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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(36:最終回)

第1話あらすじ

花火の打ち上げはとうに始まっている。
華やかな音と彩りに急かされながら丘を登り、頂上が見えたところで美咲は足を止めた。
万が一雪洋が誰かと来ていたら、そっと帰ろうと思っていた。

花火の明るさを頼りに目を凝らす。
だがそこには「誰か」のみならず、人影はひとつもなかった。

「いない……か、やっぱ……。そりゃ、そうだよ……ね……」

雪洋と約束したわけではない。
あちらに行けと言われたくらいなのだから、ここに雪洋がいる保証など、はなからなかった。

来る途中に見えた雪洋の家に、灯りはなかった。家にも丘にもいないのなら、きっと今夜は別のところで、誰かと花火を見ているのだ。

「さ……さすがに、足が……」

走れたことは嬉しいが、一気に疲れが押し寄せる。両膝に手をつき、肩で息をする。足の裏もジンジンと痛み始め、腫れる準備をしていた。

いないとわかっていても、足を腫らせても、薬を服用することになっても――それでもここに、来たかった。

だから、これでいい。
ここに来たことに、後悔はない。

「大丈夫、一人でも、生きていける……」

雪洋の幸せを望み、自分は心のままに、こっそりと雪洋を思ってゆく。
それが今の美咲が決めた道。

「それに……しても……つ……疲れた……」

膝ががくがくと震える。
腰を屈めたままなかなか上体を起こせない。
ついには吸い込まれるように、遊歩道のコンクリートへ膝をつく。

荒い呼吸の隙間に、すぐ後ろで木の葉を踏む音がした。反射的に振り向く。

「つかまりますか?」

薄暗い中、手を差し伸べる人物。
顔に焦点が合う前に、美咲にはそれが誰なのか、本能的にわかってしまう。

声が、匂いが、シルエットが、すべてが雪洋のものだと言っている。

はい――声にならない。
息切れのせいなのか、泣き出したからなのかはわからない。

疲労で震える手を伸ばすと、雪洋は、優しく、でもしっかりと手首を握って、引っ張り上げてくれた。

「元気ですね、走って来るなんて。体、痛くないですか?」
「もう、無理です……」

花火の不規則な光が横顔に当たる中、雪洋が呆れたようにため息をついた。

「先生が、助けてくれた体、また痛めつけて、ごめんなさい。それでも私、どうしてもここに……」

まだ落ち着かない呼吸で切れ切れに言うと、雪洋がまたため息をついた。今度は微笑んでいるような、優しいため息だった。

雪洋が背を向けてしゃがむ。
「乗りなさい」
「えぇっ? おんぶですか?」
「美咲はもう歩けないでしょう?」
「……重いですよ」
「あなた一人くらい軽いものです」
「汗かいてるし……」
「今さら汗ぐらいで何言ってんですか」

……そりゃ、汗よりもっとすごいもの見せてきましたけども。

「失礼します」と言って、美咲は雪洋の背に体をあずけた。

 

美咲をおぶった、雪洋の足音、雪洋の息遣い――
花火の音に掻き消されてしまうのが惜しい。

「先生、もう来ないのかと思いました」

雪洋の肩に、気付かれないよう、そっと頬を寄せる。鼻腔をくすぐる雪洋の匂いがたまらなく懐かしく、愛おしい。

先生、好きです――

触れた部分から、自分の吐息から、思いが伝わってしまうんじゃないかと本気で心配になる。

頂上に到着。
雪洋の背から降りて、二人でベンチに座る。
花火はまだ、向こうの夜空を彩っている。

雪洋が花火を見つめながら、美咲に問う。
「どうしてここへ来たんですか? あちらの彼の方へ行きなさいと言ったのに」
言葉に詰まって、質問を返す。
「先生こそ、どうしてここへ来たんですか? 約束したわけじゃないのに。――あ、誰かと待ち合わせなら、私、帰りますけど……」
雪洋が横目でちらりと美咲をとらえた。
「美咲と同じ理由ですよ」
薄く笑みを浮かべている。

まさか、と思いながら必死に冷静さを装う。
「同じ理由って、何ですか?」
きっとからかっている。
本当に同じ理由のわけがない。

「だから同じ理由ですよ。わかるでしょう?」
見透かすような目をして顔をのぞきこんでくる。
「わかりません! あり得ません! というか先生その言い方ずるいです!」

いつもより顔が近い。
美咲の領域に、雪洋が深く入ってくる。

花火だ。
花火の音で声が聞こえづらい。
だからいつもより近付いているんだ。

頭の中でごちゃごちゃと考える。
嬉しいよりも気恥ずかしい方が勝って、ベンチの上で後退りする。

「それで? 美咲はどうしてここへ来たんですか?」

後退りした分、雪洋が詰めてくる。
声がいつもより輪をかけて優しい。
優しいというよりも、囁くように言っているせいか、やけに――セクシーだ。

「どうしてあちらではなく、ここに来たんですか?」

伏し目がちに見下ろしているところがまた、男の色気を感じた。いつもと違う雪洋に面食らう。いつもより、男性的な雪洋に。

「いいじゃないですかもう!」
そっぽを向いてごまかす。だが――
「よくないですよ」
雪洋の手が美咲の頬に伸び、顔の向きを戻された。目の前にさらに近付いた雪洋の顔がある。

――このままではどうにかなってしまいそうだ。
恋心が胸を突き破って飛び出してしまう。

「美咲に自分の道をしっかり歩んでほしくてのあの一年だったんですよ? それなのにあちらとの約束を守らず、こんなところへ来て」
「ややや約束は守りました! ちゃんと先にあちらへ行ってきました!」

絶対からかっている。
雪洋の顔は、どこか楽しんでいる。

「お付き合いはできないと、丁重にお断りしたんです!」
「おやそうなんですか。もったいない」
「だからここへ来たんです」
ふうん、と気のない返事がくる。
「それだけですか?」
見透かすように笑っている。

何を狙っているんだ。
何を言わせたいんだ。

「ほら、早く答えなさい」

雪洋に告白するつもりはない。
大切な人への思いの深さは知っている。
それを邪魔してまで、自分の方へ振り向かせようという気はさらさらない。

ただ、好きでいたい。
思い続けていたい。
それだけだ。

「先生とまたゆっくりお話したかったし……」
「それもありますけど。美咲は一番大切なことを隠していますねえ」

限界だ。これ以上心乱されたまま、雪洋と舌戦など敵うはずがない。

「先生どうしたんですか? なんかいつもと違います!」
翻弄され半泣きで抗議したが、雪洋は何も言わずに笑うだけだった。

「先生こそ、今日はあの人と来ればよかったじゃないですか!」
負けじと噛み付くように言ってやる。
雪洋は眉を上げて涼しい顔だ。

「どの人のことですか?」
「先生の大切な人のことです!」

目を合わせずに、ただ一心に花火を見る。

「私のことより、先生は先生で――あ、そっか、まだ手が出せない状況なんですね。……すみません」
「ああ、それなんですが」
雪洋が嬉しそうに目を細めた。
「状況が変わりましてね。手が出せるようになりました」
「……ついに人妻が離婚でもしましたか」
雪洋が盛大に笑う。
美咲の顔は引きつる一方だ。

平常心、平常心。
先生が幸せになろうとしているんだもの、応援しなきゃ。

「おめでとうございます。これで先生は幸せまっしぐらですね……っ」

いけない、喉が詰まってきた。
……泣きそうだ。

「まだ決まったわけじゃありませんよ。相手の気持ちを聞いてませんから」

花火に向かって精一杯笑顔を作る。

「私、すごく感謝しているんです。だから先生、本当に幸せになってください。応援してますから」
「そうですか。じゃあ頑張らないといけませんね」
「そうですよ」

できる限り自然な笑顔を――だめだ、泣く。
花火から目が離せない。

雪洋に突然、左手を取られた。
何事かと思っている間に、
「――この指輪、まだこんなところにしていたんですか?」
中指にはめていた螺旋の指輪をするりと抜き取られた。奪われた物の重大さに気がつき、一気に焦りが襲う。

「何するんですか先生! 指輪返せってことですかっ? そんな、私、指輪まで取り上げられたら……っ」

雪洋のことをあきらめて、その上繋がっている証まで失ったら、一体何をよりどころに生きていけというのだ。
取り返そうと必死に手を伸ばすが、あっさりかわされる。

「いいから見てなさい」

左手の中指から抜き取られた螺旋の指輪が、隣の薬指へ通される。雪洋が螺旋を少しだけ締めると、指輪は薬指にぴったりと収まった。

「わかりましたか?」
穴が開くほど自分の薬指を見つめる。
「……わかりません」
「繊細なわりに鈍いですね」
「だってこの指……っ」
「痛いですか?」
「そうじゃなくて!」

左の薬指の意味は雪洋も知っていたはずだ。

「では何か異論があるんですか?」
――ということはやはり「そういう意味」で雪洋は薬指に指輪をはめたのか。
「異論ありますよ! だって先生、大切な人はっ? あきらめるんですかっ?」

二番目でいい、とは思っていたが、妥協してほしいという意味ではない。

「あきらめてません。あのね美咲。あなたが『大切な人』って言っているその人の名前はね、天野美咲というんですよ」

目を見開いたまま、美咲の時が止まる。

「今度こそわかりましたか?」
「うそ……」
「うそじゃありません」
「同姓同名?」
「しつこいですね」
「だって人妻は?」

雪洋がぷっと吹き出した。

「人妻だなんて一度も言ってませんよ。私はずっと、美咲のことを言っていたんです」
「うそ、だって今までそんな素振り一度も……。それに手を出せない人だって言ってたじゃないですか」

手を出そうと思えば、いくらでもその機会はあったはず。しかし雪洋とは体の接触は多々あったものの、それは医療行為であり、男として美咲に接していると思ったことは一度もない。
互いに抱き合ったときも異性としての行為ではなく、人間愛だったり、師弟愛だったり、あるいは雪洋の母性といったものだった。

「当たり前でしょう。アパートを引き払い、他に行く場所がない状況を強引に作らせておいて、それで手を出すなんてどれだけ最低ですか。何より第一の目的は、美咲が自分で歩けるようになることでしたから。私は『終始医者』でいなければなりませんでした。白衣を着ようが、着ていまいがね」

雪洋はずっと――
「だから、手が出せない人だと言ったんです。大した平常心でしょう?」
ずっと、心に白衣を羽織っていたのだ。

「私の役目も終わりです。美咲はちゃんと自分で歩けるようになりましたから、『終始医者』でいる必要はもうないでしょう。風向きが変わったら迷わず進めと言ったのは誰でした?」

信じられない。
目頭が熱い。
――泣きそうだ。

「私が幸せになるためには、まずもって美咲の気持ちを知りたいんですが」

美咲は両手で口元を覆った。
もうだめだ、本当に泣く。

「あ、診察は今後も受けてくださいよ。医者として『だけ』接するのはやめるという意味ですからね。主治医であることには変わりませんから。もちろん音信不通なんて言語道断ですよ」

ぷっと吹き出したおかげで泣かずには済んだが、笑った目から涙がこぼれた。

「先生、やっぱり根に持ってるんだ」
雪洋も一緒に笑い、美咲の涙を指で優しく拭う。

「でも私、こういう体ですよ?」
「誰に言っているんです。百も承知ですよ」

そう、誰よりも雪洋が、美咲の体を知っている。

「ずっとそばにいなさいと言っているんです。『病める時も健やかなる時も』ですよ。あとは、美咲がどうしたいかです」

私がどうしたいか――

雪洋と出会ってから幾度となく溶かされ、はがれ落ちていった心の壁。一番かたくなだった最後の一枚が、熱く、でも心地よく、溶けて浄化された。

言おう。
ずっと隠してきた、本当の願いを。

「私もずっと、一緒にいたいです」
胸の奥が、太陽のようにあたたかく、光り輝いた。
「先生のことが、……ずっと、好きでした」
この丘で二人で見た、あの朝日のように。

雪洋が優しく抱きしめる。
「ね? ほら。私と同じ理由だったじゃないですか」
雪洋の声が、耳元で振動と一緒に伝わった。

「『憧れの愛の言葉』は前に聞いたでしょう? あれは、あなたに言ったんですよ」
――好きですよ。
好きだし、とても深く愛しています。

急に体温が三度くらい上がったかと思った。
顔が溶けそうだ。

「もう一度聞きたいですか?」
「いぃ……いえっ、それはまた、次の機会に……っ」
これ以上熱が上がったら、顔だけじゃなく全身が溶けてしまう。
「案外照れ屋ですね」
「もうキャパ超えなんですっ」

雪洋の大きすぎる器から大量に愛情が流れ込んできたら、美咲の小さい受け皿ではすぐあふれて溺れてしまう。

雪洋が笑って、互いの額をコツン、と軽く合わせた。
「随分遠回りをしてしまいました」
長い間決して交わることのなかった二人の道が、ようやく寄り添い、一つになった。

余韻に浸っていると、突然、合わせていた額をぐりぐりと押し付けられた。

「まったく! 人の気も知らないで告白しろだのなんだのと、好き放題言ってくれましたね。私がどれだけ身を切る思いであなたを外の世界に送り出したと思っているんですか。挙げ句の果てにせっかくの良縁をわざわざ棒に振って! 瀬名先生もおもしろがって私を焚きつけてくるし!」
「いだだだだっ、す、すみませんっ」

やっぱり全部漏らしてたのかあの男!
瀬名を罵りつつ、なんとか雪洋の額から逃れる。

「ばかですね。本当にばかですね!」
「すみません、だって……っ」
叶わぬ恋とわかっていても、雪洋を思っていたかった。

「本当に、ばかですよ……」
急に、雪洋の声音から怒気が抜けた。

「私を選んだからには、もう遠慮はしませんよ」
さっきまでの、美咲をからかって楽しんでいる顔は、もうそこにはなかった。

「はい、先生」

今度は額ではなく、互いの唇を合わせた。
二人を祝福するように、花火が次々と夜空に花開いていった。

  *

高坂雪洋が教えてくれたこと。

治るか治らないか――ではない。
治らないと言われたらそこで終わり――でもない。

丘の上で、左手を太陽にかざす。
螺旋の指輪が、薬指で光を受けた。

「美咲はこれからどうしたいんですか?」
隣で雪洋が美咲を見下ろす。

図書館の契約更新は、やはりならなかった。
決して持病が原因ではない。

沢村は他言しなかったし、むしろ最後まで美咲を気遣ってくれた。美咲の指輪が薬指に移ったのを見て、おめでとう、と笑ってくれた。
沢村には感謝してもしつくせない。

「どうしたいか……ですか」
指輪をなでながら考える。

「何かやりたいこと、ないんですか?」
「うーん……。先生は?」
「私はありますよ」
「えっ、なんですか?」
「気持ちとタイミングが合うなら、結婚したいと思っていますが。どうですか?」
「結婚!? ――って、私と?」
「当たり前でしょう。他に誰がいるんです」
「……先生って意外とストレートに愛を伝えますよね」
「意外ですか? 私はここに指輪をはめた時からそのつもりでしたけど?」

美咲の左手を取り、薬指の指輪に触れる。

私、今、先生からプロポーズされてる――
自覚した途端に、顔が熱くなる。

やれやれと眉を上げて見下ろす雪洋に、美咲は慌てて口を開いた。

「えっ、あの、じゃあ、先生のご両親にご挨拶しないと! こういうときって何着たら……。あっ、うちの親のお墓と、あと姉夫婦にも……」

雪洋が目を細めて笑っている。
「良かった。美咲の中ではもう結婚準備が始まっていますね」

こんなふうに、二人で将来の話をするなんて。

「……そうですよね。やりたいこと、やらなくちゃいけませんよね。せっかく白い道が続いているんだもの」
「そうですよ。美咲の好きなように生きなさい」

こんなふうに、未来に希望が持てるようになるなんて。

「でも結婚を保留にだけはしないでくださいよ。美咲はいつも――」
「はい、先生。わかってます」
雪洋の愚痴を止める。

「これからもよろしくお願いします。――病める時も、健やかなる時も」

空を見上げると、真っ青な空に、真っ白な飛行機雲が走っていった。

これから二人で歩んでゆく、長く白い道のように。


  ――fin.――


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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…

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