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好きではない≠嫌い

あなたはサッカーが好きですか?

この質問に対して答えは2つ。

勿論、好きか嫌いかだ。

好きか?と尋ねられているのだから当然だろう。


だがそれ以外の答えも存在する。

「わからない」だ。

この返答をする人はどういう人か大凡決まっている。
質問されている物事の経験がない人だ。今の質問でいうとサッカーを経験したことがない人だ。

経験が無いのだから評価ができない、好き嫌いを判別できない、という意味での「わからない」だ。

「わからない」は私はわかる。(ややこしい)


あと私が気になるのが、「好きではない」という答えだ。

文字の意味だけで見ると「好き」に「〜ではない」という否定が入っている、つまり対義語の「嫌い」が該当するはずだ。
好きではない=嫌い なのだ。

しかし会話の中の言葉として「好きではない」を観察すると、「確実に嫌いとまではいかないが嫌い」「どちらかといえば嫌い」というニュアンスが含まれているように受け取れる。

その逆の「嫌いではない」も同様だ。「確実に好きとまではいかないが好き」「どちらかといえば好き」のニュアンスが含まれていると思う。


つまり好きではない≠嫌い となっている。


たまに「好きではない」に「好き」の意味をもたせて言う人もいるがレアケースだろう。「好き」と答えれるほど自信がない、という場合がほとんどだ。


私もこういう言葉をよく使う。

例えば相手が大のサッカーファンでそんな人から初めの質問が飛んできたとしよう。
仮に自分がサッカー嫌いだとして、「嫌いです」と言えるだろうか。相手を傷つける恐れがある。
私はこれが言えないので、「嫌いではないです」を使う。


これはただの嘘だ。


ニュアンスで相手には嫌いではないという「嘘」を伝えて安心させる。私も「好き」という言葉を用いないことにより、好きではないという「事実」をほのかに匂わせる。

文章で書くと何か高等テクニックを使っているかのような錯覚を起こすが、ただの嘘つきなのである。



そういえば過去に1回あったのだが、ピーマン好き?という質問に対して、「好きではないけど、嫌いでもない」という返答がきた。

「普通」と答えればいいではないか、と瞬間思ったのだが、これもまたニュアンスの問題なのだ。

「普通」という答えにとても抽象性を感じないだろうか。好きか?という問いが解決していない気がする。

では「好きではないが嫌いでもない」はどうか。
これは「そうなんだ」としっくり来ないだろうか?

疑問の解決度のパラメータでいうと全く同じ位置にいるのだが、後者の方がスッキリ感が強い。

何故だろうか。


0から10までの数直線を考えてみる。1ずつ目盛りが打っていて嫌いが0、好きが10とする。

好き嫌いを10段階評価すると思ってくれたらよい。

さて「好きではないが、嫌いではない」地点とはどこか?

やはり5だろう。

4だと嫌いの部類に入るし、6だと好きの部類に入れられる。
仮に5.1だったとしても「好きではない」という言葉に少し反しそうだ。


では「普通」の地点はどこか?

これも5が真っ先に思い浮かぶ。

5.1はどうだろう。

「普通」とみなしても特に問題無いように感じないか?

まとめると、上述した「普通」という意味の抽象性により、一点に定まらないのだ。4.9でも普通だし、人によっては4も普通なのだ。
だが「好きでないが、嫌いでない」は中央値に定まる、気がする。


この差が、スッキリ感を生みだす原因となっているに違いない。


気になった言葉についてダラダラ書いたが、日本語は難しいから私は好きではない。でも嫌いとは言えない。

ちなみにこれは数直線上の2である。伝わるだろうか?

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