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草刈り作業の恩恵

近頃はほぼ毎日、カマで草刈りをしている。春頃は30分程度の草むしりでバテていたのに、今ではだいぶ体力がついて、1時間こなせるように。午前、午後と、一日に二度やることも。精度も上がってきた。

今は草に加えて、竹にも目を光らせている。成長が速いし、根の広がり方も凄まじいから、ちょっと目を離すとあっという間に侵略されてしまう。地面からヒュッと生えてくる細竹を見つけてはカマで刈る。タケノコは時々、夕飯のおかずにもなる。

  *

草刈りは、心と体、どちらにも良い気がする。適度な運動は体にいいし、畑や土手の一区画を刈りきったあとの達成感は実にすがすがしい。

それに外仕事だから、ごく自然に、自分の働く姿を世の中に見せられる。――私は今まで持病による体の痛みや皮膚異常がひどかったから、それまで暮らしていた地域では多分、引きこもっているイメージが強かったと思う。実際そうだったし。

でも今は地元に戻り、忙しいながらも自分に合った生活を送っている。体調もこの二、三年は安定しているから、元気に草刈りができるようになった。世間の目を気にするような悩みもなく、堂々とかつ朗らかに――というか、本来の自分と、自分の居場所を取り戻したような、そんな安心感を得た。

草刈りは母にも喜ばれる。母が多忙で草刈り機械を動かせないでいる間に、私が数日かけて畑や土手をあちこち刈ると、
「カマも案外やるもんだねえ」
と感心された。

「土手のあの草、伸びると虫の卵がつくから。今のうちに刈ってもらってよかった。あとあんまり草長いと、機械の刃に絡むしさ。だからカマで刈ってもらうと助かるよ。本当」

母にそう言ってもらえると、ますます私のメンタルが安定する。「幸せ」とか「満ち足りる」って、多分こういうことなんだろう。人の役に立っているということが幸せに繋がるとかなんとか、アドラーも言っていたような。

母の反応に頼るだけでなく、私自身も楽しくなっている。愛犬との散歩中、ついつい目が草へ向く。次はあそこを刈ろうか。ああ、あっちは刈り方が甘かったな。土手はカマの刃が平行に入るから、スパッと刈れて仕上がりも美しいのだけど。平地だと刃が水平に入りづらくて、仕上がりもまだまだだ。――などと、職人になりきり始めている。一丁前に腰も痛い。

そして草刈りによる何よりの恩恵は、
「あー今日もよく働いた!」
と言ってビールが飲めること。「よく働いた」と言えることは、今まで「不健康ニート主婦」だった私の心の闇を、思った以上に打ち消してくれた。

全身着替えるほど汗をかいて、一日の終わりに「よく働いた」と言って飲むビールは至福である。なんの負い目もない。――そう、「負い目」を感じていたのだ今までの私は。健康上の理由とはいえ、働き盛りの二十代、三十代は全身激痛の日々で、まともに働くことも、寝ることも、起きることも、歩くことも、座ることもままならなかったから。

だけど今は、ようやく元気。私はあの激痛の日々を、「老化を先取りした期間」だと勝手に思っている。だから逆に、老後は若々しく元気にすごせるはず、と勝手に決めている。神様と契約したわけでもないのに。

  *

そういえばたしか今年は、ワーカホリックで体調を崩すので注意、というようなことが石井ゆかりさんの牡牛座の本に書いてあった気がする。草刈りもほどほどにしなければ。入院してしまってはせっかくの体力がまたリセットされてしまう。

草刈りは「大地の牡牛座」を想像以上に満たしてくれる。十五年ほど続いた痛みと鬱屈とした日々からの解放を、ようやく迎えられた気分だ。


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