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手に負えない物は手放す

最近、江戸時代の暮らしにちょっと憧れている。とは言えまったく家電製品がなくては困ってしまう、持病あり現代人でもあるのだが。

昔のテレビは映りが悪くなっても叩けば直った。洗濯機の排水が上手くいかないときも、部品を眺めていればなんとなく仕組みがわかって、なんとかできちゃったりしたものだ。

だけど文明はどんどん進む。テレビも洗濯機もやたら精密になってしまって、不具合が出たら素人には手に負えない。町の電器屋さんですら、「今の物はメーカーに依頼するしかないんだよね」とお手上げ。叩いて直そうなんてもってのほか。

私たちの暮らしは、いつの間にか手に負えない物ばかりに囲まれている。AIなんていう新人類まで誕生してしまった。

  *

さらにお手上げな物が、私と母を悩ませている。父の仕事関係の遺品だ。

父は母屋の隣に大きな作業場を建て、溶接の仕事を請け負っていた。重機も持っていたし、雪かき用の機械も自作した。

「はっちゅう(80歳)までは無理だな」
と溶接仕事の期限をある程度決めていた父だったが、74歳で急逝してしまった。

「だから溶接の機械は早めに処分しろって語ったのに! はっぱりこれだもの!」

四十九日をすぎても、母は父が逝ったことを受け入れられず、時折――特に溶接機械や重機を見ると、怒り嘆かずにはいられないようだった。

生前、あの溶接機械はどうするの、遺されても困るよ、と母が噛みついたことがある。父は「簡単なことだ。俺より早く死ねばいい」と笑って言い返したが、今となっては「どの口が」と罵るしかない。

しかし母の気持ちもわかるが、父だってこんなに早く逝くとは思ってなかったはずだし、一番無念なのは父なのだ。あまり責めないでやってほしい。――けど、そうやって発散しないと母だって参ってしまうわけで。逝くのが早かったねぇ、と私は遺影に語りかけるしかない。

結果的に父は、生涯現役で好きなことをやって、溺愛していた愛犬の散歩をしてから倒れたのだから、見ようによっては天晴れとも言える。

先日、ようやく父の重機をしかるべき人へ譲った。こればっかりは私たちが持っていても仕方がない。他にも溶接の機械など、私たちの生が尽きる前に手放さなければならない物は山とある。

手に負えない、わけわからん物を遠ざけ、手に負えそうな、わけわかる物だけを身の回りに置いたら、「江戸時代くらいの暮らしがちょうどいいのかもしれない」と最近よく思う。ろうそくの火なんかは火事になりそうで怖いけども、取り扱いに難儀するような精密な物はない。

東日本大震災で4日ほど停電が続いたとき、庭にかまどをこしらえてお湯を沸かした。土や火というのはそういう臨機応変さもある。火鉢や七輪も、災害の多い今こそ一家にひとつあった方がいい気がする。

現代は、電気やインターネットが完備されていること前提の暮らしだ。それらは何かトラブルがあっても、自分たちではなんともならない。

今の文明は、果たして人類の手に負えるものだろうか。

  *

明治10年に日本を訪れたエドワード・モースは、まだ色濃く残る江戸時代の生活と、そこから見える日本人の良さを伝えている。そのひとつが、火事に遭った人たちのこと。

――このような災難に見舞われても、当人たちはまるで何かの祭りでもあるかのように微笑みを浮かべている。そして持ち出したふすまや畳を立て、その中で小さな火で魚を焼いたり、汁を作ったりしていた。彼らは普段どおり、幸せそうに見える。この一夜を通じて私は、涙を流す人も、いらだった様子の人を見ることはなかった。意地の悪い言葉も、一切聞かなかった。
(BSプレミアム『海の向こうに遺された江戸』モース著『日本一日一日』より)

災難に遭っても、いつもどおりに暮らせる昔の日本人。なんかいい。この人たちはLINEが既読にならない程度のことではイライラしないだろう。

とはいえ、テレビで見るのと実際に暮らすのとでは違う。私が子供の頃にはかまどがまだ残っていて、親戚が集まる盆暮れ正月には、薪をくべて大量のお湯を沸かすのに使っていた。私もよく火の担当をやったものだ。

たまになら楽しいが、毎日あれで飯炊きして、洗濯も洗濯板で手洗いしていたら日が暮れてしまうし、私の体力がもたないだろう。

母にも手放したいと思っているものがある。山や畑だ。税金がかかるし、草刈りも大変だ。家も広すぎて、手入れが行き届かない。

人生の終わりの頃には、余分な土地や建屋を削いで、庵のような小さな家で暮らすのが身の丈に合っていいのかもしれないね――などと、時々二人で話している。

ちょっと江戸時代を思いながら、暮らしをととのえてみようか。



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