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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(1)

あらすじあとがき

第1章 「異常なし」

  ●もうやめた

市内にある高坂こうさか総合病院。
皮膚科診察室。
天野美咲あまのみさきさんですね」
白衣姿の若い医者が所見を述べる。

「検査の結果は――」
うつむいて次の言葉を待つ。
膝に乗せた、節々が不格好に腫れている手指をにらみながら。

「特に異常無しですね」
「――え?」

医者の言葉に思わず顔を上げる。
目が合ってしまったので、また自分の両手へ視線を落とす。

「異常……無し……」
医者の言葉を力なく復唱する。
この病院で何回目か。

異常無し――
ならばこれは、なんなのだ。

両手の指は、ペンダコのようにコブができ、シモヤケのように色も悪い。会社で「その指どうしたの?」と聞かれるたびに、返答に困っていた。

説明のしようがない。
なぜなら医者たちが口をそろえて「異常無し」と言うのだから。

そしてこの足。
まだ二十二歳だというのに、老人のように関節が痛い。立つのもしゃがむのも激痛を伴い、日常生活が辛いものへと変わってしまった。

膠原病こうげんびょうでもリウマチでもないようです。血行をよくするお薬出しますね。それでしばらく様子を見ましょう」

そんな薬はもうとっくに別の病院で出された。
言われた通りきちんと服用も塗布もした。
ずっと様子を見ていて異常と思ったから来たというのに――
医者の目を直視することができず、胸元のネームプレートに向かって心の中で反論する。

そのネームプレートに、違和感があった。
何だろうこの感覚は、と思ったが、それはすぐに心の片隅に追いやられた。
今は「異常無し」と言われたことへの絶望感や虚無感の方がはるかに勝る。

顔は勝手に、愛想笑いを作っていた。
「わかりました」
なんだこれは。嫌になる。
なんの笑いだ。あきらめか落胆か。

「他の病院でも同じこと言われましたし。異常がないとわかっただけでも安心しました。ありがとうございました」

よくもまあペラペラとそんなセリフが出るものだと、我ながら感心する。
そんなこと、一つも思っていないくせに。

もうやめよう。
もうやめよう、こんなこと。

どこの病院でも、どの医者でも言うことは皆同じ、「異常無し」。異常が無いと言われたら、もうここへは来られない。

じゃあどうしたらいい。
いつかは治るのか?
それともずっとこのままなのか?

もうやめた――

胸の内を充満させたその想いは、聞こえるか聞こえないかの振動となって、無意識に口から出ていた。顔の筋肉も愛想笑いをやめてしまった。

医者がこちらを見ているが、何を言うでもないのでバッグを持って立ち上がる。
――帰ろう。

「天野さん」
返事をする気力もない。
「経過を診ますので二週間後にまた来てください。もしもその前に何かありましたら、すぐ来てくださいね」

何かありましたら?
今のこれは何かあった状態ではないというのか。

「はい」

何の感情も期待もこもらない声。
すぐに背中を向ける。
もう用はない。

「必ず来てくださいね」
「……失礼します」
先生とも、二度とお会いすることはないでしょう。

もう、やめた――

天野美咲、二十二歳。
二十歳を越えたあたりから現れた体の異常は、いくつもの病院を受診するも回復の兆しを一向に見せない。

希望を失った美咲は、これを最後に以後五年間、病院へ行くことをやめた。

  ●提案

「ごめん。俺、もう無理だ」

明かりを落とした暗い部屋、ベッドに横たわる美咲から体を離す彼。全身の激痛に耐え切れず、美咲の顔は苦悶に満ちている。

「お前もさ、体辛そうだし、一人の方が気ィ遣わなくていいだろ?」
「……うん、そうだね」

美咲は生気のない声で答えた。
終局が、目前に迫っている。

「じゃあもう、終わりにしようか」
「……うん、そうだね」

彼が照明をつけた。
美咲の長い髪は艶もなくシーツに広がっている。

服を着込みながらちらりと美咲の足に目を向けた彼は、一度ぶるっと身震いした。
美咲は目をそらし、身震いされたことを見なかったことにした。

彼が立ち去った。
もう二度と会うこともない。

明日からは、一人だ。

病院通いが途絶えてから五年。
二十七歳になった美咲の体は、いよいよ悪化の一途をたどっていた。

美咲は左手の薬指から指輪を引き抜くと、しばし指の痛みに悶えた。やがて痛みが引くと、シーツの上に力尽きたように腕を落とす。

どこへ行けばこの体に決着をつけてくれるのか。
体中が痛い。
体中が異常だと叫んでいる。
元の生活に、本来歩むべき人生に、どうか戻してほしい。

一体どこで道を誤ったのか。
一体どこにこの祈りをぶつければいいのか。

どうせ病院に行ったって何も変わりはしない。何度症状の説明をしても返ってくる言葉は、「異常無し」「原因不明」「様子をみましょう」――

痛みは五年の間に、耐えられないレベルにまで達していた。

激痛は全身に走っている。
寝ていても痛みで目が覚める。
寝不足は更なる体調不良を招き、悪循環の渦へとはまっていた。

  *

会社の給湯室で、小さな悲鳴が上がる。
気を遣って抑えながらも、しかし確実にその声は怯えている。

「天野さん、それどうしたのっ?」
給湯室に入ってきた同僚の女性が指差したのは、美咲の足。赤く小さな斑点が、ふくらはぎにびっしりと出ている。

見られないようにいつもパンツスタイルにしていたが、裾をめくってこっそり症状を確認していたところを見られてしまった。

「病院行ったの?」
「いえ……そのうちに治ると思って」
「これはそのうちに治るレベルじゃないって。いいから病院行きな!」

同僚の忠告に苦笑しながら曖昧にうなずく。
病院、か……。
重いため息が無意識に出る。
男は逃げ、女には悲鳴を上げられ、そして医者にはまた見放されるのだろう。

でも、これはさすがに行かなきゃだめかな。

五年前にはなかった足の気味悪い皮膚異常を見つめ、美咲は重い腰を上げた。

とりあえず、会社のすぐそばにある小さな個人病院へ行く。皮膚科医は一目見て「特発性色素性紫斑」と診断を下した。

「衣類の刺激とか、毛細血管が弱いとか、可能性は色々あるんだけど。基本的に原因不明で根本的な治療法はないんです」

医師の説明に一瞬めまいを覚えたが、それでもすぐに診断名が下ったことに安堵した。
皮膚は弱い方だし、暑くてジメジメしてたから、きっとそうだ。――安心したことで、原因も自分で納得するものを選出する。

処方されたビタミン剤と血管強化剤、塗り薬をもらって毎日せっせと服用、塗布を繰り返した。
おかげで紫斑は沈静化した――ように見えたのは一時だけ。回復するより先に、またびっしりと紫斑が出た。
同僚にもまた悲鳴を上げられた。

「開業医じゃなくて、もっと大きな病院行かなきゃだめだよ。ほら、高坂総合病院って市内にあるでしょ? あそこの皮膚科って割と評判だからそっち行きなよ」
「どうせ行っても変わらないと思いますけど……」
「いいから行きなって。総合病院だから他の痛いところも全部診てもらいなよ」

世話焼きの同僚にけしかけられ、翌日の有給まで取らされた。

他の痛いところ――
そんなもの、数え切れないほどある。

でもどうせ、これもいつものこと。
美咲は自嘲気味に苦笑した。

  *

翌日。
高坂総合病院――
五年前、最後に訪れた因縁の病院。

「何が評判の皮膚科だ」
異常だらけのこの手を見ても「異常無し」としか言わなかったくせに。

恨み辛みを胸に抱きながら、美咲は痛みで苦労しながら車を降りた。足を引きずって歩きだすが、すぐ止まる。足の裏と関節、それに全身の筋肉が痛みに襲われていた。

息を整え、美咲は再び足を引きずって歩き出した。

「天野美咲さん?」
「はい」

皮膚科診察室の主は、座っていながら長身を思わせるひょろりとした体つきで、シルバーの細いフレームのメガネをしていた。

年は四十代前半といったところか。
胸元のネームプレートには「高坂総合病院 皮膚科部長 瀬名邦彦」とある。

「君が天野美咲さんか」
瀬名は笑みを浮かべ、メガネを指で押し上げた。目の前に座る美咲をレンズ越しにまじまじと眺める様は、楽しんでいるようにも見える。
「君が」と強調し、こんなに凝視される覚えはない。

「あの、何か」
「いや失礼。天野さんは前にもここを受診したことがあるのかな?」
「五年前に一度……」

瀬名は五年前に「異常無し」と言った医者ではない。顔はまったく覚えてないが、あの時の医者はこんなに長身ではなかったし、もっと若かった気がする。

「そっか五年前か。今日は……紫斑だね? じゃ、足見せてくれる?」
受付で書いた問診票を見ながら瀬名が言った。

ジーンズの裾を左右膝までまくり上げると、瀬名がメガネを指で押し上げた。何も言わずに足を見つめて、再び問診票に目を通す。

「天野さん、特発性色素性紫斑って前の病院で言われたみたいだけど、何か検査はしたの?」
「いえ、お医者さんが一目見てすぐに……。違うんですか?」

美咲は眉をひそめた。
こっちは一ヶ月も真面目に処置していたというのに。

「うん、検査はした方がいい。それでね、天野さんにはまたご足労かけちゃうんだけど、一つ提案があるんです」

ご足労と聞いて内容を聞く前にうんざりする。体は泣くほど痛いし、診察室に呼ばれるまで散々待たされて疲れ果てていた。

「僕の知り合いがやってる病院に紹介するから、そこに行ってもらえないかな。天野さんの住所見るとすっごい近くなんだけど。『こうさか医院』って知らない?」
「さあ。引っ越して何年も経ってないのでよくわかりません」

辟易している美咲を見て取り、瀬名は穏やかに語り始めた。

「色んな病院をまわって嫌になったよね。でも僕が言うのもおかしいけど、うちの病院にわざわざ通うよりは、その医院でじっくり診てもらった方がいいと思う。地理的なことだけじゃなく治療の面でもね。小さな医院だけど、優秀な医者だから大丈夫」

無意識に深いため息が出た。
この体でまた歩くのかと。

それに紫斑のことだって、検査をしたところでどうせまた「原因不明」とか「異常無し」と言われるに決まってる。

「……わかりました。行ってみます」
決して乗り気ではない返事をする。

「よかった。じゃ、明日すぐ行ってくれる?」
「明日……っ、ですか? でも、しご……」
「まさか仕事?」

明日は土曜で休みだったが、今日の遅れた分を少しやっておこうと出勤するつもりだった。

「仕事なんて言ってる場合じゃないよ。紫斑もだけど、このこじれた傷も、やることやらないと悪化してもっと痛い思いするよ?」

何言ってるのそもそもあなたたち医者が一人一人もっときちんとやってくれればこんな思いしなくて済んだのよ冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃないのよふざけんな。

「それでね、さっきこうさか医院の先生に話したら、明日の午後二時に来てほしいそうだよ」

さっき? 呆れた。
診察する前から転院させる腹だったのか。
初めから診察する気などなかったんじゃないか。

何が評判の皮膚科だ。
ここの医者は昔からろくに診てくれないじゃないか。

「わかりました。二時に伺います」
「うん、必ず明日受診してね」

険のある声で答えてやったのだが、瀬名はなぜか楽しそうな声だった。



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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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