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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(26)
第5章 自立
●美咲の所作
今日は火曜日。
いつものように早めに起床する。
「――先生、おはようございます」
窓を開けて、朝日にあいさつ。
そして体の隅々に意識を巡らせる。
ぐっすり寝たが、朝方少々体を冷やしたようだ。かすかだが、放っておけば痛みだしそうな気配を感じる。気候がいいからといって油断してはならない。
「お風呂に入って、あったまった方がいいかな」
日課の白湯をゆっくり飲みながら、入浴の準備をする。
朝風呂でじっくり体をあたためると、なんとも言えない安堵感に包まれた。痛みの気配も、暴れる前に去っていった。
あれからステロイドは徐々に減量され、ついにゼロになった。通院は今でも続いている。服用しなくても異常がないか、観察するためである。
「いってきます」
雪洋のもとを巣立ってから、もうすぐ一年。
美咲は雪洋から学んだことを、日々の生活へ着実に活かしていた。
*
勤務先は市民センター。
広い建物の中に、公民館やイベントホールなどの施設が入っている。
美咲はそのうちのひとつ、市立図書館の臨時職員として働いていた。
図書館業務はもちろんなのだが、町史の編纂作業があるらしく、そちらの補助のために採用されたようだった。何はともあれ、半端な時期に募集があったのはラッキーである。
図書館司書の資格もなく、正職でもない美咲の勤務は、週四日程度。それでも公務員の時給は高いから、勤務日数の割りにそれなりの収入が得られる。
贅沢を控えればやっていける。
管理費がかかるから車も手放した。
体が痛かった頃はまともに歩けず、車がないとどこへも行けなかった。出先で休むことができるのも、車という空間のおかげ。
でも今はほとんど痛みはなく、それだけで身軽を楽しめる。
今の勤務形態は残業もないし、本が好きだから仕事へのストレスもない。持病と付き合いながら自活するには、極めて最適な職場である。
一般の利用者は入ることができない、図書館の閉架書庫。そこは美咲が補助として就いている、沢村亮一の書斎へと化していた。
沢村はこの図書館の職員で、歳は三十五。
民俗学に精通しているらしく、歴史関係や郷土資料は彼の得意分野だ。
今回の町史編纂でも、公民館側から協力を要請される人材だった。
美咲は書庫のドアを開け、奥で背を向けて作業している沢村に近付いた。沢村に探すよう指示された郷土資料を、両手で抱えて。
「もう見つけてきたの? 天野さん」
美咲は一瞬言葉を詰まらせた。
「はい、お待たせしました。……あの、どうして私だってわかったんですか?」
こちらを一度も見ていないはずなのに、いきなり名前を呼ばれた。
カビ臭そうな文献から、沢村が顔を上げる。
「さて、なんででしょう」
目が愉快そうに笑っている。
どうやら教える気はないらしい。
そばへ寄り、こちらでよろしいですか、と確認してから机の端へ両手で丁寧に資料を置く。
「また何か探し物があったらお声掛けください」
では、と立ち去ろうとしたところを呼び止められる。
「ごめん、コーヒーいれてくれるかな。昼まで休憩しないでこもるから」
「はい、わかりました」
事務室に戻って、棚から沢村のマグカップを出す。食後はブラック、それ以外はミルクを入れて飲むのが沢村の習慣だ。美咲は静かな所作でミルク入りのコーヒーを作り、書庫へと向かった。
「沢村さん、こういう場所に飲み物をおくのは危険なんじゃありませんか?」
マグカップを沢村の机へそっとおく。
すぐそばには資料やパソコンが広げてある。
「うん、危険だね。大事な資料もあるし。だから俺は、君にしかコーヒー頼まないんだよ」
「どうしてですか?」
「他のガサツな女性たちに、大事な資料を汚されたらたまらないからね」
「……沢村さん、今、敵をたくさん作っちゃいましたよ?」
困った人だな、と胸の内でつぶやいて美咲は苦笑した。円滑に職場生活を送りたいから、美咲自身は余計な敵を作らないようにしているというのに。
「天野さんは物を丁寧に扱うし、ドジをしたのも今のところ見たことがない。コーヒーは君にいれてもらうのが一番美味いんだよ」
「そんな、皆さんと大差ないと思いますけど」
「いいや違うね。足音からして君のは違う」
「だからさっき、顔を見なくても私だとわかったんですか?」
そういうこと、と沢村がマグカップを手に取った。
「足運びも含めて、天野さんは所作のひとつひとつが人一倍丁寧なんだよね。だから物の扱いに信頼がおけるんだよ。――お、ちゃんとミルク入ってる。さすが天野さん」
ニッと笑ってコーヒーを一口飲み、沢村は書架を眺めた。
「大袈裟ですよ。ここは図書館ですから、音を立てないようにしているだけです」
かつて雪洋が予言したことが現実になった気がした。今にとても素晴らしい女性になる、というあの予言。
だが「人一倍丁寧」と言われたことに、うっすらと冷や汗が流れる。
沢村が書庫を眺めたまま口を開いた。
「ここの棚さ、前はほこりがすごかったんだけど。ある時からきれいになっていって、しかも維持されてんだよね。毎日誰かが手入れしているってことだ」
免疫力に難ありのこの体に、書庫のほこりっぽさは害になると本能的に感じた。
「それに床に散乱してた本の山も、いつのまにかきちんと角がそろって積まれてる。これやったの、天野さんでしょ?」
書架からあふれ、床にそびえる膨大な本の山。うっかり古書の角で肌を傷つけでもしたら、雑菌に負け、誤作動を起こした免疫系が美咲自身を攻撃しかねない。
「毎日では……ないですけど……。勝手をして申し訳ありません」
「やっぱり天野さんか。や、叱ってるわけじゃないよ。むしろかなり助かってる」
「いえ……なんというか……」
それもこれも自分のためとは言えず、苦笑するしかない。
「みんなそういうとこに意識いかないし、俺一人じゃ書庫の整理も追いつかないし」
「皆さんはお忙しいですから」
こんな会話はいつ誰が聞いているかわかったもんじゃない。角が立たないように言葉を選ぶ。
「君だってあちこち手伝わされて忙しいはずだ。それでも周りに気が利くのは、気持ちにゆとりがあるってこと。行動に無駄がないから余裕が生まれる。天野さんには司書資格取ってもらって、ここに残ってほしいくらいだな」
沢村が再び資料に向かう。
そのゴツゴツした指に、結婚指輪はない。
どちらかと言えば洗練された部類の男ではないのだが、家で調べ物に没頭して徹夜し、うっかり無精ひげのまま出勤したときなどは、男くささに色気を感じたものである。
――雪洋が中性的だったから、単に男っぽさを新鮮に感じただけかも知れないが。
「ありがとうございます。でも私、上品なわけじゃなくて、ドジをするからおっかなびっくり物を扱っているだけなんですよ」
「そういうことをね、自覚してるか否かが大事なんだよ」
だめだ。
何を言ってもいいように解釈されてしまう。
美咲は業務に戻ることを告げて、踵を返した。
「いた……っ」
ふくらはぎに熱い痛みが走った。
乱雑に積まれたダンボールの角に足をこすってしまったのだ。さっきまではなかったはずなのに。
「やだ、先生に叱られちゃう」
不覚。足にうっすらと赤い一文字が浮き始める。
「大丈夫? ……今、『先生』って言った?」
背後から沢村の声。
「いえ、なんでもありません」
美咲はごまかし、書庫を出た。
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