包丁で刺すような人なので、かなりキている。どっちの扱いも大変なのだ。

8月某日、無事父親を入院させることができた。入院した6時間後には、「こんなところにいたら、気が狂う!出してくれ!」と電話がかかってきたが、そんなにすぐは出られないよとなだめて電話を切った。母には着信が15回以上残っていたらしい。渡したテレホンカードがこんなにすぐに使われるとは思わなかった。なんて辛抱のない人なんだと呆れた。

しかし、気が狂うっておまいう過ぎる。気が狂うのは母と私の方なんですよ。ということを解らせる長い手紙をパソコンで書いて、追加のテレホンカードとラジオと共に送った(ラジオは精神科なので自殺防止にイヤホンがNGかと思ったけれどいけた)。なんだかんだ優しくて気が効く娘だなあと自分で思う。ついでに、妊娠したことを伝えてなかったので、赤ちゃんのエコーのコピーも付けておいた。

父親はともかく酒を抜けさせないと話にならない。たまに電話がかかってくるが少しずつ話の内容がマシになっている。酒のせいでまともに話せなかったのだと思い知った。私の知ってる父は仕事以外だいたい酒を飲んで酔っ払っていた。仕事の時は普通だけれど、あの普通の父とはもう会えない気がする。認知も始まりかけのような違うような微妙なラインなのだ。テストは何度かしていて、いつもクリアしている。

ざっくり書くとこれだけのことだけれど本当につかれた。一番堪えたのは医者の質問に対する、父の返答が本当にクズだった。自分は何一つ全く悪いと思っていないと言い切って、なんだったら医者にメンチ切ってた。あれは新たな一面というか、他人が介入しないとみえない部分だった。家の中のおかしいことは第三者を挟むと鮮やかに出てくるのだなあと感心した。この時、私の中でグレーだったこの父のヤバさが明確になり、確定した。

帰りのバスの中で、病院のことを振り返っていると、ふと「おクズさん」と浮かんできた。ピッタリすぎてにやけた。これからは何かあると、あーおクズさんだからしょうがないな。と脳内変換していくことになると思う。はたして酒が抜けてクズ要素は減るのか。それとも本人の気質で70年以上それで来たから今更変わらないのだろうか…

とりあえず、9月も半ばになって私の日々は再び今のところ平和である。が、問題はまだある。それもまた書こうと思う。

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