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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(24)

第1話あらすじ

  ●自立準備

冬の厳しい寒さを何とかすり抜け、春の盛りが過ぎ、今は五月の陽気が続いている。

朝の散歩、最近は毎日している。
膝の痛みが嘘のようになくなったから。
痛むこともあるが、時々だ。

今日も痛くない――
それだけで、何よりもありがたい。

美咲は雪洋のもとで穏やかな日々を過ごしつつも、着々と自立への準備を進めていた。

明るく前向きになった美咲の様子が嬉しかったのだろう。雪洋も美咲にいろんなことを教えてくれた。

体質に合った食べ物の選び方、様々な症状の仕組みと対処の仕方、歩かずに脚力を鍛える方法、社会復帰したときに想定される様々な困難への立ち回り方――

「一日五分でもいいから、自分を見つめる時間を持ちなさい。熟慮して出した答えなら、自分の芯となって、少々のことでは動揺しなくなります。それから、焦って下手に物事を引き受けてはいけませんよ。常に先のことまで見通して、余裕を持って対応すること」

「先生、もしも想定外のことで今すぐ答えなければならないときは?」

「それでも深呼吸するくらいの時間はあるでしょう。いいですか、今後の生活で自分のあり方を決めるのは自分自身です。必ず自分の内面に目を向けて、心と体の両方をよく観察してから答えを出すんですよ」

「はい、先生」

美咲は雪洋に教わった通り、じっくりと自分と向き合って思惟することを習慣とした。

瞑想するように、静かに心の整理をすることは、思いの外心地良い。凛とした一本の芯が、自分を支える。「これでいいんだ」と思えるところまでわだかまりを削ぎ落としていくと、研ぎ澄まされた自分が現れ、清々しい境地になれた。

あと二ヶ月もすれば、約束の丸一年。
この家を離れ、雪洋のいない生活を始める。

さて、これからのことをどうするか。

持病のある身だ。定期的に通院もあるし、万が一のことを考えれば経済面は避けて通れない。
美咲は電話帳をめくり、あるところへ電話をかけた。

「もしもし、お尋ねしたいのですが……」

  *

今日は薬をもらうため、こうさか医院で診察を受ける。

「先生、これお願いします」

診察室で雪洋に手渡したのは、特定疾患の医療費受給者証交付のための必要書類。保健所に相談し、もらってきた。

「いつの間にこんなものを」

受給者証を持つことは、まぎれもなく難病患者だと言っているようで抵抗はあるが。

「いざって時に、一人でも大丈夫なように」
「一人でも……」
雪洋の顔が曇った――ように見えた。

「先生、もうすぐで一年ですよね」

雪洋を見つめて微笑む。
雪洋は美咲を見つめ返したあと、目をそらして「そうですね」と応えた。

「受給者証があれば金銭面だけじゃなく、迅速な処置を受けるためにもいいかなと思って。事故とか災害とか、また意識を失ったときのために」

雪洋が眉間にしわを寄せている。

「いけませんか?」
「……いえ」

指で眉間をほぐしながら、雪洋は「わかりました」と承諾した。

  *

「ありがとうございましたー」という声を背中に、美咲は調剤薬局の自動ドアから外に出た。一年前とは違う颯爽とした足取りで、太陽に向かって微笑む。

目的が決まるとこうも前向きになれるものかと、我ながら関心する。

太陽に向けていた顔を地上に戻すと、道の反対側を若い男女が歩いていた。

女の子は男の腕に嬉しそうにくっつき、男は照れくさいのか、少し迷惑な顔をしてみせている。
明るい声が、美咲の耳にも届いた。

一緒にいる女の子は、容姿がとりわけ目立って美しい子ではなかった。
ただ、「普通の」女の子だった。

若々しくかわいらしい仕草と、女の子らしい服装。スカートから出ている健康的な足に、もちろん紫斑などあるはずもない。

美咲は寂しいような羨ましいような気持ちで彼らを見つめていたが、
「大丈夫。自分で決めたことだもの」
静かに言い聞かせると、彼らとは別の道を歩き始めた。

  *

「美咲、これを保健所に持っていきなさい」

リビングでくつろいでいると、雪洋が紙の束をよこした。この前頼んだ受給者証交付のための書類に、検査結果などが添付されている。

「ありがとう先生!」

美咲の明るい声とは逆に、雪洋はまたも眉間にしわを寄せている。

「先生、この前からどうしたんですか? むっつりしちゃって」
今回は美咲が眉間をほぐしてやる。
「そうですね……。思うに、娘を嫁に出す父親の心境のような……」
低い声で不機嫌そうにつぶやく。

「もうすぐ一年だとか、一人で倒れたときの用意だとか……。いや悪いことではないんですが。退院後の話を楽しそうに話されると、その、美咲の中ではもう新しい生活が始まっているんだなと……」
「あら、寂しいってことですか? やだ先生かわいい」
「そういう身も蓋もない言い方を……」

「でもね、先生には先生の人生があるんですから。私が巣立ったあとは、先生も自分の人生を成功させてくださいね」
「……なんの話ですか?」
「前に大切な人がいるって言ってたじゃないですか」
「ああ、そんな話もしましたか」

雪洋が眉間に指を当てた。
またしわが寄っている。

「年頃の女性がいつまでも同居してたら、先生の大切な人がいらぬ誤解をするでしょう?」
「だから早く出ていくと?」
「そうですよ。そしたら先生だって、私に費やしていた時間をデートにあてることもできるし、結婚してこの家で暮らすことだってできるでしょう?」

眉間にしわを寄せたまま、雪洋は腕を組んで顔を横に向けた。

「……手を出せない人だと言ったはずですが」
「亡くなった方なんですか?」
「いいえ」
「だったら人生なんてどう転ぶかわかりませんよ」

雪洋は少しいらついた様子で髪を掻きあげ、「あんな話、しなければよかった」とつぶやいた。

「先生の幸せを邪魔することだけはしたくないんです。私がいたら、今度は先生の貴重な時をだめにしてしまいます。だから――わかって、先生」

雪洋は何か言おうとして口を開いたが、一度口をつぐみ、ため息をついた。

「随分と強くなりましたね」
美咲は迷いのない目で笑った。
「進むべき道が見えましたから」


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