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子育てに関する散文 - ダメなものはダメなのか

ダメなものはダメなのでしょうか。

最近では子どもから<失敗体験>を取り上げないで、という事が教育のトレンドとしてもあるようです。

子どもが何かをしたいというのは、自然な欲求ですよね。

それを拒否して、取り上げる行為は、その欲求に反することでもあります。
欲求は、それ自体、子どもが成長するために必要なものであるはずなのに。

そう頭で理解したつもりでも、なかなか実際の場面に直面するとうまくはいかないものです。

まず第1に試みたい事は、子どもの側から考える、という事です。子どもは大人と違って、自分を表す言葉を持ち合わせていないのですから。

子どもには確かに未発達な部分があります。けれど、そのお陰で大人よりも多くのものを受け入れる事が出来るのです。

哲学する赤ちゃん 亜紀書房 | アリソン・ゴプニック

「前頭前野は、脳のうちで一番ゆっくり成熟するところの一つです。大脳皮質の一部であるこの領域では、神経回路の刈り込み、強化が完了するのは20台半ばです。(中略)子どもは理性を司る脳を持たない不完全な大人なのでしょうか?そうではありません。前頭前野が未熟だからこそ、子どもは大人に勝る想像力と学習能力が発揮できるのです。」(哲学する赤ちゃん p22)

例えば前頭前野には<抑制>の機能があります。脳が他の情報を遮断し、思考を意図的に絞りこめるようにできます。大人はこれによって複雑な思考や計画を立てることができます。一方で子どもは抑制のない開かれた心が、想像力や学習能力を増大させます。一度刷り込まれた経験を、上書きして新しい可能性に開くことができるのも、子どもの大きな特性です。

また、人間には現実世界の因果関係を写した脳内マップがあり、妄想したり、遊んだり、実験したりすることで、この因果関係を統計的に正確なものにしていくようです。

当然、子どもはこの因果関係のマップが未完成です。<素朴な>と言った方が良いかもしれません。力は食べれば増し、病めば衰え、成長につれて強まり、死ぬと失われるというように、単純な結びつきで物事を捉えます。

こうして考えると、「ダメなものはダメ」と言い渡された子どもが直面する課題は二つの意味を持ちそうです。

① 抑制できない心をどうするか
② 因果関係の理解ができない出来事とどう向き合うか

どちらも子どもにとっては永遠の課題ですが、発達の段階によってはそのバランスや、解決の方法が異なってきそうです。

ですが、ここでは子どもがどの段階にいるかという事情は一旦置いておいて話を進めたいと思います。

大人が子どもに対して取る行動を以下のようなに分類してみました。

対応(1) 取り上げる / 叱る
対応(2) 気分を変える / 代替を与える
対応(3) 共感する / 共感を促す

対応(1)は強制度の高い分類です。例えば、子どもにとって危険なものが手に取りやすいところに容易に置いてあれば、危険を物理的にあらかじめ排除しておくことも必要でしょう。そうすれば子どもは危険に<気づかず>過ごす事が可能です。
一方で目の前で取り上げたり、叱ったりする行為は子どもに直接働きかけ、子どもに負荷を与えます。哲学者のスピノザ的に言えば、<自身を保存しようとする執拗な努力>によって、親との関係を保とうとしたり、取り上げられたものを取り返そうとしたりするのです。

対応(2)は課題をすり替え、気晴らしを誘う方法です。子どもの前頭前野は発達しきれておらず、大人のように注意を制御できません。すぐに<気が変わって>しまうのです。この特性から、子どもは柔軟に方向を転換することが可能です。

対応(3)こそ、子どもに寄り添う教育的な態度でしょう。共感するということは、子どもの感情を理解し、<参加の窓口を開く>ことです。ですが、子どもの気持ちは共感できたとしても、行為は同意できないから、ダメなものはダメなんですよね。親心としては、ダメなことを”わかる”ようになって欲しいものです。

ダメなことを”わかる”とはどういう状態か

人は生まれながらにわかろうとしています。
わかるべき事が、自然にわき起こるのです。

★「わかり方」の探求 小学館 | 佐伯胖

「(子どもの)認識の中での「自然なわき起こり」を触発し、より有効に自己吟味を到達させ、わかるべき事が自らの自発的選択として文化の中から選びとられて、取り込まれるのである。」「自らの認識の必然性と合致できるものを取り込み、また、そのことによって、深く文化に参加し、自らと文化の結びつけを強めていく。」(「わかり方」の探求 p12)

子どもがわかろうとしている。にも関わらず、頭ごなしにダメなものはダメ、としてしまうのは子どもの必然性を捻じ曲げる行為であるということを大人は知らなければなりません。
あるいは、子どもの中での「自然なわき起こり」が起きてないのに「わかる」ということは起きないので、これも押し付けてはいけません。

ヒトはわからないながらも、わかろうとして、ある時点でわかった!と思える状態になります。わかったという状態は、新しい公理を発見したということであり、新しい視座を手に入れたということなのです。

子どもの”わかった!”のために

子どもはダメなものはダメ、と言われた時に不満が残ることでしょう。
この不満は、疑いが残されていること、自己吟味の途中であるのにそれを取り上げられたことからきています。

大人が予期しているそれとは、違うものが子どもには見えているはずです。このズレに疑いを持っているのです。

出来ることならば、子どもの疑いを晴らすこと、またそれに付き添うことが大人ができることでしょう。
「疑う」というのもまた能力であり、つっぱりや犯行のための疑問ではなく、信じるための適切な疑問が必要になります。

また、わからないことがわかる、ということもまたわかるの内です。この状態もまた、十分に自己吟味されて、到達した結果なのですから。

哲学者のドゥルーズは、思考を出来事との出会いによって、強制的に発動するものとして捉えました。この出来事をドゥルーズは「シーニュ」と呼んだのですが、この「シーニュ」が解決の糸口になるかもしれません。

「シーニュ」もまた曲者で、思考を強制するといいつつ、簡単にどこかへ行ってしまいます。「シーニュ」を捕まえるには、努力が必要です。

この努力こそ、”適切に疑う”ということになります。

ダメなものはダメ、と言われた時に、「あ、ダメなんだ(どうせ考えても大人に邪魔される)」と思うとそこで思考はストップしてしまいますよね。しかし、「なんでダメなんだろう?」と思うことで思考はスタートします。

例えば、お母さんが「お菓子はこれ以上はダメです」と言った時、「なんでダメなんだろう?」という子どもの疑問に寄り添うのは、お父さんの役割かもしれません。


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